「伝説の歌手」の執筆

ふらりと店に入ってきた、その女性が誰なのか理沙はわからなかった。
れいなは所用のためまだ出勤前、美紀は食材を買いに近くのショッピングモールへ出かけていたので、
ちょうどその時間帯は店には理沙ただ一人だった。
フロア席にその女性は座り、理沙は注文を聞くために彼女のテーブル席まで行った。
その女性は理沙のことをしっかりと直視していた。何かを確認するかのように。
やがて確信したように小さく頷き、笑みを浮かべた。
「ご注文は?」
するとその女性は、
「理沙なのね?」
予想外の反応に理沙は、つい曖昧な返事をしてしまった。
おそるおそるその女性に尋ねる。
「あたしよ、マリアの元マネージャー」
いったい誰だろうと、理沙は記憶をたどっていたが、彼女の口から出たそのキーワードが、
理沙の深層記憶から昔の出来事を一気に掘り返した。
持っていたメモを放り出して、理沙は彼女の手を握りしめた。

*     *     *     *

その日理沙は終日気が気でなかった。
常連客の席を開けるために、彼女をフロア席からカウンター席に移動させ、店の切り盛りをしながらも、
理沙は時々元マネージャーの席の近くまで行き、昔話が続いた。
れいなと美紀には、理沙が夜の街で働いていて、地下アイドルを目指していた過去の経験についても話していなかったので、
軍での職歴同様に、彼女たち2人には理沙の過去の謎の部分が増えることになった。
日付が変わる頃に閉店となり、れいなと美紀を帰宅させると、理沙は元マネージャーと店に2人だけになった。
40年以上の期間の話題は、たった一晩では語り尽くせない。
「でも、そろそろ2人には話さなくてはいけない時期だと思う。来年には木星へ行くことになるから」
お互いが最後に会った日から40年少々の期間、理沙と元マネージャーは、正反対の道を歩んでいた。
片や世の中のエネルギーインフラを作り上げる世界で生きた理沙、そして片や、元マネージャーはといえば、
「マリアが亡くなって、しばらくの間は気持ちの整理がつかなくて、その日暮らしのような仕事を転々として」
彼女が音楽業界に見切りをつけたのは理沙と別れて4年後の事だった。
マリアはある意味では伝説の歌手となり、本人が亡くなったあとでも未発表の曲中心に新作が数年おきに発売されて、
世間からは今でもそれなりに支持されている。
しかし、マリアが亡くなってまもない頃、会社のやり方が元マネージャーには気に入らず、社長と大喧嘩となった。
「単なる故人をネタにしたビジネスだとしか思えなくて、彼女の一番すぐそばにいた私だからよくわかっていた。
マリアはそんな人物じゃない。いつの間にか、あたしは彼女に入れ込んでいたんだろうね」
しかし理沙にも、元マネージャーと同じように、衝撃的な出来事があった。


マリアが事故で亡くなって2か月後、理沙はバンド仲間とは別れ、気持ちの整理をつけるために一人で生きてゆくことに決めた。
米国本土へと向かう便に乗るために、広い空港ロビーの中をカート1つ引っ張りながら歩く。
観光客、ビジネス客で混みあっているロビーを通り抜け、チェックインを済ませると免税店街を歩く。
並んでいる店には気にも留めず、搭乗ロビーの広場にたどり着くと、どこからか聞きなれた歌声が聞こえてきた。
ロビー広場の大画面の中で、マリアが歌い、踊っていた。
プロモーションのために作られた映像であるが、先日の衝撃的な事故のことはまるでなかった事のように、
マリアは空間に浮かんだステージの上で歌っていた。
理沙はしばらくの間その映像をぼんやりと眺め、今でも健在の彼女のその姿に気を取られた。
不思議な事に、立ち止まっているのは理沙1人だけ。
まわりの観光客もビジネス客もそのまま素通りしていた。
おそらく、皆その映像を見て歌声も聞こえているはず。そして2か月前の事故の件についても知っているはず。
にもかかわらずまるで空気のように漂っている音が、右の耳から入り左の耳から抜けているようにしか見えない。
理沙は再び歩き始めた。何かがおかしいと思いつつも。


