タイタン2番乗り

すでに決着はついているので、緊張感はなかった。
先週には、タイタンに着陸した中国の探査チームの実況中継があり、
「エンデヴァー」乗組員たちは彼らからの映像を冷めた目で眺めていた。
もう、一番乗りだとか国家の威信などというものは忘れて、純粋な科学的調査に戻ろう。
気持ちを切り替えて前向きに仕事をすることにした。
「それじゃ気をつけて」
理沙は画面越しに、着陸船のコクピットに座っているメリッサに声をかけた。
「大丈夫」
メリッサもまたモニター画面越しに理沙の方を見て手を振った。
「ちゃんと帰ってくるから、待っていてね」
それではまた5時間後にとメリッサは言い、着陸船はタイタン表面に向けて出発した。
「エンデヴァー」の船外モニター画面を見ていると、長い尾を引いて着陸船が降下しているのが見える。
やがて着陸船はタイタンを覆っている雲の下に消えた。


*     *     *     *

3人の乗組員は、着陸船の中でシートに包み込まれながらじっとしていた。
大気圏への突入が始まり、リフティングボディの機体を大きく傾けて、翼と一体になった胴体で大気を受け止めた。
Gが徐々に高まってくる。コントロールパネルの表示を時々眺め、メリッサはコースを外れていないか確認する。
「寝ちゃだめだよ」
メリッサの左隣に座っているパイロットが言った。
「あなたこそ、うとうとしていないで画面のチェックお願いね」
そんな2人のすぐ後ろで、いびきをかくような大きな音がした。
振り向くまでもなく、メリッサは後ろに座っている声の主に注意をした。
「寝ていないで起きてよ」
パイロットの笑い声が聞こえる。そのときシステムから最大Gに達したとのアナウンスがあった。
「木星のエアロブレーキの時と比べて、全然楽勝ね」
大気との摩擦音で、狭い室内では徐々にお互いの声が聞き取りにくくなってくる。
3人はインカムでの会話に切り替えた。
「エンデヴァー」を離れ、タイタン大気への突入が始まってもうすぐ1時間になろうとしていた。
窒素とメタンを主成分として構成されている大気は、1000キロ近い厚さがあり、降下に要する時間は地球大気よりも長い。
表面での重力は地球の半分以下なので、降下スピードは地球大気降下時と比較してゆるやかなものである。
着陸ポイントが、ナビゲーション表示パネルの片隅に現れた。
「着陸ポイントを確認」
大気中をすべるように、着陸船はそのポイントに向かって進んでいる。
極めて順調だった。
理沙も「エンデヴァー」のコクピット内で、飛行経路を見守っていた。
「そろそろエンジンスタートの準備を」
理沙がそう言うと、メリッサもまた復唱した。
タイタンのメタンの大気中では、燃焼式のエンジンの使用が可能である。
普通のターボジェットエンジンである。
ただし地球の大気中では大気を取り入れて燃料を燃焼させるのに対して、
タイタンで使用する際には、酸素を持参して大気中から取り入れたメタンを燃焼させる事になる。
「エアインティークを開いて、コンプレッサー始動」
システムが予定通りに動作を進めるのをメリッサは見守る。
船外モニターで下の方を見ると、もやのかかった空の下にメタンの海が見えた。
「海が綺麗ね」
理沙はすぐに反応した。
「それじゃ、泳いでみたら?」
しかし、理沙のその声がメリッサに届くことはなかった。


*     *     *     *

エアインティークが開き、コンプレッサー始動にともなってエンジン内圧力が上がってゆくのをメリッサは確認した。
自動的に行われる操作を見守るだけでいいのだ。
少々心の余裕があり、メリッサは船外モニターに視線を向けた。
「海が綺麗ね」
するとさっそく理沙からの反応があった。「それじゃ」
その瞬間、制御パネルの表示がすべて消えた。
とっさにパイロットは反応した。
「バックアップに切替」
不測の事態のための手順に従って、パイロットは淡々と対応する。
しかし、制御パネル表示は復活しない。
「メインを再起動」
パイロットの操作ひとつひとつを、メリッサも復唱し確認する。
「ダメですね。マニュアル操作に切替しますか?」
通信も使えない状態では、着陸船内の3人で判断し対応するしかなかった。
非常時における3人の中での判断責任者はメリッサ。
「やりましょう。マニュアルに切替」
パイロットが操縦スティックを握り、その隣でメリッサはパネルを操作しながら再び復旧を試みる。
エンジン内の圧力は規定値に達していた。ここで飛行を続行して着陸してもいいのだが、
中断して「エンデヴァー」に帰還する事にするのか、判断がメリッサに求められていた。
「続行しましょう」
メリッサはそう言うと、パイロットに操縦を任せて彼女は通信の回復作業に取りかかった。
「エンジン始動」
パイロットのその声と同時に、加速Gがかかり3人は再びシートに沈み込んだ。
降下が止まり、水平飛行で着陸ポイントに向かう。
やがてナビゲーションパネルの表示が復活した。
高度はタイタン表面まで1000メートルを切っていて、もしマニュアル操作が少しでも遅れていたら、
着陸船はタイタン表面に激突していただろう。
システムの完全復活はとりあえずあきらめて、メリッサは通信の回復を優先することにした。
着陸したあとに、システムを予備ユニットとまるごと交換すれば、使えるようになるだろう。
船体の揺れが、徐々に大きくなってゆくのにメリッサは気がついた。
なにげなくパイロットの方を見る。彼は操縦スティックを握ったままでうなだれていた。
「ちょっと、様子を見てあげて」
メリッサはとっさの判断で操縦スティックを自分の方に切替し、後ろに座っている船内ファシリティー担当にパイロットの事を任せた。
「大丈夫、うまくいくよ」
自分にそう言い聞かせて、メリッサはナビゲーションパネル表示と、船外モニター表示を見ながら操作を進める。
外の風景は、どんよりと曇った空の下に黒い海が広がっていた。


