世界を変えるような挑戦

「さて。。。。」
その男は、隣に座っている友人に語りかけた。
「人間ってのは、どこまで細分化できるものなのかな?」
「いきなり何だい?」
突拍子もなく、しかも非常に難しい事を言ってくるものだ。
酒の席での発言であれば、冗談半分にごまかして答える事もできるが、今の彼はしらふで真顔だった。
「こんな事を考えてみようか。例えば、事故で身体の一部を失ったとして」
2人が座っている公園のベンチから、30メートルほど離れたところに、車椅子で移動している男性が一人。
100メートルほど離れたところに総合病院があり、男性はその病院の患者なのではないかと推測した。
「電動車椅子は、移動のための手段ではあるけども、車椅子と一体化した彼は、果たしてどうなるのかな?」
「別に今まで通りだと思うけど」
車椅子の男性が、公園から出てゆくのをしばらくの間眺める。
その男は、予想した通りに総合病院の方へと向かっていった。
「世の中には、事故でもっと酷い目に逢っている人もいて、両手両足を失って生きている人だっている」
「今は、人工四肢なんてのもあるし」
そうなんだ。男は友人に向かって念を押すように言った。
「両手両足を失っても、今は補う仕組みがある。でも」
男は立ち上がり、大きく背伸びをした。
「胴体と頭だけになっても、当の本人はこれが自分自身だと思えるのかな?」
友人は少しの間腕を組んで考えていた。
最初は話半分で聞いていたのだが、まるで禅問答のような彼の話に、徐々に引き込まれていった。
「意識と、思考能力があれば、自分自身であると認識できるかと」
話は徐々にエスカレートしていった。
「何が自分自身であると認識できるのか、意識と思考能力。ということは」
男は再びベンチに座る。
見上げると、上を遮っている木の枝の間から、夏の強烈な太陽光線が差し込んできて眩しい。
「脳だけ残ったとしても、それは自分自身であると認識できるのかな?」
友人は再びしばらくの間考えてから、
「そこまでが限界じゃないのかな?それに、脳だけでは生きていけないし」
そこで男の脳裏をよぎったのは、研究所に保管されている脳の標本だった。
容器を満たす不活性液体の中に浮かんでいるその脳、もちろん死体から取り出されたものだ。
「液体の中で、酸素と栄養を供給する仕組みがあれば、脳だけでも生きていけるのか?」
男は一人呟いた。
不活性液体の中で浮かびながら、酸素と栄養をチューブから供給されて生き続ける脳。
そんなことを想像しながら、彼は背筋が寒くなるのを感じた。


*     *     *     *

男からの説明を聞いている間、その医師は目を閉じて腕組みしていた。
そして時々頷く。
説明は10分ほどで終わり、そこで相談なのですがと男は言った。
「私の考えにご協力、というのは非常におこがましいのですが」
医師は目を開けて、イスの背もたれに深く寄りかかった。
「趣旨はわかります。でも、私の一存ではなんともしがたいところはあります」
そして彼なりの言い訳を述べた。
なかなかハードルが高いな、と男は思った。
過去にも研究目的で、彼の外科手術に見学に立ち合ったことや、医療器具のテストに参画したこともあった。
男の専門はサイバネティクスであるが、自分が開発した器具が実際に使用され、
使われるたびに課題が山ほど返ってくることがしばしばだったが、現場からのフィードバックはいい経験だった。
医療機器はそのたびに改良されて、洗練されて、現場でさらに使ってもらう。
その究極の目標とするところが、今回の会話の趣旨だった。
「で、いつやってみたいですか?」
医師が尋ねると、男は少し身を乗り出して、言った。
「いつ、やらせてもらえますか?」
しばしの間の沈黙。その後2人は笑みを浮かべながら相手が話すのを待つ。
口火を切ったのは医師の方だった。
「ではこうしましょう」
ちょうどその時に、遠くからサイレンの音が鳴るのが聞こえてきて、館内放送でのアナウンスがあった。
「昼夜関係なく、何度も救急患者が担ぎ込まれて来ます。救急病院ですから」
医師は窓の外を眺めていた。30秒もしないうちに入り口から救急車が入って、救急搬入口の前で止まった。
「私たちは常に瀕死の患者と向きあい、最善を尽くしています」
館内アナウンスが、搬送された患者の状態を簡潔に告げている。
医師の視線は、壁のスピーカーの方を気にしてそちらに向いている。
「残念ながら、100パーセントが助かるわけではありません」
立って腕組みしたまま、医師はソファーに座っている男の事を見下ろしている。
「私から言えるのはここまでです。何かヒントになればと」
医師の口元が、笑みで微妙にゆるんでいるように見える。
男はそれを見て、何かを悟ったのか、ゆっくりと頷いた。
その直後、館内アナウンスで呼ばれて、医師は部屋を出て行ってしまった。


