理沙のいる風景

ジェシーが理沙の家にハウスメイドとして通うようになってからはや3か月。
家の事をすべて把握し、常に小ぎれいにしておくようにつとめていたが、
理沙の方はといえば、毎日のように帰宅は遅かった。
お互いに顔を合わせるのは週末のみ。
最近には軍の中で昇格したようで、年に何度か軍のオフィスに行くときに着る制服に、
勲章が増えていることにジェシーが気づいたのはつい先日の事。
今日も家の掃除が終わり、ひとりテーブルでコーヒーを飲んでいたのだが、理沙の事が少々心配になっていた。
理沙が自宅にいるときは、できるだけ会話をするようにつとめているものの、なぜか会話が噛み合わない。
やることはとりあえず終えたので、ジェシー近所の自分のアパートに戻ろうと思った。
アパートまでの帰り道、北風が冷たい外を歩きながら、昨日の物憂げな理沙のことがふと思い出された。


*     *     *     *

「先週のステータスから、まったく変わっていないわね」
理沙は画面の向こうの技術者達に向かってただ一言。
しかし、その一言に技術者たちの口調は重くなるばかり。
「きちんとした説明をして下されば、私は何も不満はありません。きちんと説明してください」
つい先ほども、同じような叱責を別なチームに対して言ったばかりである。
原子力ラムジェット機の中核部品について、品質が低い事を指摘したばかりのところで、
今度は生産プラントの構築スケジュールが2か月遅延する予定との報告。
しかし、いくらプレッシャーをかけても無理なのはわかっていた。
技術者達は別に手を抜いているわけではないのだ。
理沙から開発局の上層への報告、さらにはエネルギー省への報告のことが気になり、どうしてもこうなってしまうのである。
「リカバリープランを今日中にまとめます。夕方に再度ご報告します」
常に気力で現場を引っ張っている[ミスター核融合]も、徐々に体力が落ちているようだった。
彼がもしこの場にいなければ、理沙はさらに強い口調で叱責していたかもしれなかった。
「わかりました。よろしく頼みます」
できるだけ落ち着いた口調で彼に言った。
理沙は心の中で彼に感謝した。
リモート会議は終わり、理沙はイスに深く座り、目を閉じて気持ちを落ち着ける事にした。


*     *     *     *

ジェシーは理沙の寝室にある、机の上の2つのフォトプレートのことをいつも気にしていた。
どちらも理沙ともう一人の女性が並んで撮影されていた。
気にしているのになぜか直接理沙に訊いてみようという気になれなかった。
昨日、彼女が家にやって来たときには、理沙はまだ寝ている状態だった。
朝方にようやく帰宅したのだろうと思った。
できるだけ迷惑にならないようにリビングから掃除を始めて、キッチンの食器を片付けているところで、
ようやく理沙は起きてきた。
「ああ、リビング散らかった状態でごめんね」
すっかり疲れてやつれた状態の理沙。
ジェシーはできるだけ明るい声で、
「大丈夫です。朝食はどうするの?」
「ちょっとだけ食べていこうかな」
15分後、ジェシーはテーブルについてぼんやりとしている理沙の前に用意した朝食を置いた。
「忙しいのね、今日も遅いの?」
機械的に食べながら、理沙は小さくうなづいた。
「なかなかうまくいかないのよね。しばらくこんなk状態が続きそう」
食べ続けている理沙を眺めながら、ふと机の上のフォトプレートのことを尋ねてみようと思った時に、
テーブルの上の電話が鳴った。
理沙は表示された名前を見て、再びテーブルの上に放置したがようやくのことで電話に出た。
その後はだらだらとした重苦しい会話が続く。
食事の手が止まった理沙の事が気になる。
ようやく電話が終わると、理沙は再び食べ始めた。声をかけるような雰囲気ではなかった。


*     *     *     *

多少は状況が好天すると、気持ちが一気に軽くなる。
昨夜は、夜明け近くまでリカバリープランについて議論をしたのだが、真の原因についてようやく追及ができたので、
あとは[ミスター核融合]に任せられるところまでこぎつけることができた。
悩みが一つ減って、理沙は原子力ラムジェット機の問題のことに思いを集中することにした。
木星での本格生産に備えた、仕様を満たす機体の各コンポーネントは、技術的なハードルが格段に高くなり、
無理難題が増えていた。
ストレスが増えるのは無理もないことだった。
このままでは機体が出来上がる前に人間がストレスで死屍累々になりそうだ。
そんな事を考えていた時に、対応チームからの連絡がちょうど入ってきた。
長々と書かれた対応プランに目を通し、1時間後に設定された会議のために心の準備をした。
理沙はいったん心を落ち着けるために、天井を眺めてひと息ついた。
こちらのタスクも、ようやく先にかすかな光が見えてきたような気がした。
気が遠くなるほどの長い戦いも、ようやく終わりを迎えるのか。
ふと、出かける間際に見た、何かを言いたそうなジェシーの表情を思い出し、理沙は気になった。


