忘れ去られた風景

道の両側のきらびやかな、視線に突き刺さるようなネオンの表示を眺めながら、理沙は40年以上の時の経過を実感した。
跡形もなく昔の風景は消えていた。
表通りはまだ当時の痕跡があり、ところどころに昔見慣れた食堂や、飲食店街が残ってはいるが、
裏通りにつながる道と、その奥にある歓楽街は、理沙がここで仕事をしていた時にはまだなく、
一番圧倒されたのは、1つのブロックまるごとが歓楽街になっている場所だった。
プラザと呼ばれているその場所は、まわりをぐるりと取り囲むビルすべてが歓楽街になっていて、
中庭は暖房のおかげで屋外であるにもかかわらず暖かく、ビヤガーデンがあった。
その中庭のまわりでは、水着姿の女性たちがたむろしていた。
女性の方から積極的に声をかけてくることはないが、獲物を物色して、カモになりそうな男を誘っているようである。
理沙は中庭のビアガーデンの席に座り、ビールとソーセージを注文し、ゆっくりと飲み食いをした。
理沙もかつては夜の街で働いていたが、自分の目指す夜の街の女はあんな感じではなかったな、と思いつつも、
これも時代の流れなのだろうと思った。
あの当時の理沙と同じく、彼女たちも生きるのに必死なのだ。
中庭から見えるまわりの風景を、1時間ほど眺め、男女の駆け引きを観察した。
時々アラート音が鳴り、大音量にどきっとさせられる事があった。
プラザの入り口で1人の男が警官2人に制止させられていた。
ここでは観光客以外については、立ち入りが禁止となっており、入り口のセンサーが住民IDをチェックしているとの事を
理沙はあとで知った。
退役したとはいえ軍人のIDカードを所持している理沙は特にお咎めなしで入場可能である。
やがて理沙は席を立ち、プラザの各店を上から下まですべて、店には入ることなく通路から眺めた。
どの店も大音量のサウンドで音楽が流れていて、通路では客引きの水着の女性たち、
店の中にはステージの上でポールダンスやお立ち台で、けだるそうに踊っている女性たちが見えた。
しかし、彼女たちは日々の生活のため、外貨を稼ぐために先頭に立って働く、れっきとした公務員である。

*     *     *     *

軍を退役後、テキサスの家はジェシーに貸し出すことにして、理沙は放浪の旅に出た。
その2か月後には、理沙は成田空港に降り立っていた。
40年以上もの時の経過で、空港もかなり様変わりしていた。
シャトル発着用に専用滑走路が建設されたのが20年以上前。
設備が増強されて貨物ターミナルと滑走路が2本増えたのは10年ほど前。
空港面積は100年以上前の開港時から、6倍を超えていた。
増設用の土地収容にあたっては、開港当時の流血騒ぎ以上の騒ぎがあったようだが、そのときの情報はすべてもみ消された。
利用者はそんな事があったとは何も知らず、空港は大量の観光客と貨物を日々淡々と処理していた。
その年の冬は、東京の下町の民泊で過ごした。
旅費を節約する事も目的の一つではあるが、普段の人々の生活を再び体験したいということも目的であった。
除夜の鐘は、浅草の浅草寺でリアルタイムで聞いた。
年が明けると、理沙は思い立って旅に出かけた。
暖かい南の土地から出発し、沖縄では観光客に混じって自然あふれる土地を歩き、地元の飲食店で食事をした。
理沙は、ただ観光気分で歩き回るのではなく、きちんと目的を持って歩いていた。
昼間の間は表の部分、観光地を風景を楽しみながら歩き、時々地元の店に立ち寄ってしばし雑談。
そして夜は裏の世界に。歓楽街を歩き時には深い闇の部分を目撃することもあったが、それもまた事実として観察した。
沖縄は100年以上前からそうなのだが、東西のパワーバランスの最前線の土地である。
一時期は軍人相手の店が繁盛し、ドル札が乱れ飛ぶ時代もあったようだが、その後衰退。
しかし再び活気を取り戻し始めたのは、皮肉にも国の没落ゆえに外貨獲得のための店が増えたためである。
海外からの観光客相手に、歓楽街が都市のあちこちに計画的に作られ、
生活のために稼ぐ女性たちがなだれこんだ。そして観光客がさらになだれこむ。
ナイトクラブに入ると、観光客に混じって軍人たちの姿もちらほらと。
理沙はあえて自分の身分を隠し、彼らと話をしていると、急に声をひそめてある軍人は言った。
「中国のスパイが、あちこちにうようよしているらしいからね」

