普通の日々

薄汚れた空、朝焼けの空の向こうに高層ビル群。
東京湾全体を眺める事のできる丘の上から、羽田方面、お台場方面へと順に目を向けてゆく。
東京湾の中心には、建設中のシャトル発着場。まもなく完成するということで、昼夜関係なく工事が進められていた。
発着用の設備上ではシャトルが調整を行っていた。整備と発着のリハーサルのみでまだ飛び立つことはできないが、
飛び立つ光景はなかなか壮観な眺めだろうと皆は言っている。

*     *     *     *

その丘から、東京湾を挟んだ反対側の岸にある高層アパート群。
自宅と店の間を、理沙は東京湾をほぼ半周して通っている。夜明け近くに帰宅して、お昼近くまで眠る。
日が高くなり、ぼやけた朝の風景は活動的な昼の風景に変化する。
高速道路に車があふれ、羽田空港からは航空機が次々に離発着してゆく。
エアコンが自動的に動き出して、暖かい空気が徐々に部屋の中に満たされてゆく。
理沙は小さなうめき声をあげてベッドの上を這いまわる。時計を見て時刻を確認して再び寝る。
正午をまわったところで自動的に壁面ディスプレイに選択メニューが表示される。自動的にニュース映像に切り替わる。
画面の隅のメッセージ表示が出る。
[今月の給与が振り込まれました]
理沙は突然にはっと目覚めて起き上がった。彼女は時計よりも体内時計に制御されているようである。


*     *     *     *

今日は昼の仕事のスケジュールが入っていないことを、ディスプレイ画面で確認する。
ぼさぼさの髪の毛をかきあげながら、午前中に友人から届いたメッセージも確認する。機械的に返事をする。
ひととおりの起床後のルーチーンを終えると、シャワーを浴びて、バスタオル一枚を体に巻いて冷蔵庫からドリンクを取り出す。
昨夜は飲みすぎて頭が重い。ドリンクを一気に飲み、口の中に強烈な苦みがやってきたが、頭の重さが徐々に解消される。
Tシャツと短パンになり、食事の用意をする。携帯ディスプレイから不気味なアラート音がしてヒヤリとしたが、
震源地は遠く、自分の住むところには影響はなさそうだった。
シーフードサラダとパスタの朝食。ベランダに置いてある小さなテーブルに並べて、食べ始める。
なにげなくベランダから部屋の中を眺める。
広く見渡す事の出来る、フローリングの広い一部屋。奥には先ほどまで寝ていた寝室。
つい先月まで住んでいた狭いワンルームとは雲泥の差である。やっぱりここに引っ越して良かったと理沙は思った。


*     *     *     *

テーブルの上の携帯が鳴っている。表示されている名前を見て、まだ食べる手を止めない。
しばらく待たせておいてようやく出る。
「はい」
常連客の、会社の部長だった。
「今日は来てくれるんだ」
けだるい声で、体調があまり良くないことを装ってみる。
「その前に、どこかで食事がしたいな」
会うのは2週間ぶりである。
世間一般の部長クラスを基準とするならば、年齢は5歳ほど若い。まだ独身。
理沙が夜の世界に足を踏み入れて間もないころ、はじめて自分を指名してくれた客である。
貫禄があるとか、話がうまいとか、そんな目立ったところはないのだが、
自分以外のキャストは指名しないし、そんな彼の事をまんざらでもないと思っている。
「それじゃ、またあとで」
食事を終えると化粧を始め、今日の服装を決める。
午後3時をまわったころにようやく自宅を出る。
近くの駅に向かう途中で、ふと思い出して電話をする。
「理沙です」
もう一人の客に、こちらから声をかけてみた。
「最近来ないのね」
ちょっときつい言い方をしただけで、反応がすぐに変わる。これで今日の店でのスケジュールは確定した。


*     *     *     *

いつもの待ち合わせ場所で部長と会う。
50階建てビルの展望レストランで食事をする。グラスを交わす。グラスに夕日が反射して映える。
どうでもいいような普通の会話が続く。理沙も適当に反応する。とはいえ退屈はしていない。
彼の発言をよく注意して聞いていると、ところどころにとてつもない情報が潜んでいることがあった。
こんな大事な事をこんな場で、あたしのような人物に喋っていいのかしら?と思えるような情報を、理沙は分析することができた。
店で客と話している中で、いつのまにか理沙に身に着いた能力だった。
同業同士では絶対に口にしないような情報を、なぜか店の女の前ではつい喋ってしまう。
窓の外の夕暮れになろうとしている街並みを眺め、きらびやかだけど、裏ではいろいろなものが蠢いていた。
単なる夢で、ミエと欲望がドロドロと渦を巻いている。
食事を終えると、店までの道のりを2人で歩いた。
人々の会話、繁華街のディスプレイには様々な言語が混在していた。カオスの状態だった。


*     *     *     *

「来てるよ」
店に着くとママが奥の席の客を示した。「いつものご指名」
理沙は部長と一緒に彼との常連席に向かう。そのご指名客と目が合うと、彼に笑みを向けた。
今日はそれほど客が多くないので、買い手市場だった。待たせている客には既に2人もキャストがついている。
部長とは2時間ほど店で過ごし、明日の仕事の準備があるからと言って帰っていった。店外まで彼を見送る。
店に戻り、さきほどのキャストと楽しく会話している理沙のご指名客のところに座る。
「お待たせ」
さきほどの部長よりはちょっとだけ話が弾んだ。しかし、理沙の分析脳はどんなに酔って楽しそうにしていても常に冷静だった。
聞きなれた音楽が流れてきた。
彼に促されて理沙はひとりでステージに立った。彼から勧められた[Vanishing]は理沙が歌うとなぜかしっくりとはまっていた。


*     *     *     *

店が終わって、理沙は一人で東京の小さな店に向かう。
その店では理沙は客だった。短い時間だが心休まるひととき。
「いつ見ても、笑顔が綺麗」
「やめてよ」
店員の彼とは、まだ2か月の付き合いでしかない。
同じ接客業として見ているからなのか、理沙には彼になにか気にしているところがあった。
いつも頼むカクテルが目の前に置かれる。目が合う。
理沙はいつも思っていることがあった。
<。。。。この笑顔が、いつでもあたしのものだったらなぁ。。。。>



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