理沙と直子

夜が明けようとしていた。
高層ビルの遥か先の空が紫色に変わろうとしている。
「眠いよね」
直子は言った。
始発の電車を待っている間、特になにかをするわけでもなくただぼんやりとしている2人。
「眠いよね」
理沙も同じ言葉を返す。
しかし、理沙の頭の中にはすでに現実の世界の悩み事が渦を巻いていた。
今日は店は休みだが、明日のスケジュールはどうしようか。それと店の中での女同士の闘いのこと。
「今度はいつ会おうか?」
直子からそんな事を言われても、簡単に返事が出来なかった。
「来月?」
「それでもいいよ」
おそらく直前で無理になりそうな気がした。それと2人の間にある過酷な現実のことも重く心にのしかかっていた。
始発電車が到着した。
お互いに反対方向に帰宅することになるが、先に到着したのは直子の帰る方向だった。
「それじゃまたね」
ドアが閉まる。
ドア越しに直子は手を振る。理沙もそれに応える。


*     *     *     *

理沙は、軍本部での最終出勤日での出来事をまだ忘れることができなかった。
新人の女性士官は、自分を殺してその後には自殺しようとしていたことが調査でわかった。
さらに決定的な理由として、木星から地球へ帰還する際に乗った高速艇の航海士が、彼女と交友があったということ。
結婚を前提につきあっていて、高速艇の事故で彼が亡くなったことは非常なショックだったものの、
その悲劇を乗り越えて士官学校を卒業し、気持ちもようやく癒えて仕事に集中していたところ、
軍本部勤務で理沙のことを見かけて彼女の心の中で何かが切れた。
制御できない怨念がフラッシュバックして、衝動的にあの日の行動に至った。
新人士官については、相応の処分が行われ、理沙とは縁のない場所での勤務が決まった。
自分自身には非はないとはいえ、あの日の怨念に満ちた表情を、理沙は忘れる事ができなかった。
退役後、しばらくの間は何もせずに過ごそうと理沙は思っていたが、
時々夜に夢の中で新人士官の表情が蘇りうなされることもあり、思ったほどに気持ちが休まることはなかった。
ジェシーと彼女の娘と過ごすのが唯一の癒しになった。
「無罪になったんだし、それに、懲戒免職というわけでもないんだし」
軍を退職して帰宅したとき、ジェシーが言ってくれた言葉を素直に受け止めることにした。
「ねぇ、あたし東京に行って生活しようかと思う」
ジェシーは少々驚いていたが、やがて小さく頷いた
「気持ちを切り替えるのがいいかもね」


あれこれ難しく考える必要もない。
退職金を元手に、自分の気に入った家を見つけて終の棲家にでもしようと理沙は考えた。
自分の自由にできる時間を得たのは、はじめて働き始めてからかれこれ50年ぶりの事だった。
18歳の時に、有人から誘われて夜の街で働きはじめた時、いつかは自分の店を持つというのが当時の夢だった。
それがどこで軌道が変わってしまったのか、その後の紆余曲折の人生は、エキサイティングではあるが重責と高ストレスの毎日。
死線をさまようこともあれば、自分の存在そのものまで否定された過酷な日々もあり、
気がついてみれば、誰も出来るとは想像もしていなかったことを、沢山の人々に支えられながら成し遂げてきた。
夜にふと空を見上げてみれば、輝く星々。
しかし時々空を横切る数々の光の点が、理沙の活躍してきた世界だった。
そこには数々の作業プラットフォームがあり、人々が働き、宇宙船が太陽系内の惑星や作業拠点を結び、
空の上で点にしか見えない木星には、地球のエネルギー需要を支えるプラント群がある。
さて、あとは全てを彼らに任せよう、と理沙は思った。
これからは傍観者として離れた場所からそっと見守ることにしよう。


必要な荷物だけをまとめてコンテナに入れる。
家は近くのアパートで生活しているジェシーの家族に譲ることにした。
理沙が一番のお気に入りの、「エンデヴァー」搭乗時に撮影した土星の輪の大型フォトプレートは持っていくことにした。
本や骨董品のレコード盤は、クローゼットに整理して収納し、市場価値が出るまでの間はジェシーに保管して貰うことにした。
それぞれに思い入れがあり、ジェシーの娘に思い入れを語りながら整理をしていたので、すべてを整理分類するのに1週間かかった。
「さて、あとは」
理沙は整理された寝室を見渡して、最後のコンテナに机の上のものを入れ始めた。
最後に、机の上のフォトプレート2枚を眺め、コンテナの中に入れた。


