暗闇から這い上がる

マリアとはじめて会った日の事を、理沙はいまだに鮮明に覚えていた。
新人発掘オーディションの会場で、彼女は目立たない服装で、控室の隅でおとなしく一人で座っていた。
場違いのようにも見えた彼女だったが、どこか魅かれるところがあり、理沙が声をかけると2人はすぐに打ち解けた。
理沙の順番が終わり、彼女の番がやってきて、理沙は同じ仲間として応援するつもりで見送った。
控室のモニター画面越しで見た彼女は、別人だった。
自作の曲を、淡々と歌う。バックバンドもなく一人でどことなく頼りないように見えたが、底力のようなものが徐々に、
声にも力が入ってきて、審査をするスタッフたち、控室の理沙含め、皆は食い入るように彼女の事を見つていた。


オーディション会場での待ち時間に、理沙はマリアとコーヒーを飲みながら話をしていた。
審査員の前で歌う、別人のような彼女は、再び元のおとなしい女性に戻っていた。
「空から見下ろしているのが、あたしだったらなぁ、って思って」
マリアは、歌う自分の原点である、渋谷スクランブル交差点での出来事を話し始めた。
「偶然なのか、それとも思いが通じたのか、気がついたら空から地上を見下ろしていた」
「そんな事って本当にあるんだね」
マリアの歌う姿に、理沙は圧倒されていた。
理沙は今回のオーディションを、自分の夢を実現して次へと進むためのステップと考えていたが、
マリアにとっては、生活そのものが歌の中に包まれていて、はたから見ると夢のような出来事も、
生活の一部となっていた。ただし、理沙の目にはどことなく影があるような感じがしたが。
控室がざわつき始めた。他のグループたちがモニター画面に注目していた。合格者の発表が始まった。


*     *     *     *

終わった。残念とか悔しいとかいった気持ちはなく、今の理沙は非常にスッキリした気分だった。
発表された結果について誰からも文句は出なかった。今はステージの上にマリアが立ち、いっぱいの笑顔を振りまいていた。
マリアの獲得にいくつもの事務所が名乗りをあげた。
騒々しい会場を、理沙はメンバーと一緒に出ると、それほど離れていない場所の繁華街で飲み会をした。
反省会というかお疲れさま会というか、疲れ切ったメンバー皆を見て、リーダーは一言、
「レベルが違うよね」
無言でうなずく理沙、ベース男とドラム男も同じくうなずく。
「とにかく、世界観が違い過ぎる」
ドラム男は溜息をついた。
「だから、もっと真面目に選曲をすればよかったと」
視線が、リーダー男に集中した。
理沙も2日前に、リーダー男への選曲変更の時のことを思い出していた。
「確かに、そうだった」
打ち合わせの場で、理沙は自作の曲で勝負をしようと主張した。
まだまだ改良の余地はあったが、ふと思いついた歌詞を理沙は非常に気に入っていた。
賛同したドラム男が、即興で曲をつけてくれた。理沙と会話したその夜に、寝る間を惜しんで彼は曲を作ってくれたのだが、
「反対したのは確かに俺だ。だからといって」
地道に打ち込んで作った曲のデータは、朝には理沙の手元に届けられた。聞いていて涙が溢れた。
「練習した曲を捨てるわけにはいかない。あの曲は有名になった後のネタにしておけばいい」


ドラム男と2人だけで駅まで一緒に歩いた。
もう夏は終わったはずなのに、非常に蒸し暑い夜だった。理沙は上着を脱いでTシャツを腕まくりした。
「あの時、もっと強く反対すれば良かったんだよね」
今さら後悔してもどうにもならないが、ドラム男と曲の内容について熱く語った夜の事がまだ今日の事のように思えた。
「冷静になって考えれば、夢中になって作った曲で、受かるとも言えなかったよね」
「そこまで責めるな」
歩道橋までたどり着き、ドラム男とはそこで別れた。
理沙は階段を上り、歩道橋の途中でなぜか立ち止まり眼下の道路を眺めた。
夜も遅いのでクルマの通行はまばらだった。
街路灯は防犯のために明るく輝いていて、道路の部分だけがまるで昼間のように明るい。
道路は真っすぐに伸びていて、突き当りにはビル街。夜も遅いのに窓が光り輝いている。
しかし、視線を再び道路に戻し、街路灯で照らされた明るい歩道のまわりを見渡すと、漆黒の闇があった。
闇は嫌いだった。理沙の脳裏に時々思い出される恐ろしい光景があった。思い出したくなかった。


