002_32_伝説の歌手

長旅に出る前の日、理沙は部屋を片づけていた。

洗濯物をたたむ。
不要になった書類を捨てる。
冷蔵庫の中身を確認する。
しばらく使わない家電の電源を落とす。

スーツケースを開き、服や小物を一つずつ詰めていく。

特別なことをしているわけではない。
けれど、部屋の中から少しずつ物が減っていくにつれて、理沙の中に溜まっていたものも、少しだけ薄くなっていくような気がした。

この2か月近く、気持ちはずっと混沌としていた。

まりあが亡くなったこと。
マリア・エレーナが、歌えなくなった歌手として世の中から姿を消したこと。
HALUCAで感じた違和感。
柴原の背後にあった、見えない大きな力。
小川の「肯定も否定もしません」という声。

どれも、まだ整理できたわけではない。
納得したわけでもない。

ただ、少しずつ現実として受け入れ始めていた。

悲しいことがあった。
理不尽なこともあった。
分からないことも残った。

それでも、この時間の中に、悪いことだけがあったわけではなかった。
理沙は、ふと5月末のことを思い出した。

職場での最終出勤日。

夕方、小さなお疲れ様会が開かれた。
会議室の一角に紙コップと簡単な飲み物が並び、同僚たちが仕事の話や次の職場の話をしていた。
普段は、同僚同士でそれほど深く話すことはなかった。

同じプロジェクトにいても、席が少し離れていれば、会話は必要最低限になる。
それでも、こういう日には、少しだけ距離が縮まる。
理沙は、普段あまり話したことのない同僚と、並んで紙コップを持っていた。