*     *     *     *

地球/月L3の作業プラットフォームで、軍の工作船が出発の準備が進められていた。
3日前には1機のシャトルが到着し、何人かの作業員と軍の士官が居住棟に入った。
彼らは会議室で作業のための打ち合わせを何度かしていたが、作業プラットフォームの住民、管理者とは一切会話することはなく、
挨拶さえもご法度であった。
あえて口にすることはなかったが、住民も管理者もただ事ではないということを察していた。
居住棟の一番はずれに作業員と軍の士官は宿泊していた。
その中の一人の女性士官は、終日資料の読み込みと会議で一日を過ごしていたが、
ひと息ついて窓の外の地球をぼんやりと眺めていた。
ドアをノックする音がする。同僚の士官が部屋に入ってきた。
「中佐、そろそろ出発の準備をした方が」
「もうそんな時間?」
壁の時計を見て、女性士官は再び窓の外に目を向けた
「まだ2時間あるでしょ?」
蓋の開いた2つのコンテナを眺め、同僚士官は、
「それでは、1時間後にまた」
同僚士官は部屋を出ていった。


無意識と意識のある状態の違いは、自分が意識しているかいないかの違いと言われているが、
では、無意識状態の自分はどんな状態なのか。
女性士官は過去の自分の体験を時々思い出すことがあった。
自分自身が、体の感覚のない、意識だけの状態だった頃の事。
動こうにも動けず、目は開かない、喋ることも出来ない。
しかし、自分が自分であるということの意識だけはあった。
それを意識のある状態と呼べるかどうかは別として。
そして、突然の目覚め。
天井には柔らかい光を放つ間接照明があり、視線を動かしてみれば部屋の広さもわかった。
視界の中に2人の白衣の男女が現れて、体を拘束しているベルトを丁寧にはずす。
動けますかと白衣の女性に言われてなぜか手を彼女の方に伸ばすと、彼女はその手を握る。体温を感じる。
「問題ないですね。無理しなくていいのでゆっくり起きてください」
無理することもなく上体が起きた。部屋の中、ベッドの傍らの機器群、ガラスの壁の向こう側の何人かの男女。
「今は、何時ですか?」
最初に発した言葉に、目の前の白衣の男女が顔を見合わせ、答えた。
白衣の女性から言われた言葉を信じる事ができず、しばらくの間放心状態で過ごした。


何度も廊下で倒れそうになり、それでも歩行器具にしがみつきながら歩き続ける。
最初の目覚めの日から数日は、自分の置かれている現実を受け入れることができなかったが、
食事を徐々に食べる事が出来るようになってからは、現実を受け止める心の余裕が生まれてきた。
カウンセラーの医師の助けもあり、その後の気持ちの回復は早かった。
ある日、ベッドで雑誌を読んでいた時に、ふと見たTVのニュースに彼女の目が止まった。
宇宙船乗組員に対して、キャスターがインタビューをしている映像だった。
その中の一人の女性軍人が目に留まる。
その時、彼女の記憶の深いところで、強い反応があった。
自分は一人誰との縁もないと思いこんでいたが、彼女のその気持ちを女性軍人は打ち砕いた。
生きてさえいれば、いつかは会える機会がある。
その思いだけが彼女を立ち上がらせる原動力となった。


同僚士官が再び部屋に入ると、女性士官はコンテナに荷物を入れているところだった。
「お手伝いしましょうか」
「ありがとう、助かるわ」
1つのコンテナへの収納が終わり、彼女は2つめに取りかかった。
蓋の閉められたコンテナを同僚士官が通路へと運んでいった。
2つめのコンテナもあと少しで収納が完了するところだった。
最後に、女性士官はテーブルの上に留められていたフォトプレートを取り上げ、しばしの間眺めた。
「あともう少しか。。。」
ひとり呟くと、そのフォトプレートをコンテナの中に入れ、コンテナの蓋を閉めた。


*     *     *     *

2時間後、軍の工作船は作業プラットフォームを出発した。
女性士官は居住区画の窓から再び地球を眺め、ふと、地上に住んでいるその相手のことを思った。
これから自分には大きな仕事が待っていた。
当面は仕事に集中し、その日がやってくることを予想していた。
生きてさえいれば、いつかは会える機会もあるはず。



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