狭い通路を追い詰められ、理沙には行き場がなかった。
ちょっと道を間違えただけなのに、どこからともなく現れた2人の男に、理沙は執拗に追いかけられた。
路地をあちこち曲がり、なんとかその執拗な追跡から逃れようとしたが、逃れようとすればするほど、繁華街から遠ざかる。
そして理沙はどちらにも進めなくなった。
背後の壁をどうにかしてよじ登りたいと思っても、すぐに引きずり降ろされそうだった。
叫ぼうとしても、なぜか声が出ない。
「来ないで」
叫んだところで理沙は目が覚めた。
カーテン越しに夜明けの光が差し込んでいる。昨夜飲みすぎた酒で頭が重い。


*     *     *     *

マリアはその後、所属事務所のもとで着実に実績を伸ばしていた。
メディアに登場した当初は、少し毛色の変わった歌手だと評価され、世間からそれほど相手にはされなかったが、
彼女の人となりや曲作りに対する姿勢、歌うことについての思いが徐々にメディアに取り上げられるようになると、
じわじわと人気が上がり始めた。事務所が綿密に計画したイメージ戦略が功を奏していた。
[私にとって、歌うことは]
渋谷のウォールスクリーンには、マリアの姿が映し出されていた。
[空気や水と同じ。私の命を支えている]
スクランブル交差点では皆がマリアの姿を見上げていた。
一年前には同じ場所にいたマリアだったが、今では皆の事を見下ろしていた。


*     *     *     *

「やっぱり、あたしにできることをやってみたい」
理沙は再び自作の曲の事を、リーダー男にもちかけた。
オーディションの日からすでに半年以上の日々が経っていた。理沙はバンドメンバーと一緒にライブハウスで歌い、
曲のレパートリーは増えていた。メンバー皆で考えた曲も着実に増えていた。
ライブハウスでの客の入りも、徐々にではあるが増えていた。客の中には常連と言える者もいた。
「次のチャンスはいつになるか分からないけど、あの曲をきっかけに先に進めそうな気がする」
腕組みして、リーダーはしばらく考えていたが、小さく頷くと、
「わかった。やってみよう」
理沙はリーダー男の手を握り、「今度こそ、やってみる」


マリアは頂点まであと少しのところに到達していた。
彼女の曲があらゆる場所から、どこからともなく聞こえてくる、そんな状態がほぼ毎日になっていた。
マリアは毎日のように忙しく動き回っていた、メディアに登場し、不特定多数の人と繋がり合うトーク番組では、
人となりから、曲作りに関する彼女なりの考え方、毎日のプライベート生活にまで入り込むこともあったが、
特にイヤな顔をせずに、誰からの質問にも素直に答えた。
ただし、彼女の生い立ちについて触れる事は、微妙に避けていた。暗黙の了解として。
とはいえ、いつまでもその話題に触れないでいることはできないと考え、公表の時期についてマリアは事務所と話し合った。
「ワンマンコンサートを一区切りにして、徐々に話し始めようかと」
事務所の社長は、イメージ戦略への影響も考え、公表には消極的だったが、
マリアとの長い議論の結果、妥協する事にした。
自分の意志とは無関係に、何もかもが動いていることにマリアは非常な違和感を感じていた。
自分自身の生い立ちについて語ることは、ささやかな彼女なりの反乱だった。


*     *     *     *

その日も、理沙はライブハウスで歌っていた。
今日は満席だった。場内を見渡してメンバー皆ようやく念願叶ったと思った。
何曲か歌って、場が盛り上がったところで、理沙は場内が静まり返るのをしばらく待ってから、
「今日までこのライブに通ってくれた方の顔は、よく覚えています」
数人の客席から始めて、勢いがついたところでオーディション会場でマリアの曲に圧倒されて、今日で9か月目になる。
「今日も来てくださって、ありがとう」
今日この日まで地を這うような日々が続いていた。自分には才能がないのかと理沙は諦めかけた時もあった。
「あたしには歌いたかった曲があります」
理沙は一瞬振り返り、ドラム男の事を見た。
「自分の気持ちを正直に、書いてみた曲です。一枚のメモに、30分ほどで一気に書いた曲です」
静かなバラード調の曲が始まった。


*     *     *     *

ちょうど同じ頃、マリアもまたステージに立つための準備をしていた。
気持ちを集中するために目を閉じて、待った。
しかしなぜかその日はいつもとは違っていた。



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