その同僚が、ふいに言った。

「大嶋さんって、バンドやってますよね」

理沙は、一瞬、返事に詰まった。

「え?」

「Arisa-Mistyっていう」

仕事以外の話題が、突然その人の口から出てきたことに、理沙は驚いた。

「知ってるんですか」

「はい。たまたま動画で見つけて。最初は似てる人かなと思ったんですけど」

同僚は、少し照れたように笑った。

「大嶋さんが歌うところ、すごくカッコよかったです」

理沙は、すぐには何も言えなかった。
恥ずかしかった。

会社の中で見せていた自分とは違う姿を、知らないところで見られていたことに、少しだけ落ち着かない気持ちにもなった。
けれど、それ以上に、嬉しかった。

自分が歌っていたことを、誰かが見ていた。
大きな成功ではない。
有名になったわけでもない。

けれど、自分の知らないところで、確かに届いていた。

「ありがとう」

理沙は、そう言った。

それ以上の言葉は、うまく出てこなかった。
同僚は、軽く頭を下げた。

「また歌うなら、教えてください」

理沙は少し笑った。

「そのときは」

そのときが、本当に来るかどうかは分からなかった。
それでも、その言葉は、理沙の中に小さく残った。

6月末。

理沙は、成田空港にいた。

長旅と言っても、具体的な予定が細かく決まっているわけではない。
まずはロサンゼルスへ行く。
その後どうするかは、向こうで考えればいい。

理沙にとって、それは旅行というより、いったん別の風に当たりに行くようなものだった。

湯浅、フィリップ、島崎の見送りは断っていた。
来てもらえば、きっとありがたい。
けれど、その場で何を言えばいいのか分からない。

湿っぽくなるのも嫌だった。
3人には、出発前に短いメッセージだけを送った。

少し気分転換してきます。
帰ったら、また飲みましょう。
それだけだった。

柴原と小川にも、メールを送った。

お世話になりました。
ありがとうございました。
それ以上のことは書かなかった。

書けなかった。

関係を切りたいわけではない。
けれど、今は近づきたいとも思えなかった。

出発ゲートを通過したあと、理沙はラウンジで休んだ。
搭乗時刻までは、まだ少し時間がある。

窓の外には、滑走路が見えた。
機体がゆっくり移動している。
搭乗橋が伸びる。
作業車が小さく走っている。

理沙は、カップのコーヒーを手に、しばらくそれを眺めていた。
そのとき、スマホが鳴った。

聞き覚えのある通知音だった。

画面を見る。
中野彩名。
理沙は、少し目を見開いた。

久しぶりだった。

メッセージは短かった。

<理沙、元気?>

続けて、画像が一枚送られてきた。
高級な店のバーカウンターの前で、ドレスを着た彩名がポーズをとっている。

少し得意げで、少し照れくさそうな顔。
その下に、もう一つメッセージが届いた。

<「Castel」2号店のママになります!>

理沙は、思わず小さく笑った。
忘れかけていた時間が、一気に戻ってきた。

赤坂の夜。
Shangri-la。
Castel。
白いダウンジャケット。
クリスマスライブ。

「Vanishing」。

彩名の笑い声。
あのころの自分は、今よりもっと無鉄砲だったような気がする。

理沙は、少し迷ってから彩名に電話をかけた。
すぐにつながった。

「理沙?」

懐かしい声だった。

「彩名。久しぶり」

「ほんと久しぶり。元気?」

「まあ、なんとか」

「なんとかって、なにそれ」

彩名は笑った。
その笑い方は、昔とあまり変わっていなかった。

理沙は、写真のことを聞いた。
彩名は少し興奮した声で、Castel2号店のことを話した。

新しい店の場所。
内装。
スタッフ集め。
まだ準備中の苦労。

そして、自分がママになることへの期待と不安。

理沙は、それを聞きながら、彩名もまた自分の道を進んでいるのだと思った。
自分だけが止まっていたわけではない。
みんな、それぞれの場所で、何かを続けている。

短い電話だった。
けれど、切ったあと、理沙の気持ちは少し軽くなっていた。

ふと思いついて、理沙は直子にメールを送った。

<これからロサンゼルスで、少し気分転換してくる>

返事は、思ったより早かった。

<おみやげ待ってるね>

それだけだった。

理沙は、画面を見て笑った。
いかにも直子らしかった。

心配しているのか。
ただ本当におみやげがほしいだけなのか。
たぶん、その両方なのだろう。

搭乗開始の案内が出た。

理沙はスーツケースを引き、ラウンジを出た。
搭乗口へ向かう通路は、明るかった。

人の流れが、ゆっくり前へ進んでいる。

家族連れ。
出張らしい男性。
旅行客。
学生らしい若い人たち。

それぞれが、それぞれの行き先へ向かって歩いている。

その途中で、理沙は聞き覚えのある曲を耳にした。

最初は、空港のBGMかと思った。
けれど、すぐに違うと分かった。
前方の壁面ディスプレイに、映像が流れていた。

広大な草原。
遠くの山並み。
風に揺れる白い衣装。

その中で、マリア・エレーナが歌っていた。

<もう止まらない、この鼓動は>
<世界を抱きしめるために生まれた>

「Next Frontier」だった。

理沙は、ディスプレイの前で立ち止まった。
人の流れが、彼女の横を通り過ぎていく。

画面の中のマリア・エレーナは、まっすぐ前を見て歌っていた。
それは、渋谷ウォールスクリーンで流れていたPVと同じ映像だった。

まりあが、見る側から見られる側になった曲。
彼女がマリア・エレーナとして世の中に現れた曲。

理沙は、しばらく画面を見上げた。
背筋に冷たいものが走ることはなかった。
胸を締めつけられるような痛みも、以前ほど強くはなかった。

もちろん、何も感じないわけではない。

悲しみは残っている。
怒りも残っている。
納得できないことも、分からないことも、そのまま残っている。

けれど、画面の向こうのマリア・エレーナを、もう拒絶する気にはなれなかった。

あれは、まりあだった。
そして、もうまりあだけではないものでもあった。

誰かが作り上げたイメージ。
世の中に残された歌。
真実を覆い隠す物語。

それでも、確かに彼女の声と時間が、そこにはあった。

画面の中のマリア・エレーナが、ふとこちらを見たような気がした。
もちろん、そんなはずはない。
録画された映像だ。

空港の壁面ディスプレイに流れているだけのPVだ。

それでも理沙には、一瞬だけ視線が合ったように思えた。

理沙は、スーツケースの持ち手を握り直した。
小さく息を吸う。
そして、画面の中の彼女に向けて、静かに言った。

「それじゃ、行ってきます」

マリア・エレーナは、何も答えなかった。
ただ、広い草原の中で歌い続けていた。

理沙は、もう一度だけ画面を見上げた。
それから、搭乗口へ向かって歩き出した。