「理沙のその気持ち、正常だと思う」
元マネージャーは、事務所の社長と喧嘩した時のことを再び語り始めた。
「マリアを、商売のための道具として扱っていることに腹が立って」
元マネージャーは事務所を去り、その後社長の肝いりでマリアの未発表曲が新曲として発売されて、
その後は時々思い出したように曲が発売されて、世間からはそれなりの評価を得るようになっていた。
「でも、そのあとでいろいろと調べてみたら、社長だけの判断というわけでもなかったらしいの」
気がつけばもう夜の2時を回っていた。
理沙は慌ただしく店の戸締りを済ませ、2人で外に出た。
24時間開いているショッピングモールのファミリーレストランに入り、話の続きとなった。
「それどころか、社長が一番の反対者だったらしいようで。私の今の仕事のきっかけは、それが始まりかな」
社長はマリアが亡くなった数年後に、突然失踪し、いまだにその行方はわかっていない。
迷宮入りの事件となり幕引きとなったが、元マネージャーは重大なメモを持っていた。
「短い文面だったけど、あたしの元に手紙が届いて。そのメモで社長に対する気持ちが180度変わったの」
手紙の中には、マリアの新曲発売の際に口論となった、元マネージャーへの謝罪の言葉が書かれていた。
そして手紙の最後には、意味深な一言が。
[彼女はもう私の手を離れてしまった。巨大な力が彼女を無理やり生かしている]
元マネージャーはコーヒーを一口飲み、深くため息をついた。
理沙もまた深くため息をついた。
「そこで、あなたにお願いが」
外を見ると、東の空がぼんやりと紫色に変わり始めていた。

*     *     *     *

れいなと美紀に店を任せても大丈夫だと判断し、理沙は店への出勤を週3日にした。
常連客からは多少の苦言があったが、れいなと美紀の常連客も徐々にでき始めていたので、
もう心配するほどのことでもなかった。
週のうち3日は自宅で過ごし、木星で予定されている新しい仕事についての準備に費やした。
木星で落ち合う事になっている、新型宇宙船の情報が着々と理沙の手元に届き、
その規模が大きい事に驚かされたが、実物を目の前にしたらどんな気持ちになるのか、まだ想像がつかなかった。
また、事業団で働いていた時の膨大なノウハウを、後進育成のために役立てることを目的に、
自身の40年近い技術士官としての経験をまとめることも、片手間ながら徐々に始めていた。
これは事業団長官からの直々の願いでもあり、かつては深い仲になりそうになっていた長官への個人的な思いは捨てて、
あくまでもビジネスとして取り組んだ。
週末の1日を使って、理沙は元マネージャーから依頼された執筆をすることにした。
誰かがどこで聞いているかわからないので、先日の会話の続きはメールでやりとりすることにした。
元マネージャーは、執筆してもらうにあたり、自身のこの小説への思いをまとめたメモを送ってきた。


[私がこの事を書こうと思ったのは、事務所の社長が失踪直前に私に送ったメモがきっかけです。
社長も私と同様に、マリアが故人となっても新曲を発表することには反対でした。
でも、社長は反対することさえできない、止む得ない理由がありました。
私が受け取ったメモの最後に書かれている、巨大な力の正体は今でもわかりませんが、
おそらく、巨大な何者なのでしょう。
立ち向かえば命が危険にさらされる可能性もあるのでしょう。
社長はおそらく生きていないと私は思っています。
私にこの手紙を託したのは、生きていたマリアの真相を、形にして世に出してほしいと願っていたのではないか。
だからといって私にその力があるのかどうか、それはわかりません。
今日まで社長からのメモはそのままで、私はジャーナリストとして仕事を転々としていましたが、
ふと、あなたのことを思い出して、あなたと一緒になってマリアのことを書きたいと思いました。
歌と、ステージ上で歌っている姿、映像の中だけで生きているマリアに気を取られる事なく、
実は今見ているマリアの姿がすべて虚像であることに気づいてほしい。
マリアの背後にいる巨大な何者かの力に気づいてほしい。
それが私があなたと一緒に、生身のマリアについて書きたい理由です]

*     *     *     *

頭の後ろで手を組みながら、理沙はモヤモヤとしている考えを整理した。
元マネージャーが事務所の社長から受け取った、一枚のメモからの始まり。
理沙も同じようにヴェラから託されたメモをもとに、巨大システムの根本的な問題点に気づき、そのメモから考えを発展させ、
これから先に向けての大きな課題点について指摘をした。
理沙からのシステムの問題点に関する指摘について、いまだに事業団も軍の技術者たちも明確な答えは持っていない。
しかし、これから先どこかで行き詰ることは間違いなかった。
長官は理沙に助けを求め、理沙は再び問題に正面から立ち向かう事を決めた。
そして、アプローチは全く異なるものの、マリアの元マネージャーもまた巨大システムの存在と、問題点について気づいていた。
木星へと向かう前に、やらなければいけない事がまた一つ増えてしまった。
その後理沙は元マネージャーと何度か会話し、小説のタイトルは「伝説の歌手」に決まった。



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