面接試験

早朝の、まだ暑くない時間帯に、理沙は港の近くの公園内をランニングする。
周回コースで3キロほど。1時間近くかけて4周すると、汗ぐっしょりになってしまう。軽く筋トレしてアパートに戻り、
朝食と身支度をさっさと済ませて勤務先に向かう。交通機関は使わずに、30分ほど歩く。
東海岸にある今の職場で働き始めて4か月ほど経ったが、理沙の目にはこの仕事も先行き長くないことがわかってきた。
システムメンテナンスの仕事は安定的収入にはなるが、顧客からのサービス仕様に合わせて仕組みを作り上げるだけ。
創意工夫や想像力を駆使する事は何もなく、単なるルーチンワークでしかない。
定時から定時の仕事を終えると、副業の夜のアルバイトのために繁華街に向かう。そこで3時間ほど働き、
帰宅すると勉強を始めた。大学教授が自費で開催しているリモート授業に興味を持ち、
理沙は[システム化概論]の授業を受講することにした。自分の仕事を改めて見つめなおそうと思ったからだった。


「理沙、東京に戻ってくる気はない?」
マリアの元マネージャーから連絡が入ったのは、自宅で授業を受講中の時のことだった。
「一緒に仕事がしたいと思って。小さいけど自分で事務所を立ち上げたの」
その前にも彼女からは何度か連絡があった。上司と口論になり事務所を辞めたこと、退職金は結局貰うことができず
彼女は途方に暮れているようだったので少々心配になったが、その日の表情は明るかった。
「前に、あなたを売り出したい話をしたよね」
しかし、その一言を聞いた時点で、理沙の気持ちは萎えていた。もう興味はないと以前に言ったはずなのに。
「賛同してくれる人が見つかって、ようやく事務所を立ち上げる費用の見込みができたわけ」
「ごめんなさい」
理沙は彼女の話を遮り、もう歌手の仕事に興味はないことを再び告げた。
「もう戻る気持ちはないの。仕事はありがたいんだけど」
それでも元マネージャーは、理沙をなんとか自分のプランに巻き込みたいと必死だった。
「単に歌手を売り出すだけでなくて、みんなの目が覚めるようなことをしてみたいの」
彼女から具体的な内容についての説明があったが、聞いても心が動かない。
「あたしは、自分のやりたいことをやってみたい。それだけだよ」
理沙はそう言うと、会話を終えた。


*     *     *     *

「システムは、自分自身を理解できるのか、という根本的な問題があります」
数多くのシステム会社を渡り歩き、技術畑一筋のその男の口調は非常に物柔らかく、理沙の耳には心地よかった。
彼は会社役員にまで昇りつめたのだが、自分のライフワークとして、次の世代の育成のために会社を早期退職し
大学の教授になる道を選んだ。実務経験に裏付けされた一言一言には、重みがあった。


「私たち自身も、自分自身の脳を本当に理解できるのか。これは簡単なようで簡単でない、証明問題です。
もし、私が自分のことを本当に理解できるのであれば、次に考える事の予想は簡単にできます。
実際にはそうはいきません。私たちはいつも判断に迷い、悩み続けていますから。
脳が自分自身を理解できない以上、私たちが作り上げたシステムが、私たち自身を超える事はあり得ません。
処理のスピードは、私たちの脳と桁違いに速いです。
一瞬にして何十兆もの桁の計算をこなし、気象の予測を行い、交通システムの制御を行い、宇宙に人を送り出しています。
将来予測については、かなり精度が上がっています。
タクシーが以前よりも捕まえやすくなったのは、皆さんの行動を予測して、人が集まりやすいところに配車するシステムのおかげです。
交通渋滞も、交通事故も劇的に減りました。クルマの動きを予測して、最適な交通量に流量制御するシステムのおかげで、
私たちの生活は10年前と比べて各段に良くなりました」


「しかし、根本的なところは変わっていません。
システムは自ら考えてタクシーの配車をしているのでしょうか。自ら世の中を便利にしたいと思って交通制御を行っているのでしょうか。
単に自分に組み込まれたロジックに従って動いているだけです。人間的な気持ちはありません。
自ら考えて予測をしているのでしょうか。優秀なエンジニアが考えたロジックに従って動いているだけです。
大量の情報を受け止め、ひとつひとつのデータを分析し、法則性を見つけ出し、全体を最適化する。
これがシステムの動作原理の根幹です。私たちの脳が、同じような仕組みで動いているのか、
いまだ脳科学は発展途上で、根本的な原理原則を見つけるところまでは至っていません。
私がこの授業で皆様にお伝えしたい事。それは、何事も原理原則、仕組みの根本を理解することが大切だということです。
システムの利用者にとどまっているだけではいけない。それは非常に危険だということです」


