長距離移動

深夜のバスターミナル。
大きなトランクを転がしながら理沙は自分が乗るバスを探していた。
ようやく自分の乗るバスを見つけると、まずはトランクルーム脇に立っている事務員に手伝ってもらいトランクを入れた。
座席はゆったりとした2人掛け用のシートが一人用にあてがわれている。
料金を節約するために理沙はバス移動を選んだのだが、
少々値段は高くてもゆったりと寝るためにこのバスを選んでいた。
室内には客が他に5人ほど。乗り込んで10分ほどでドアが閉まりバスはゆっくりと動き出した。
目立った音もなく、揺れも少ない。
耳を澄ませば聞こえるか聞こえないかの程度のモーター音のみ。
次の行き先を告げるアナウンスがあったが、そこまでの到着時間は4時間後である。
とりあえずは寝る事にした。
後ろの方の座席からいびきをかく音がして、他の乗客が小さく悪態をつくのが聞こえる。
しかし、理沙はそれほど気にしなかった。やがて無意識の世界がやってくる。


*     *     *     *

次の行き先で停まった事も気づかず、ふと目を開けると夜明けが近づいていた。
どんよりとした曇り空で、今にも雨が降りそうだった。
1時間ほどで雨が降ってきた。それもかなりの土砂降り。
外の殺風景な街並みを眺める気にもなれず、バッグの中から先日買ってきた文庫本を取り出す。
時間つぶしのために買った本だが、読み終えた頃にちょうど乗り換え地であるシカゴのバスターミナルに到着した。
バスは快適だったが、それでも狭い室内に長くいると疲れが溜まってくる。
遅い昼食を取り、トランクを持って再び次のバスを探す。
宿で一晩休みたい気分だったが泊まるだけの金がない。
次に乗ったバスは、先ほどまで乗ってきたバスと比べてひとまわり大きく新しい。シートもさらに上等だった。
ここからは一気に中央平原を横切り、ロッキー山脈のふもとまで走ることになる。
市街地をぬけて高速に乗り、風景を見る事もなく理沙はただ眠るだけだった。


*     *     *     *

単調な大平原の風景が続く。
バスターミナルで気晴らしになる本でも買っておけばよかったと思ったが、
ただ窓の外をぼんやりと眺めながら、思い出されるのは東京の自宅を出てから今までの事。
夜の街で仕事を続けていたら、今はどうなっていただろうかと思ってしまう。
友人とも結局のところその後連絡をとっていない。
お互いにわだかまりもなく別れたつもりだったが、理沙の心の隅にはいつも彼女に対する対抗心があった。
歌手になって一旗あげてやろうかという思いもあったが、
結局のところ歌うことに対して根本の想いが欠けていて、
尊敬する女性歌手が事故で亡くなってしまったと同時に、自分の心の中のモチベーションも消え去った。
しょせん、その程度なのか。とリーダーから問いかけられたが、明確な答えはない。
アメリカに渡ってからは、ひたすら自分の体を動かして日銭をかせぎ、難しい仕事もこなした。
疲れ切って自宅アパートに帰ることもしばしばだったが、
不思議と自分の性に合っているような気がしてきた。
2度目の夜がやってきたが、考え事をしている間なぜか寝付けなかった。
眠くなったのは空が明るくなり始めた頃だった。


*     *     *     *

雨が時々降り、再び快晴。時々雷。
道のり半分で途中のバスターミナルに到着したところで乗務員が乗ってきた。
自動操縦が当たり前の長距離バスで、乗務員が乗り込むのは珍しいことらしい。
出発までの間理沙は乗務員と話した。
目立った特徴はないのだが、女性の割にはしっかりした体格なのと、日焼けした顔になんとなく雰囲気を感じ、
おそるおそる尋ねてみると2年前まで海軍に在籍していたとのこと。
理沙は自分の行き先を告げると急に笑顔になり、
新人兵が乗り越えなくてはならない3つの壁について、彼女からありがたい言葉を貰った。
時間があったので彼女と食堂で食事をして、あわただしくシャワーを浴びると気持ちがすっきりした。
3度目の夜は乗務員が夜通し運転をしていた。
夜明け近くにバスを降りる時、理沙は女性乗務員と握手を交わした。


*     *     *     *

荒野の中をバスは走る。
外の気温は40度をこえている。室内はエアコンが効いているが直射日光は強烈である。
社内の乗客はいつの間にか理沙を含めて3人になっていた。
足掛け5日かけて大陸横断なんて無謀だと今さらのように思った。
飛行機であれば寝ている間に東海岸から西海岸に行けるはずで、
このバスよりも狭いシートに我慢できればもっと早く到着できるのだが、いったいなにを思ったのか。
やがて高度が徐々に上がってきているのか、天気の変化が激しくなってきた。
再び雷が鳴り、土砂降りの雨。
つい最近のニュースではここからそれほど遠くないところで大規模土砂災害があり、
かなりの雨と風で交通網も遮断されてしまうほどだったとのこと。
しだいに強くなる雨風に理沙は少々恐ろしくなってきた。
大事をとってバスは到着したバスターミナルで一旦長時間停車することになった。
待合室でニュース映像を見ながら、近年特に頻発している豪雨災害についてさらに恐ろしさを感じていた。


*     *     *     *

2時間ほど待ってようやく天気は回復した。
待合室に突然に強烈な太陽の光が差し込んできた。
外に出ると客が駐車場に向かっていた。
理沙も後を追ってその方向に向かったが、目の前の光景に息を飲んだ。
鮮やかなほどくっきりとした虹。
遠くの空にはどす黒い積乱雲がたちこめていたが、その黒さと対照的に虹は鮮明だった。
他の客と同じく理沙はその光景を映像におさめた。
心の中の陰鬱な、どす黒い雲のような気持ちがすっきりと晴れ渡るような感覚。
大きく背伸びをして深呼吸する。
バスが再び運行再開するとのアナウンスがあり、理沙はバスに戻った。
いよいよ明日は目的地に到着することになるのだが、悪い事ばかりじゃない、
たまにはいい事もあるさ、そんな気持ちになっていた。


*     *     *     *

ロッキー山脈をこえると、目的地まではあと少し。
目的地近くのバスターミナルに着いたのは午後のまだ日の高い時刻。
9月の太陽はまだ肌には厳しい。トランクを引きずりながら最寄り駅までの道のりを歩く。
思い出してみればアメリカ本土に渡って1年間、友人とも連絡を絶ち、家族ともろくに会話もできていない。
こんな場所で一人で生きてるなんてことは想像もしていないだろうと思った。
それにしても、よくもまぁ士官学校に入ろうと思いついたものだ。
無謀という言葉しか思いつかなかった。
それでも、ちょっとでも出来そうだと思ったら、やるべきだと職場の仲間は自分の事を後押ししてくれた。
面談の場でも不思議と自分の思いを正直に面接官に話すことができた。
あとは何とかなるだろう。
明日からは厳しい士官学校での生活が始まるはずなので、今夜は久しぶりに宿でゆっくりと休もうと理沙は思った。



「サンプル版ストーリー」メニューへ