*     *     *     *

突然に「エンデヴァー」との通信が回復した。
理沙の声が飛び込んできた。
「やっと聞こえるようになった、心配したよ、メリッサ」
「ごめんなさい」
操縦を続けながら、メリッサは理沙に謝った。
通信が途絶えていた間の出来事を、船内ファシリティー担当が簡潔に理沙に説明した。
パイロットは一時的に気を失っていたようだったが、復活したようである。
「とりあえずは、このまま着陸ポイントに向かいます」
「無理するのはやめてちょうだい」
理沙の口調は険しかった。しかしメリッサは、
「何とかなりそうだと思う。着陸してからシステムの回復をしようかと」
着陸船は、リフティングボディの効果で大気中を滑るように飛行している。
ターボジェットも特に問題なく動作しており、今は着陸地点に向けて一直線に進んでいた。
「中国の連中は、今頃どうしているのかな?」
運転中のメリッサは、まだ気持ちに余裕があるようだった。
「酒盛りでもしているんでしょうね」
「運転に集中してちょうだい」
理沙は、余裕を見せているメリッサの事をたしなめた。
目標とする着陸ポイントまでは、あと10分ほど。
高度は500メートルを切っていた。
小高い丘が目の前に見えている。速度を落としてホバリング状態に移行する。
「垂直スラスターを始動」
パイロットは再び操縦スティックを握ることになった。
リモートから着陸船の状態を見守っている理沙と、パイロットは忙しく会話している。
「一番乗りになれなくてもね」
理沙とパイロットとの会話に、メリッサは割り込んできた。
「無事に帰還できるかどうかが、一番重要だと思う」
着陸ポイントの上空200メートルほどで着陸船は静止した。
あとはゆっくりと降下するだけである。
しかし、遠隔地からモニターしている理沙は、機器の状態を示すパネルの片隅の表示が気になった。
「モニターの確認を」
しかし、理沙が言う前にパイロットは既に気づいていた。
「システムに負荷がかかりすぎています。何でしょうこれは?」


着陸前の最後の判断をすることになった。
着陸船がバランスを失って表面に激突してしまうかもしれない。
着陸を断念して、スラスターを最大噴射にして帰還するか、
しかし、システムが全て使えなくなっても、パイロットそしてメリッサは全て手動操作で着陸する訓練は受けている。
とはいえ、それはあくまでも非常時の不測の事態のための訓練である。
数秒間考えた後、メリッサは言った。
「続行します」
酸化剤として搭載した酸素の残量も気になっていた。
モニター画面の表示では、着陸時の使用量の余裕値はあと1分ほどしかない。
「じゃ、気をつけて」
理沙は、メリッサの判断に任せる事にした。
「着陸脚を展開」
メリッサが機器表示とチェックリストを読み上げ、パイロットが操作する。
「残り45秒」
警告ランプが点灯した。着陸ポイントに岩が見えた。
「移動します。少し先の平原に変更」
メリッサは、時間の感覚が急に緩やかになったような錯覚に陥った。
「姿勢を保てません」
パイロットが懸命に操作をしている。メリッサは祈るような気分だった。
傾きながら着陸船は降下する。
このままでは危険だと理沙は思った。だがもうどうにもできない。
やがてエンジン音が止まり、静かになった。
「着陸脚に破損、とりあえず着陸」
パイロットとメリッサは機器の状態をチェックする。リモートから理沙もチェックを手伝う。
着陸脚の破損は酷く、船体が前のめりになっていたが、船体は無傷だった。
「帰還できそう?」
理沙はメリッサに問いかけた。
モニター画面の向こう側で、メリッサは何も言わず親指を立てていた。



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