*     *     *     *

館内アナウンスが鳴り、救急スタッフ達が一斉に処置室に集合する。
救急搬送口が開き、患者が2名ストレッチャーに乗せられて運び込まれる。
女性が2名、一人は母親でもう一人はその娘である。
数キロ先の道路で、数台の車が巻き込まれる大事故が発生し、2人はその中で車内に閉じ込められ瀕死の重症だった。
救急スタッフは2人を手際よく手術用のベッドに乗せ換えた。
外科の主治医が処置室に入ってきた、救急スタッフから被害の概要についての説明を聞きつつ、
患者2人の身体をくまなくチェックし、対応について即座に判断した。
血だらけで絶望的な状態の母親、比較して多少はマシだが死の危険と隣り合わせの娘。
娘を優先して対応する判断が下され、娘は手術室に運ばれた。
母親はすぐに人工呼吸器に繋がれて延命処置が施されたが、もう助かる見込みはないと判断された。
主治医は、手術室に向かう途中で廊下で電話をした。ほんの数十秒だが。
即座の判断で、娘については生命維持を目的に仮の処置が行われることになった。
呼吸を楽にするために気管の損傷個所を補修し、破れた血管を丁寧に縫合する。
出血がおさまり、呼吸も安定したところで仮処置は終わり集中治療室に搬送された。
集中治療室への搬送が完了して一段落したところで、親族が数名到着して主治医から状況について説明を受けた。
「予断を許さない状況です」
ディスプレイ画面上に、娘の身体の損傷個所を示す画像を表示させ、主治医は淡々と説明した。
「今のところは仮処置を行って、安定した状態にありますが、長続きする見込みはありません」
淡々と説明しながらも、主治医は自分はいったい何を言っているんだという非常に複雑な気持ちになった。
母親の状態にも触れ、もう絶望的だという事も正直に告げた。
「そこで、ご相談があります。もちろん親族の皆様のお気持ちを尊重します」


*     *     *     *

まさかとは思ったが、本当にそのような事態になるとは。
男は主治医から呼び出されて、総合病院へと駆けつけた。
病院に到着し、主治医に会うと状況をさっそく確認した。
既に親族からは了解を得られているとの事。
手術が10分後に開始されるということで、主治医は簡潔にこの後の段取りを述べると手術室へと向かっていった。
親族とは会わないようにして、別な通路を通って手術の状況を見る事ができるモニターのある部屋に入った。
「本人の意志による、臓器移植のための各臓器取り出しを開始します」
たくさんの機器が身体に繋がれていた。
単なる臓器取り出しなのであれば、必要なのだろうかと思われるような、人工心肺や栄養チューブ。
開腹が行われて、手際よく臓器が取り出されていくのだが、なぜか機器類はまだ稼働を続けている。
1時間ほどで取り出された各臓器は冷凍パックの中に詰め込まれ、温度調整機能のついた小さなコンテナに入れられる。
もぬけの殻のようになった身体に、まだ機器類が繋がれている。
「手術は完了しました」
そして、ストレッチャーに乗せ換えられた身体が別な部屋に移動していった。
「これから身体の洗浄を行い、お帰りいただくための準備をいたします」
主治医からの電話の10分ほど前の、もう一本の電話のことを男は再び思い出した。
泣き崩れそうになるのを懸命に堪えているようなその声に、彼もまた心が張り裂けそうな気持ちになった。
行きたいのはやまやまだが、仕事でどうしても行けないと理由を述べて男は電話を切った。
もう、自分は彼女とは縁のない人間なのだからとあきらめた気分も半分。
そんな彼が、まさかその10分後の主治医からの電話で、病院に駆けつけることになるとは思ってもいなかった。
ほんの10メートルほど離れた部屋に、彼がいると知ったら、親族はどう思うだろうか。
しかも全く別な目的のために。


*     *     *     *

あたりは暗闇。
そもそも視覚も含め、五感というものが全くない。
声をあげることもできない。
手足を動かそうとしても、手足にあたるものの存在感がない。
では無意識の中にいるのかと言えば、そうでもない。
意識はある。
そして考える事もできる。自分が誰であるか名前を思い出すこともできた。
するとどこからかは分からないが、語りかけてくる声のようなものを感じた。
[あなたの名前は?]
声をあげることはできないが、夢の中にいるその相手に意識の中で返事をした。
[わかりました。その方法でよいのでこれから聞こえる声を頭の中で復唱してください]
返事が相手に通じているのか?
その後も意識の中で語りかけてくる声に返答を続けた。
こんな事をするのに何の意味があるのかと思ったりもしたが、その後も意識の中での会話が淡々と続いた。



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