*     *     *     *

たまには早めに帰宅しようと思っていたのだが、その日も日付が変わる頃の帰宅になってしまった。
帰宅してリビングに入ると、テーブルの上に焼いたばかりのクッキーがあった。
ディスプレイを見るとジェシーからの伝言が残っていた。
クッキーを焼いてみたので食べて欲しいとの事。
その他はいつもの通り、今日あった出来事について手短に連絡があり、伝言の最後には、
[忙しくて大変そうだけど、体には気をつけてね]
そのメッセージのあと、しばらく無言が続いた。
先日見かけた何かを言いたそうなジェシーの表情。
結局のところそのままメッセージは終わったが、テーブルに座りジェシーが焼いたクッキーをゆっくりと噛みしめながら、
理沙はしばらくの間ぼんやりと宙を眺めていた。
やがて寝室に入り着替えると、机の上のフォトプレートの一つを取り上げ、理沙の隣のもう一人の女性を見つめた。


*     *     *     *

週3日は理沙の家に通うものの、最近はほとんど顔を合わせていなかった。
それでもジェシーは、忙しい理沙の気持ちを少しでも癒せればと、ちょっとしたアクセントとしてテーブルの上に花を飾ってみたり、
先日の自作のクッキーは理沙には好評だった。
ちょっとした短い内容のメッセージが返答されてきたが、
[美味しかった。いつも気にしてくれてありがとう]
との理沙からのメッセージに、ジェシーも少々救われた気分になった。
場所は離れていても、どんなに忙しくても、理沙もジェシーの気遣いに救われた気分になっていった。
相変わらず気が抜けない日々が続いたが、生産プラントBがまずは先行して完成する見通しがついてきた。
4つのプラントを同時に完成させるという当初の目標は崩れてしまったが、目に見える成果はモチベーション向上につながる。
「ここまでこぎつけることができて、もう言葉になりません」
理沙は会議の場の冒頭で、画面の向こう側の[ミスター核融合]に感謝の言葉を述べた。
「いえ、あなたの期待に応えただけです」
しかし、理沙の目の届かないところで、彼は多数の部下に激をとばし、チームを動かしていたことを理沙はよく知っていた。
そして理沙自身も、陰ながら自分の折れそうな気持ちをジェシーに支えられていた。
いつの間にか、理沙の心の中では、フォトプレートの中のもう一人の女性にジェシーを重ねていた。


*     *     *     *

完成した生産プラントBに、資材輸送用超大型キャリアーが接近していた。
理沙は本部の作業コントロール室で、スタッフ揃って一緒に眺めていた。
つい半年前にも最初の作業プラットフォームが木星に向かうところを見届けたが、
球形タンクとトラス構造の集合体は、遠く離れて見ているとクリスマスツリーに似ていなくもない。
超大型キャリアーの伸縮式のトラス構造が、生産プラントBをしっかりと取り囲もうとしていた。
「伸縮アームの固定を開始します。ハードポイント位置の再確認」と作業監督が告げると、すぐに現場担当者からの返信。
「001から008までの位置確認、完了。問題ありません」
秒読みが行われ、無事にキャリアーと生産プラントとの接続と固定が完了した。
出発準備には半月ほどかかり、地上では生産用の原子力ラムジェット機の最終調整が行われていた。
「休みでも取りますか?久しぶりに」
すぐそばで作業を見守っていた[ミスター核融合]が理沙に言った。
いつもの彼らしくない発言。
理沙は頷いた。
「そうね、みんな働きすぎるほど働いたわけだし」
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*     *     *     *

建設中の作業プラットフォームと、他の3つの生産プラントの構築も順調のようだったので、
理沙は現場を担当者に任せて、3週間ほどの休みをとることにした。
思えば半年ほどまともな休みを取っていなかった。
久しぶりに仕事に悩まされることのない朝を迎えた理沙。
リビングではいつもと変わることなくジェシーが朝食の用意をしている。
テーブルについて、ジェシーの姿を見つめる。
ただぼんやりと見つめていたところで、やがて彼女は振り返った。
「来週に、父さんと母さんがあたしの家に来るみたい」
理沙が久しぶりで休みだと話したところ、久しぶりに遊びに行くとの事だった。
「それじゃ」
理沙は立ち上がって寒さの和らいできた窓の外を眺めた。
「ホームパーティーでもしようか?」
どんな料理を作ろうか、空港に着いたら一緒に迎えに行こうかと、理沙とジェシーの会話は今までになく明るかった。
「訊いてもいい?」
ジェシーは寝室の机の上のフォトプレートのことをようやく訊く気持ちになっていた。
「そういえば話そうと思ってなかなか話す機会がなかったよね」
理沙は2枚のフォトプレートを寝室から持ってくると、テーブルの上に並べた。
「2人とも、あたしにとって本当に大切な人たち」
そしてさらに言った。
「あなたもね」



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