復活

熱さも冷たさも感じない。
体全体がぬるい物体に包まれているような感覚。
最後に見た炎に包まれた室内の風景はどうなったのか。
必死にもがきながら、座席から脱出しようと試みている。
だが体がいう事をきかない。呼吸もできない。
それなのに苦しさは全く感じない。目を開けようとしているのだがそれもできない。
暗闇の中で体全体を固定されている感覚。
自分が自分自身であることだけはわかる。自分の名前もあったように思える。
ただし具体的に言葉として表現できない。
生きているような感覚はあるのだが、何もできない自分を非常に苦痛に感じていた。

*     *     *     *

不活性液体の中に浸されて、骨格の一部と消化器、頭蓋骨の中にはきちんと脳がある。
しかしそれだけだった。
かつては理沙と呼ばれている人物の、肉体の一部と脳。
それを人物と呼ぶことができるのかは別として、人工心肺装置から伸びている血管が心臓に繋がれて、
残された人体に酸素と栄養分が供給されている。
別な装置からたくさんのセンサー類のケーブルが伸びていて、脳や消化器に繋がれている。
装置はシステムに繋がれていて、監視室の画面にはリアルタイムで各臓器の状態や、
脳波や、脳の活動状況を示すイメージ図が表示されている。
隣の部屋では、手術台の上に人体骨格が横たえられていて、ゼラチンの塊のように見える物体が貼りついている。
骨格もゼラチン質の物体も、人工の産物で元々の体とは無関係である。
別室で液体に浸されている肉体と、人工の骨格とを結合する手術が始まろうとしていた。


*     *     *     *

体の自由がきかないのは、手足がなくなっているからだろうかと理沙は思った。
最後に見た炎の中の室内で、何物かに押さえつけられてその炎の中から脱出できない状態だという事を徐々に思い出した。
炎の前には、強烈な衝撃で全身を潰されるような感覚があった。
その衝撃で動けなくなったのだろう。
となると今のこの状態は何だろうかと思った。やがて突然に全身に触れるものを感じた。
今までなかった手足の感覚が戻ってきたように思える。
元々の感覚のはずだったのだが、新鮮に思えた。
全身に触れる感覚は、ある時点で強烈な痛みに変わった。理沙は反射的に全身を収縮させた。


*     *     *     *

不活性液体から慎重に引き上げられ、脳と骨格、そして消化器を含んだ塊が、手術台の上の骨格の中に降ろされた。
室内は完全無菌状態だが、人間の手を介在させるリスクも考え、手術台の上には全身を包むユニット装置が降ろされた。
ユニット装置の内側には超小型のロボットハンドが多数搭載され、
自動化されたシステムの働きで詳細な血管や神経、その他生体組織との結合手術を行うことが可能だった。
どんな人間の名医であっても、何十時間もの根気のいる結合作業は不可能に近い。
オペレーターは隣の操作室で、自動化ロボットの作業を24時間交代で見守る。
一本の血管、神経、組織を見逃さずに着実に作業は進行する。
やがて突然に骨格に繋がれたゼラチン質が痙攣のように震えた。
オペレーターは作業主任にすぐ報告した。
作業主任は画面の表示を確認、脳の信号を示すイメージ図と照合し、想定される状態であることを確認し作業続行を指示した。


*     *     *     *

死んでいる感覚はなかったが、生きている感覚もなかった。
相変わらず目も耳も感覚がなく、叫びたくても夢の中にいるような感じで声が出ない。
ただし、苦痛には感じなかった。
ゆっくりと何かが元に戻ってゆくような感覚があり、微妙ではあるが少々空腹感もあった。
やがて皮膚の感覚のようなものもわかってきた。
液体の中で無重力のような感覚だったものが、全身をとらえる重量もわかってきた。
動くことはまだできない。寝返りを打ってみたくてもなかなか動かない夢のような感覚に近かった。


*     *     *     *

グロテスクな人体模型のまわりに、トラス構造とケーブルがたくさん繋がれた装置が覆いかぶされていた。
頭蓋骨には眼球がむき出しの状態。
首から下にはゼラチン質の物体が筋肉のようにきちんと貼りついているが、これもまたむき出しの状態。
男女の区別もつかず、ただし腰のゆるやかな曲線だけが女性であることを示しているが、
解剖の準備を待っている死体に見える。
足先では、皮膚の接着が始まっていて、その部分だけが生々しい人の体であることを示していた。
見た目では信じられない事だが、作業は8割がた終わっていた。根気のいる表皮の復元作業が自動的に進行していた。


*     *     *     *

トラス構造がひとつ、またひとつと徐々に減らされていった。
気の遠くなるような長い作業が淡々と進行し、工事現場の足場が外されたあとにはみずみずしい肌があらわになった。
うっすらと産毛までが再現されている。
なまめかしい股間の陰部でさえも、芸術品に思えるほどの仕上がりだった。
やがて顔の表皮が取り付けられたところで、トラス構造は頭部全体だけになった。
ほか全身は裸の状態であったが、やがてシーツがかけられた。
顔全体のトラス構造がいつ取り外されるのかオペレーターは毎日気にしていたが、
一番手間のかかる顔には数日の時間がかかった。顔が完成すると頭皮に植毛が行われた。
すべてが完了し、トラス構造が頭部から取り外された。
手術は完了しある日の深夜に慎重に手術室から個室に移された。


*     *     *     *

いつの間にか、呼吸をしているような感覚が戻ってきた。
最後に見た炎に包まれた室内の記憶は遠のき、横たわって寝ているような感覚があった。
寝返りを打ってみたい気持ちになった。
全身が相変わらず重い。なかなか動かない。
もがき苦しむような感覚が全身を襲い、はっと目が開いた。
うっすらと暗い天井が見える。照明機器が見える。
夢の中の世界とは明らかに感覚が違い、実在感があった。
天井の照明機器の形がはっきりと見えて、天井のパネルの接合部も認識できた。
首を動かしてみると、カーテンのかかった窓が見えた。
自分が横たわっているベッドの端が見える。窓までの距離感もわかった。
部屋全体がうっすらと暗く、朝なのか夕方なのか区別がつかない。
しかし夕焼けのようには見えなかったので早朝だと思った。
ゆっくりと起き上がれそうな気がしたので上体をゆっくりと起こしてみる。
腕に貼りついているパッドが邪魔だったので無理やり引きちぎった。
上体が起き上がった。
ベッドの上で起き上がり、両足をベッドの端から降ろして、次は何をしようかとぼんやりと考えた。


*     *     *     *

ナースセンターでアラートが鳴った。
チャイム音のような軽やかな音だったが看護師はすぐに反応した。
部屋番号を確認し、モニター画面を確認してすぐに主治医に連絡する。
30秒もたたないうちに主治医がやってきて看護師と部屋に向かう。
早朝で病棟は恐ろしく静かだったが、部屋に駆けつけた2人はドアを開けた。
ベッドの上で理沙は座っていた。
髪が少々乱れている他は特に気になるところはない。
窓のカーテンは開けられていて、遠くには雪を頂いた山々が見えた。
山に反射して昇り始めた太陽の光が徐々に強烈になってゆく。
2人が見つめているところで、やがて理沙はゆっくりと振り向いた。
起きたばかりでまだ寝ぼけているようにも見えるが、口元は微笑んでいるようにも見える。
理沙も、主治医も看護師も、しばらくの間そのままでお互いに何も言わなかった。



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