*     *     *     *

体を酷使し、汗だくになりながらも、理沙は大学教授からの言葉の意味を考え続けていた。
原理原則という言葉の中に、もしかしたら自分の今後生きていくヒントがあるのではないだろうかと思えるようになってきた。
公園の遊具で、腕だけでロープを昇ることを始めてみた。最初は思うように昇れず、腕が筋肉痛になり、
ひどい苦痛を味わうことになったが、徐々に腕だけでも体を持ち上げられるようになり、ついにロープの頂上に到達した。
苦痛を味わっている間も、頭の中はなぜか冷静に物事を考えることができた。
エンジニアとして、あの大学教授のように技術一筋に生きるのもいいだろうと思った。
しかし、誰もができるようなところからのスタートでは、競争率が高すぎる。
誰もやらないような事。皆が敬遠するような分野に、もしかしたら自分が取り組むべき答えがあるのかもしれない。
理沙の気持ちが固まってきたそんな時、軍の技術士官候補の募集が目に留まった。


*     *     *     *

面接試験の会場で、理沙は4人の面接官を前にしていた。
どんな質問をされるのだろうかと、思い悩むことは特になかった。もうダメもとの心境で開き直っていた。
事前の適正試験では、筆記試験や身体能力のテストがあったが、想定したほどの難しさはなかった。
日頃走り込みで体を鍛えていたので、身体能力テストもなんとかこなすことができた。
「技術士官を目指すことになった、きっかけは何ですか?」
実は数日前、職場の同僚の中に、親族が軍の士官である男性がいたので、理沙は彼に面接の心得なるものを尋ねてみた。
「システムの利用者ではなく、システムの中身を理解し、システムの上に立って指揮する立場になりたいと思ったからです」
面接官は特に反応することもなく、淡々とメモをとる。
「あなたが思っているほどに、理想的な仕事ではないと思いますよ」
軍の士官ゆえ、上官からのプレッシャー、部下たちとの間での軋轢はあたりまえの事である。
そんな事も含めて、同僚の兄からレクチャーを受けた。説明していたときの彼の表情が脳裏に浮かぶ。
「システムの上に立つとは、どういった事ですか?」
理沙は少しの間考え、言葉を選びながら答える。
「システムは、考える事ができないと思っています。そのように振舞っているだけです。技術者があらかじめ組み込んだロジックで、
動いているだけです。なので、私はシステムに支配されてはいけないと思いました」
ほほぉ、という小さく呟く声が聞こえてきた。


面接試験は10分ほど続き、面接官からの質問に対して理沙はそのたびに迷うことなく答えた。
「では、私から」
今まで黙って理沙の返答に頷いていた、1人の面接官がようやく口を開いた。
眼光鋭く、その見つめる目に理沙は警戒していたのだが、その風貌とは異なり、口調は非常に柔らかかった。
しかし、彼の言葉が理沙の心に突き刺さった。
「今までの人生の中で、何か未練を感じたことはありましたか?」
未練、という一言に、理沙は様々な事を思い巡らてしまった。
鋭い眼光が、再び理沙の胸に突き刺さる。
少しの間考えてから理沙は言った。「特にありません」
面接官は小さく頷いた。「わかりました」
それ以上、彼が質問してくることはなかった。面接試験は終わり、選定にあたっての試験は全て終わった。
試験会場から帰宅する間、乗っていたバスの中、電車の中で、思い出されるのは最後の質問のことだけだった。
誘導尋問なのか、それとも心理テストなのか、目的はわからないが、
その後数日間、未練という言葉と、面接官の鋭い眼光が頭の中から離れなかった。


結局のところ、理沙は選定にあたっての試験に合格した。
届いた合格メールには、「合格おめでとう」以外に、今後士官学校入学に向けてのスケジュールと、事前に準備するもの等、
事務的な連絡事項が手短に書いてあるだけだった。
さっそく、理沙は職場の同僚に合格したことを連絡し、今回の受験にあたってアドバイスを貰った同僚の兄に感謝したいと思い、
出発当日の朝に、同僚の兄の自宅を尋ねる事にした。
「士官学校では辛い事の方が多いですが、それを乗り越えて立派な士官になってください」
そして、彼は理沙に握手を求めてきた。
「ありがとうございます。頑張ります」
彼の背後から、ガールフレンドがやってきた。彼女からもまた激励の言葉を貰ったが、
彼の固い握手の方が理沙にとっては嬉しかった。
「未練ねぇ。。。。」
彼の家を後にして、自宅に戻るまでの間、理沙は再び面接官の言葉を思い出し、ひとり呟いた。



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