心の中の風景

昔、理沙がまだ小さかった頃の事である。
理沙の心の中にはある風景が残っている。事あるごとにその風景がはっきりと蘇ってくる。

*     *     *     *

鏡の中の自分を見ていつも思うことは、
。。。。お母さんと、似ていない。。。。。
4歳の時に、理沙は家族4人で東京を離れて、千葉のとある街に引っ越しをした。
海からそれほど離れていない場所にあり、冬でも比較的暖かい。
海沿いの通りを、理沙は一人で歩き続ける。
夕闇が迫っていた。
家に帰ろうか、それともこのままどこまでも歩いてゆこうか。
振り返ると、自分の家にどうやって帰ったらいいのか、道に迷っていた。
その場に立ち止まり、理沙は途方に暮れた。
自分の事を必死で探している親の姿が思い浮かんだ。


*     *     *     *

「どうしたの?」
理沙は声のする方に目を向けたが、暗がりの中で姿はよく見えない。
「こんなところで、寒かったでしょう?」
ほのかな甘い香りがした。その優しい声の主は理沙のすぐそばまでやってきてしゃがみこんだ。
「家はどこなの?」
見知らぬ人に対しての警戒心から、全身がこわばった。
しかし、不安な気持ちでいっぱいの理沙に、その女性は終始優しく語りかける。
「お姉さんと一緒に、帰ろうか」
手を握りしめられて、反射的に離した。
恐ろしくなって逃げ出したが、つまずいて倒れてしまった。
あらあら。。。と声をあげてその女性は追いかけてきた。理沙はいつの間にか抱きかかえられていた。
何かを嗅がされているような感覚になり、体の力が徐々に抜けていく。
甘い香りが、理沙の警戒心を徐々に解きほぐしてゆく。
やわらかい胸に抱きかかえられて、女性の声が遠くから聞こえているような感覚だった。
「じゃ、帰ろうか」
母親にも抱きかかえられた記憶はなく、理沙は味わった事のない不思議な感覚になった。
うとうととして、眠っているのか起きているのか中途半端な感覚だった。
その感覚の中で、女性の声が遠くから聞こえている。
「これから先、いろいろな事があるけど、負けたらダメだよ」
語りかける女性の瞳に吸い込まれるような感覚。理沙は話に聞き入っていた。
「おねえちゃん」
ふと思ったことを口にしていた「あたしの、親戚?」
「そんなものかな」
再び眠くなってきた。
そして目が覚めた時には、理沙は自宅の玄関の前で座り込んでいた。


*     *     *     *

名前を呼ばれてはっと目覚めた。
授業中に寝るのはいつもお決まりの事で、寝ぼけた理沙はいつでもとんでもない発言をして教師の失笑を買っていた。
しかし、今日はなんだか雰囲気がいつもと違う。緊迫感のある教室内。
「今日はこれで授業は終わりにします。方向の同じ人、必ず二人以上で帰宅する事」
慌ただしく身支度をして、休校になったうれしさはあったが、時々耳に入ってくるニュースはキナ臭いものばかりだった。
「連絡があるまでは自宅からは出ないようにしてください。外出は必要最小限に」
学校から出ると近くの国道は交通規制されていて、迷彩服の姿がちらほらと見えた。
ニュースの女性アナウンサーの感情を押し殺した言葉が、理沙の記憶にはっきりと残っていた。
<・・・・皆さん、冷静に行動し、今後の政府の発表に従ってください・・・・>


*     *     *     *

理沙は親と喧嘩をして、自宅を飛び出した。
とりあえず東京に行けば何らかの仕事があると思っていたものの、失敗の連続で、短期間の仕事をいくつも転々とした。
所持金が残り少なくなり、歩道橋の上でふと立ち止まって遠くに見える夜の街を眺めた。
小さな女の子がすぐそばに立っていて、理沙の事を見つめていた。
今にも泣きだしそうに見えた。
声をかけようとしてそっとそばに寄ろうとしたが、2メートルほどまで接近したところでその女の子は声をあげた。
その声を聞いて階段下から駆け上がってくる女性、母親だろうか。
女の子はすぐに母親の元に駆け寄って行った。
よかった、と思った反面、少しだけ物足りない気持ちが残る。


*     *     *     *

再び呼ばれて理沙は目が覚めた。
客の来ないカウンター席で、理沙はついうとうととしていた。親友である同い年のママがディスプレイのニュースを示した。
「また戒厳令だよ。今日は店じまいだね」
それほど離れていない繁華街で爆弾テロが発生し、死者が出た模様。即座にママはまだ出勤していないキャストの安否を確認する。
外出できないとなると、帰宅も難しそうだった。今夜は店で寝泊まりすることになるのだろうか。
今は狭いアパート暮らしだったが、蓄えも少々できてきたので、もうちょっとマシな住まいを見つけようと思っていたところだった。
週に3日、昼は会話の極端に少ないオフィスで静かに働き、夜はこの店で金持ち相手に接客する。
何のために働くのかまだ明確な目標はないが、まずは自分が安らぐような生活の場が欲しいと理沙は思っていた。
「しょうがないね」
カウンター席を離れ、理沙は各テーブルの上の食器類を片付け始める。


*     *     *     *

ようやく東の空が紫になってきた頃に、理沙とママは店を出た。
店の前の通りには物が散乱していて、騒動がまだ
おさまっていないように見える。軍隊と警察が町内を歩いている。
散乱しているゴミを避けて歩きながら5分ほどかけて2人は駅のタクシー乗り場にたどり着いた。
予約してあったタクシーはすぐにやってきた。
タクシーの中から明けてゆく街を眺め、時々見える瓦礫と軍隊の姿を眺めた。
今日は、クリスマスまでちょうど1か月前だった。



「サンプル版ストーリー」メニューへ