タイム・ラグ

部屋の掃除を終えて、強烈な西日が差し込む部屋の中で、ジェシーはアイスコーヒーを飲む。
ここ数年は5月下旬から40度近い暑い日が続き、6月の後半になると水の使用に制限が入った。
芝生には十分な水を与える事ができず、枯れ始めていた。
だからといってどうすることもできない。
窓の外の悲惨な光景を眺めながら、アイスコーヒーを飲み干すと、ジェシーは理沙へのメッセージを残した。
[スイカを貰ったので、冷蔵庫に入れておきます。良かったらあとで食べてね]


*     *     *     *

先に出発した作業プラットフォームBが木星に到着し、
出発から半年後に後追いで地球を出発した作業スタッフも、1週間前に作業プラットフォームBに到着。
生産プラント到着のための準備作業が、慌ただしく始まった。
地球周回軌道上での建設作業の管理の他に、木星での作業管理も加わり、地上の管制室のスタッフ達は多忙を極めていた。
理沙について言えば、週のうち半分は自宅には戻っていない。
オフィスから自宅まで交通機関を使っても20分程度なのが、かえっていつでも戻れるという甘えの気持ちに変わってしまう。
ジェシーからのメッセージに気づいて、ふと作業をする手を止める。
冷蔵庫に入っているスイカの映像。
食べやすい大きさに切ってあり、さっそく理沙はありがとうと彼女に返信した。
「定時連絡です。18:00時点の作業状況」
木星の作業プラットフォームBの会議室からの映像、現場リーダーは画面表示されている進捗状況を淡々と読み上げる。
「A-1ブロックと、A-2ブロックの環境整備が終わり、これで全スタッフが個室で生活可能となりました」
それまでは、接岸している輸送船内での生活が続いていたが、これでようやく個室生活が可能となり、
プライバシーが確保され人間らしい生活ができると、スタッフからは高評価であった。
しかし、「エンデヴァー」での生活経験のある理沙が思うに、輸送船の居住ブロックでさえ、映像で見た限りでは天と地の差があった。
いちおう生活は可能だが、閉鎖恐怖症の人には若干抵抗のある「エンデヴァー」の個室に対して、
輸送船の居住ブロックでは、一人当たり「エンデヴァー」の倍の収容スペースがあるはずだった。
贅沢ではないか。
「物流ブロックの到着に備えて、連結部分の組み立てに今週から着手しています」
作業プラットフォームは、作業員の居住施設であるとともに、生産プラントからの生産物を受け入れ、
タンカーに積み込みを行う役目も担っていた。
まずは中核となる動力ブロックと居住ブロックが木星に到着しただけで、物流ブロックは地球からの次の便で到着することになっている。
完成時には現時点の3倍の大きさになるはずだった。
報告は30分ほど続き、状況確認を終えると管制室からの指示が続いた。
現時点、地球と木星の間は30分近いタイムラグがある。
地球/木星双方のシステム間では常時連絡が行われており、6時間ごとの定時連絡はある意味形式的なものでしかない。
しかし、直接顔を見せて連絡を取り合うというのは、アナログなやり方ではあるものの、
精神衛生上必要であるとし、残すことにした。


「18:00定時連絡へのコメントです」
画面上でのタスクリストに、理沙はひとつひとつチェックを入れ、そのたびにコメントを加えた。
「進捗に問題がない事は了解しました。引き続きよろしくお願いします。課題は些細なことでも列挙してください」
画面の向こう側の、現場リーダーの表情に、疲労のあとが目立っていることに、理沙は触れた。
「最初の立ち上げの段階なので、いろいろと業務量も多くて大変かと思います。交代要員は先週地球を出発しましたので
それまで2人には負担は大きいと思いますが、まだ遅れはないので、無理が無いように気をつけてください。それと」
作業員のメンタルの状況をモニターしているシステムからの、分析結果に目を止め、理沙は内容に触れた。
「どうにもならない状態になる前に、手を止めてカウンセリングを受けてください。事があってからでは遅いですから」
理沙は、「エンデヴァー」での探査計画の時にも課題となった、作業員のメンタルの問題を特に気にしていた。
当時と比べて、ここ10年ほどでメンタル問題に対する対処法は非常に改善され、輸送船の居住スペースにも生かされている。
心を癒すような映像システム、物理的な癒しを提供するロボット、
また、ネガティブなイメージがついてまわるが即効性のある薬物療法、改善は日々続いていた。


