冷静な気持ちになって

「私は、あなたの弁護人として」
次の審議まで数日の時間があった。理沙は弁護人に呼ばれて2人だけで会議室で話をした。
「あなたが今回の事故に関して、過失はないと確認しています。あなたの主張に矛盾点を見つける事ができません」
「もちろん、そうですよ」
そして理沙は、もう何度も言ったでしょう、といった表情で、
「これは冤罪です」
しかし、記録されたデータすべてが、理沙に過失があり軍人としてあるまじき対応をしていることを示していた。
「なので、とにかくここはデータの矛盾点を見つけ出して、そこを起点として無実を証明するしかありません」
それは十分に分かり切っていることだった。
理沙は、記録データの全ての箇所、ブラックボックスに記録された映像、音声データひとつひとつに対して、
自身が記憶している範囲で、矛盾点を指摘していった。
気の遠くなるような時間をかけて、それこそ行動の一挙手一投足に至るまで、理沙は弁護人と一緒に間違いを指摘した。
それでも、検察側のこの一言ですべてが否定された。
「データはすべて正確で、証拠として信用に値するものです」
「とはいえ、この方法ではいつまで経っても主張は平行線です。そこで」
弁護人は過去の判例集から、いくつかの事例を理沙に示した。


人間の記憶というものは、脳科学がどれだけ発達してもいまだに覗き見ることができないもの、人間の脳の神秘であった。
システム工学がどれだけ発達しても、脳を超えるシステムが出来上がっていないのは、その事も理由のひとつである。
脳の中で考えている事、記憶している事をデータ化、映像化したらどれほど便利かつ素晴らしい事だろう、
と言われてはいるが、そうなって欲しくないのもまた事実である。
しかし、犯罪捜査の世界では、違ったアプローチで人間の記憶を利用した捜査方法が実用化されていた。
人間の記憶の仕組みは、いまだに完全には理解されていないが、脳内の記憶場所は階層化されていて、
見聞きしたものはまず一時的な記憶領域に保存され、意識して覚えてようと努力の末にさらに深層の記憶領域に保存され、
確固とした記憶として存在するようになる、というのが脳科学の基本となっていた。
一時的な記憶領域の中のものは、意識しなければ徐々に蒸発し消えてゆく。これが忘れるという脳の動作である。
深層記憶に保存されたものは、簡単に消えるものではない。
たとえ外的ショックにより記憶喪失の状態になったとしても、それは単に記憶の読み取りが一時的にできない状態になっているだけで、
本人が意識して思い出せないだけである。
その事を利用して、記憶喪失になった場合でも、事件時の状況をかなり詳細に調査する方法が開発された。
被験者はまず、事件当時の状況の再現映像を見せられる。
当の本人は意識しても思い出せないので映像として見えているだけだが、
脳内では本人の感じている事とは別に、無意識のうちの複雑な反応が生じている。
自身の記憶と矛盾している場合には脳は拒否反応を示し、矛盾がなければ同調する。
その脳内の信号を検知することで事件の真相を深掘りし、行き詰っていた事件が解決したいくつかの事例を、弁護人は示した。
「あなたの場合には、ブラックボックスのデータを再び使用する事になると思います」


しかし、弁護人がその考えを審議の場に提示したところ、すぐに否定された。
「膨大な証拠をすべて否定するほど、その方法が有効であるとは考えられません」
そもそも自身の記憶を証拠として差し出すというものであり、記憶ほどあいまいなものはないというのが検察側の意見である。
反論があるのは想定の範囲内。
弁護人も淡々と過去のいくつかの判例について説明した。
「ですが、もし記憶とデータに矛盾があった場合、どのように判断いたしましょう?」
弁護人のその発言に、検察側はすぐに拒否反応を示し、裁判官も場が混乱を始めたことに少々呆れていた。
その日の審議はそこで打ち切りとなり、弁護人からの提案に対する検討のためにしばらく休廷となった。

*     *     *     *

「まず、前回の弁護人からの提案に対してですが」
裁判長は検討の過程についての少々の説明の後、結論を述べた。
「受け入れるに値しません」
理沙はため息をついた。
弁護人の方を見ると彼もまた呆れた表情である。
「冷静になって考えるに、記憶のみを証拠として矛盾点の追及をすることについては無理があります。
検察側が述べるように、記憶ほどあいまいなものはありません。ただし」
理沙は顔を上げて裁判長を見つめた。
「これまで様々な観点から当事案について審議してきましたが、非常に重大な事故であり、責任追及が求められるものであるはずが、
被告人の発言は責任以前に、事実が記憶と全く異なるというところから始まっています。
被告人がその点にこだわるところに、もしかしたら物事を別な観点で見る必要があるのではないかとも考えます」
そこで、どうするか、
理沙は裁判官の次の発言を待った。
「被告人に、いくつか質問したい点があります。次回は、少し間が空きますがそれまで待ってください」
何か劇的な展開を期待していた理沙だったが、再び待たされることに少々落胆した。

