出発の日に

夫と娘を家に残し、朝早く出発する。
夫はすでに起きている。夫と2人でまだ寝ている娘を起こさないようにそっと玄関まで歩く。
玄関でしっかりと抱き合い、別れを惜しんだが、
「でも、来週にはちゃんと帰ってくるから」
そして、ヴェラは最寄りの駅に向かって歩き始めた。
東海岸の研究施設への1週間の出張。
しかし、夫には仕事の内容についてまだ詳細に説明していない。
リモートでも仕事は可能だが、機密性の高い内容のため、関係者だけの会議等含め、研究施設での作業となる。
とはいえ、夫と相談した結果、3か月後には研究所の近くに引っ越しをすることに決めた。
月に2回の出張がしばらくの間続くが、引っ越しをするまでの間の我慢である。
夫にはそのように話をして納得をさせた。
しかし、実際の作業が始まったら、そうはいかない事を彼女は知っている。
問題は、それが1年先なのか、5年先なのか、または10年先なのか。
正確なスケジュールはまだ決まっていない。


*     *     *     *

とりあえず必要になるものを、理沙はコンテナの中に入れていく。
クローゼットから、必要になると思われる私服を最小限選んで、ジェシーに手渡すと、彼女は丁寧にたたんでくれた。
「この程度で大丈夫なの?」
コンテナは2つほど用意しただけである。
私服の他には、軍の制服とジャンパー。こちらの方が量がかさばる。
「洗濯はできるし、いざとなれば現地調達もできるし。それよりも」
理沙は、自分にとっての必需品である、体をメンテナンスする際に必要となる、工具類の入った箱を抱えてきた。
「こっちの方が重要だね。でも、今のところ一度も使っていないけど」
10年以上前の「エンデヴァー」での航海の際に、自分の身に何かあっても、
乗組員は誰もサイボーグの体を修理できないという課題のために、医療チームから工具箱を渡されていた。
地上の医療スタッフからのリモートでの支援を受けながら、自分で自分を手術するための工具類である。
しかし幸いな事に、今までのところ一度も使ったことはない。
ジェシーは、2か所の留め金のところに、まだ封印したままになっている工具箱をしばらく珍しそうに眺めていたが、
再び衣類をコンテナに詰める作業を続けた。


2つのコンテナに生活に必要なものを詰める作業を終えるのに、1時間程度しかかからなかった。
あとは、あすの午後にやって来る予定の、事業団がチャーターした輸送用のトラックに積み込むだけである。
トラックはそのまま空港に向かい、地球低軌道のステーションに向かうシャトルに荷物が積み込まれる。
理沙は、あさってには空港から旅客シャトルに乗り込み、1日ほどの旅ののち地球/月L1作業プラットフォームに向かい、
木星へと向かうシャトルで、事前に運んであるコンテナと合流する。
「なんだか旅って感じがしないよね」
翌日、ジェシーは輸送用のトラックを見送りながら、言った。
「前に木星に行った時はどうだったの?怖くなかった?」
住宅街の十字路で、トラックが右折したのを見届けて、理沙はジェシーの方を見た。
「いえ、特に何も」
いつものように、至って平静な理沙のことが信じられない、ジェシーは再び問いかけたが、
「私の任務だし」
部屋に戻り、お昼近くの時刻になっていたので、ジェシーは昼食の準備を始めた。
作業監督として、木星へ行くことになることが決まってから約1年。
最初にジェシーにそのことを話した時も、同じように2人で食事をしていた時だった。
その時には、まだまだ先のことのように思えたものだが、その後の生活は仕事のスケジュールの中に埋もれる状態となり、
気がつけば木星への出張1か月前、そしていつの間にか、出発日まであと2日である。