*     *     *     *

京都や奈良の観光名所を歩きながら、昔と全く変わらないことに安心したものの、
やはりそれは表の姿だけのことであり、夜の繁華街には観光客相手の外貨獲得のための店が存在していた。
とはいえ、環境に配慮し、表からは見えない場所に巧妙に配置されていた。
三十三間堂で座禅の体験をして、まだ雪の残っている庭を眺めた。
今まで気持ちを落ち着ける事もなく、日々仕事に追われ、時には生死の境をさまよったこともあったが、
そんな波乱に富んだ今までの日々をふと振り返り、さて、これからどうしようと理沙は考えた。
気持ちをリセットし、静かに目を開けて、ゆっくりと冷え切った空気を吸うと、無の状態になっていった。
それとともに、いったい今までやってきたことは何だったのだ、と思った。
とにかく何かをしたいと海外に飛び出し、その日の生活にも困る日々を体験し、やがて軍人の道を進み、
事業団への出向生活で核融合燃料生産事業立ち上げに参画し、事業化の道筋を作ったところで事業団を後にし、
その後は、思いがけないトラブルに巻き込まれ、軍法会議にかけられることになったものの、奇跡的に重罪とはならず、
軍人年金も貰える身分として退役することになった。
そして、事あるごとに思い出されるのは、親友ヴェラの事だった。
彼女は自分の研究テーマのために、自分を実験台として命を落とした。
静かに瞑想し、冷え切った空気を感じている今この時にも、見えない信号が空中を大量に飛び回り、
大容量のデータが、この世界を裏で動かしている。
制御することも不可能で、システムがいったいなにをしているのかもわからない。
そんな恐ろしい世界に向かっていることに一人で責任を感じ、自らを実験台にしたものの、
その実験が本当に成功したのか、または失敗したのかについては、いまだに検証中で結論は出ていない。
そんな恐ろしい、制御不能なシステムにどっぷりと漬かりながら、世の中は前に進むしかないのか。
無の状態を体験したあと、理沙は再び底知れぬ深みを見ているような気分になった。

*     *     *     *

春になる頃には、理沙は再び東京に戻ってきた。
昔働いていた、横浜の店のあたりを歩いていたが、昔の面影はほとんどなく、1ブロックまるごと歓楽街のプラザに圧倒され、
混沌としてはいるものの、その場の異常なほどの熱気に、不思議な事に理沙は少しばかりの希望のようなものを感じた。
なにもかも落ちぶれてしまったかもしれないが、でも、とりあえずは生きているだけでも上等じゃないか。
店で働いている女性たちを見て、彼女たちと直接会話はしなかったものの、
熱気のあるその目つきに、このように訴えているように理沙は感じた。
[あたしたちが生活のために外貨を稼いでいるんだよ。文句ある?]
理沙は年越し以来3か月ぶりに浅草の街を歩き、仲見世通りを歩きながら、店を物色していた。
ふと団子を売っている店が目についた。店員は観光客相手には英語で対応していたが、
理沙のことを見てふと直感したのか、日本語で話しかけてきた。
「1本いかがですか?出来立てですよ」
少し考えてから、理沙は2本注文した。
店の前の縁台に座り、お茶を飲みながら団子を食べる。
「今日は暖かいですね。客の入りはどうですか?」
しばらくの間店員と、どうでもいいような雑談をした。
天気の事、最近の景気の事、その後客があまり通らなかったので、女性店員と身の上話になった。
「あたしは、40年前に旦那と結婚して、その時以来この店で働いて。。。」
観光客相手に細々と団子屋を切り盛りして、2人の子供を育てて、その子供たちも独立して今では旦那と2人暮らし。
「旦那と2人でのんびりと暮らそうと思っていたんですけど」
女性店員の表情がほんの少しだけ曇った。
「先月病気で入院してしまって」
話がなんだか湿っぽくなってきて、理沙はこれはちょっとまずいと思った。
しかし、女性店員はすぐに笑顔になった。
「でも、単なる過労で、来月には退院できるみたいですから」

*     *     *     *

浅草の下町、民泊用の小さなアパートの近くに、同じような小さなアパートがあり、
月額の家賃もそこそこ、不動産会社に連絡して中を見せてもらったが、部屋が2つにユニットバスとトイレ、小さなキッチン。
最低限の荷物しか持ち歩いていないので、とりあえず雨風をしのいで生活できれば良い。理沙には十分すぎるくらいの家だった。
調理用の器具も、歩いてすぐ近くにある道具屋から調達した。
贅沢な住まいではないが、とりあえずの生活には困らない。
食事もできるだけ自炊することにした。
夜は布団の中に入ると、異様なほどの安心感にすぐに寝てしまった。
時々、木星の周回軌道で死線をさまよった時の事が夢の中に出てきて、うなされる事もあったが、
夜中に目が覚めると、上には木星の雲海ではなく、木目の板張りの天井があった。
まもなく4月になろうとしていて、夜でもそれほど寒くなかった。
とりあえず、年内には安住の地を探そうと理沙は思った。



「サンプル版ストーリー」メニューへ