*     *     *     *

タクシーを降りて、玄関まで歩く間に強烈な陽射しで圧倒されそうになる。
昼の時間に帰宅するのは半月ぶりである。
シフトの時刻は理沙にとっては形式的なものでしかなく、
ある時には夜明けの頃だったり、または深夜の時間帯だったりすることがほとんどだった。
今日のように正午ちょっと前の時間帯というのは珍しかった。
庭の芝生はすっかり枯れて茶色になってしまっている。
とはいえ、これは理沙の自宅に限った事ではなく、近所の家も皆同様だった。
近所の生垣の草花は枯れかけていた。
ジェシーが自宅のハウスキーピングに来るのは週に3日ほど。
学校は夏休み期間中ではあるが、小遣い稼ぎに理沙の自宅のハウスキーピングをする以外にも、
近所の商店街でアルバイトをしていた。
部屋に入る前から空調のスイッチを入れていたので、部屋に入ると爽やかな風が漂っていた。
ジェシーが部屋の中を片付けてくれるので、何もかもがすべて整理整頓されている。
ディスプレイのスイッチを入れて、管制室の大ディスプレイと同じような映像を表示させた。
何かあれば、自宅からでもすぐに対応が可能である。
しかし、何もない限りは能動的にこちらからは手を出さない。
あくまでも環境映像的に表示させているだけである。
キッチンに入り、さっそく冷蔵庫を開けてボトルからアイスコーヒーを注いで、テーブルについて一気に飲み干す。
[12:00の定時連絡です]
居間のディスプレイから、現場主任の声が聞こえる。
画面を見ることなく、それでも声には注意を向けて、もう一杯アイスコーヒーを注ぎ、今度はゆっくりと飲んだ。
ふとあたりを見渡すと、整然とした部屋の中で、なぜか自分だけが取り残されているような気分になる。
ジェシーがこの家のハウスキーピングをしてくれるようになってから、すでに8か月になる。
しかし、彼女とは何度か自宅で食事を一緒にした程度。
それと休日に一緒に買い物に何度か行った程度。
彼女のおかげで家の中はいつも綺麗に整えられていたが、生活感の全くない家と化していた。


*     *     *     *

翌日は帰宅することなく終日をオフィスで過ごし、その翌日には早朝の夜明け前の帰宅。
ジェシーが何かと気を遣ってくれて、その日は冷蔵庫の中にオレンジとパイナップルの盛り合わせが。
徐々に強烈になってゆく朝の陽ざしを浴びながら、盛り合わせを半分ほど食べて、
ジェシーにありがとうのメッセージを送ると、正午近くまでベッドで横になった。
起きてから居間のディスプレイ画面をつけたと同時に、理沙の携帯端末が鳴った。
「今、ちょっと会話できますか?」
実施主任が少々焦っている。
「大丈夫です。今ディスプレイをつけました。何かありましたか?」
常時ステータスのやり取りを行っている、木星のシステムから問題発生の連絡が入ったところだった。
「連結部分の組み立て中に、アクシデントが発生したようです。通路の一部に損傷」
「直せそう?」
実施主任と会話しながら、視線はディスプレイ画面の方に注意を向けていた。
「ストックはありますので、交換するだけですが、エアロック作業をしていた作業員が2人、低酸素症で手当を受けています」
管制室が少々騒がしくなった。
理沙は管制室に戻りたい気持ちになったが、実施主任に前面で対応してもらう事にして、自宅にとどまることにした。


作業員2人については、その後特に問題はなく、理沙の自宅からの実施主任へのサポートも特に不要だった。
翌日はお昼近くにオフィスに出社することにして、ジェシーが自宅にやってくる時刻まで待った。
時刻通りにジェシーはやってきた。
久しぶりに生で顔を合わせるということで理沙は朝食を用意した。
「あ、パンケーキ」
パンケーキとフルーツ少々。食べながら、暑さと水不足の被害の話題がいつものように口に出る。
毎度のことのその話題も終わると、理沙は、
「まだまだ、先の事だから、いつになるか分からないけど」
こってりと山盛りの生クリームを乗せて、大口をあけて食べるジェシー
「現場監督として、木星に行くことになりそう」
目を丸くして、じっと理沙のことを見つめるジェシー。
アイスコーヒーを飲んで、口に入れたパンケーキをようやく飲み込み、
「それって、結構大変じゃない」
日々状況の変わる、作業プラットフォームBでの過酷な作業について理沙は説明した。
「でもね、現場は本当に辛いと思う。誰かが行かないといけないんだけどね」
ふた切れほどのパンケーキを食べて、理沙は残りのひと切れをジェシーに差し出して、立ち上がった。
「まだ、すぐに行くと決まったわけじゃないよ」
理沙は身支度をして出かける用意をした。
再びキッチンに戻ると、ジェシーは理沙が差し出したパンケーキを食べているところだった。
でも、なんとなく寂しそうに見える。


*     *     *     *

建設作業が遅れていた生産プラントようやく完成し、
すでに完成している原子力ラムジェット機といっしょに、木星へ向けて出発する日がやってきた。
加えて、作業スタッフ輸送の第3便も準備が完了していた。
出発も2度目となると、世間からの注目も前回ほどではなく、
管制室ではその分作業に集中することができた。
フライトディレクターの声も淡々としている。
「キャリアーの準備完了」
キャリアーに両脇を抱えらえた生産プラントは、中核のガス分離/貯蔵タンク部分がブドウの房のようにも見える。
しかし、それはキャリアーの進行方向に対してそのように見えるわけで、木星到着時にはブドウの房を中央に、
木星の重力の働きで直立した状態になるはずである。
「推進システム始動」
クラスター推進システムのあたりがほのかに光を放ち始め、やがて強力な光の束となった。
「出発。これより木星に向かいます」
ゆっくりと動き始めるキャリアー、
昨日24:00の現場主任の言葉が非常に気になっていた。
かなりのストレスを抱えて仕事をしているところ、先日発生した作業トラブルの件が。
幸いにも人身事故レベルのインシデントにはならなかったが、早急にてこ入れをすべきだろう。
ジェシーの寂しそうな姿が脳裏をよぎったが、理沙にとっては現場の作業員のことが一番の心配の種になっていた。



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