食事を終えると理沙は、家を空ける1年ほどの間、気になる事を順に列挙していった。
「わざわざ家から通う必要もないし、よければここで寝起きしても構わないから。アパートも解約したら?」
理沙からそのことを先に言われるとは、ジェシーにとっては渡りに船だった。
一部屋の狭いアパートでの生活は、特に夏の暑い時期には非常に過酷だった。
昨年の夏に、部屋のエアコンが壊れた時には、理沙の家に避難に来たほどである。
広い居間と、ゆったりしたベッドでのうのうと生活できるというのは、夢のようだった。
「あたしの場合は、今まで根無し草のような生活ばかりだったから、どこに住んでいても変わらないと思ってる」
事あるごとに理沙は、30年近く前になる西海岸のアパートでの最初の夜の事を話していた。
今のジェシーのように、一部屋の小さなアパートで生活を始めたとき、不安な心境だった事を。
その後も今に至るまで、アパートを転々としたこと、軍の士官学校で身の危険を感じながら毎晩を過ごしたこと。
アラスカの大自然の中での軍の宿舎生活。
そして「エンデヴァー」航海中に狭い部屋で過ごした3年間。
「結局、毎日きちんと食べて、服を着て、横になれる場所さえあれば、それ以上に贅沢する必要はないんだと思ってる。
今はあたしは本当に幸せだと思う」
そして、ジェシーの顔をしっかりと見て、
「今まで、ジェシーと一緒に過ごせて幸せだったよ」
理沙から真顔で見つめられて、嬉しさ半分、しかしジェシーは落ち着かない気分だった。
「別におだてているわけじゃない。それとジェシー、ひとつお願いが」
理沙は立ち上がり、食器を食洗器の中へ入れると、コーヒーボトルを持ってテーブルに戻ってきた。
「もし寂しかったら、誰かを連れ込んでもいいんだよ」
ジェシーは、理沙が不在の間の楽しいプランについて考えていたところだった。
でも、そのことは理沙にすっかり見透かされているようだった。
そしてさらに理沙からの強烈な一言。
「でも、シーツは汚したらちゃんと洗って頂戴ね」


*     *     *     *

翌日も休みだったので、その日の夜は理沙はジェシーと一緒に夜遅くまで、他愛のない世間話をしながら過ごした。
夜も遅くなってしまったので、2人で一緒に寝る事にしてベッドの用意をしていたところ、管制室から連絡が入った。
「増設モジュールの連結作業時に、問題が発生しました」
居間のディスプレイのスイッチを入れて、管制室での作業進捗を見守ることにした。
作業プラットフォームBのモジュール増設は、あらかじめ予定していたことである。
しかし、大した作業ではないと、ディレクターは言っていたはずなのだが。
「作業チェックリストに問題がないか、再度確認を」
2週間後には、精製プラントが木星に到着する予定で、最終チェックのために作業プラットフォームBに連結される事になっており、
モジュール増設作業のちょっとしたトラブルでも、ささいな事と思ってしまうと、このように後々の作業にも影響する。
結局、トラブル解消には朝まで時間がかかってしまい、ジェシーが起きてきた頃に理沙はようやくベッドに入ることができた。
「結局寝られなかったんだね」
理沙はごろりとベッドに横になり、隣で横になっているジェシーを見つめながら、言った。
「やっぱり、現場で直接対応できたほうが気が楽だ」
いやいや、そうではなくて。
横になってしばらくして、すぐに深い眠りに入ってしまった理沙を、ジェシーはしばらくの間眺めていた。


*     *     *     *

軍の夏の制服を着て、軍支給のショルダーバッグに、携帯端末等の最低限必要なものを入れると、理沙は家を出た。
早朝の時刻ではあるが、すでに東の空は白くなり始めていた。
ここ数日、夜中に雨が降るので朝は非常に空気が爽やかだった。
事業団が事前にチャーターしたワゴン車は、時刻通りにやってきた。
乗った時には理沙1人だけだったが、事業団オフィス前で今回同行する2人を乗せて、空港へと向かう。
「結局、昨日も家には帰れなかったの?」
担当者の2人は、黙ったまま小さく頷く。
「仕事なら、どこででも出来るわけだし、船に乗っている間は2か月も時間があるのよ」
しかし、今回同行する2人は低軌道往復のシャトルに一度乗っただけで、1年間の長期滞在は初体験である。
訓練は行っているものの、不安で押し潰されそうになっているのが表情に現れていた。
「気をつけ!」
理沙の鋭い一声に、車内の空気が一気に張りつめる。
「これより私たちは木星での任務に向かいます。ちょっとした不注意は即、死につながります」
ワゴン車はすでに高速に入っていた。空港まではあと30分程である。



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