*     *     *     *

その女性士官が会議室に入ってくると、部屋の中の空気が一気に緊張すると噂されていた。
士官学校を卒業して30年ほどになると言われている彼女、士官学校は成績優秀、首席で卒業したと言われており、
その後は技術畑に入り、軍の輸送システムの構築に尽力した。
あまり表に出ることのない、裏方的な仕事ではあるが、彼女の仕事は正確で無駄がなく、
上司からは高く評価されていた。
見た目は穏やかで、どこにでもいるようなおしとやかな女性にしか見えないが、
技術的な話になると、淡々とよどみなく、目の前に膨大なデータがあるかのように読み上げていった。
彼女が席に座ると、早速会議は始まった。
議題は、次の時代を見据えた、大量輸送システムについての検討会である。今回で3回目だった。
「先日の検討事項を、もうすこし具体化しました」
木星を中心とした、輸送ネットワークはほぼ出来上がりつつあった。
木星から大気を採取する原子力ラムジェット機の実用化には時間がかかったが、核融合燃料生産体制が確立し、
あとは数の論理で生産量を拡大させるだけである。
「生産量は現在この量ですが、3年以内には倍増、さらにそれ以上に増やす事が可能と言われています」
ディスプレイには、彼女が今までに建造にかかわった巡洋艦が映し出されていた。
「このクラスの巡洋艦を、現時点、6隻建造し、現在7番艦である[アトランティス]を建造中です」
地球/月L3建造ドックのリアルタイム映像が映し出された。
7番艦[アトランティス]は、構造が組みあがり、推進システムの取りつけが行われている最中だった。
「11隻まで建造する計画ですが、さらに輸送能力を上げるために揚陸艦の建造を計画しています」
長さが800メートルもある揚陸艦の想像図が、建造中の[アトランティス]に並べて表示された。
全長では4倍もあり、最新艦である[アトランティス]が非常にちっぽけなものに見えてしまう。
「基本設計は既に完了しています。あとは予算次第なのと」
彼女は会議テーブルのちょうど反対の位置に座ってる、大佐に問いかけた。
「設計タスクが頓挫しているとお聞きしています。何があったのでしょう?」
彼女に正面から見つめられて、大佐はほんの少しの時間、言葉に詰まっていた。
「正確なところは、私も把握できていないのですが」
そうですか。。。と、女性士官はそこで終わりにするかと思いきや、
「実は私も気になって、彼女の直属の上司に状況を尋ねました」
そこで彼女は意味深な笑みを浮かべた。
「上官である大佐も、あなたと同じように状況把握できていないと言っていました。たぶん、そういう事なのでしょう」
話題は次世代揚陸艦のことに戻った。
「実は、私はその先のことを考える必要もあると考えました。この揚陸艦をさらにスケールアップした、
もっと多目的に使用可能な宇宙船です。イメージとしてこんなものになると思います」
揚陸艦の隣に、倍以上の長さのさらに巨大な宇宙船が登場した。
「技術的には可能だと考えています。下地はすべて揃っています。あとは今後どのように進めるかです」
彼女の席から少し離れたところで、1人の大佐が彼女の発言を静かに見つめていた。

*     *     *     *

理沙と弁護人は再び法廷に向かっていた。
間が開いてしまって、気分が少々トーンダウンしてしまったが、待たされている時間を有効活用して、
2人は今後の対応について話し合った。
どのようにしたら記憶を証拠として分析へと持ってゆくことができるのか、
何が障壁となっていて、どのようにその障壁をクリアすることができるのか、
裁判長を前にして、理沙はまずは気持ちを落ち着ける事にした。
「まず、あなたに質問したいのは」
何度も言われたことではあるが、再び裁判官は言った。
「あなたがここまで執拗に、失礼、ここまで粘り強く主張されるのには、何か強い理由があるのですか?」
理沙はすぐに答えた。
「何度も申し上げたことですが」
一度視線を下に落とし、再び裁判官をしっかりと見つめる。
「矛盾だらけだからです」
「では、私からの質問ですが、今まで提出された証拠データに矛盾があるとすれば、改ざんを疑っているのですか?」
理沙はためらうことなく、頷いた。



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