顔を見せない女

木星へと向かう、巡洋艦「アトランティス」に乗り込む日まであと1週間ほどになった。
テキサスの研修センターでの事業団と軍の間での調整も大詰めとなり、お互いの役割分担はほぼ決まった。
新型宇宙船も、日々伝えられる状況報告では、艤装作業が順調に進み、予定通り来月には木星へ出発できるとの事。
会議室での長々と退屈な調整会ばかりの日々がしばらく続き、理沙も少々気が滅入っていたが、
準備が進み具体化してくると、気持ちも高揚してくるのか会議に自然と熱が入ってきた。
地球上3か所に分散している160人の乗組員予定のスタッフは、
地球/月L1作業プラットフォームでの合流に向け、最後の合同準備会議を行った。
「いよいよ来週、予定通りに木星へ向けて出発することになります」
理沙は、会議室とマルチモニタースクリーン画面の向こう側にいる、160人のスタッフに意気揚々と語りかけた。
「軍と事業団の間で、お互いの利害が衝突したことも多々ありました。でも、それは今となってはプラスと捉えています。
言いたい事をお互いに意見として述べて、そこから合意出来る事、出来ないことを明らかにして、
合意できないことはどうすれば合意できるのか、非常に非効率的なプロセスではありますが、きちんと議論を進めたことで、
私たちの協力関係は強固なものとなりました」
太陽系を離れて恒星間の大海へと乗り出してゆく事は、人類にとって初めの経験である。
前例のないことをやろうとしているのだから、困難なのは当然の事だ。
「とはいえ、まだすべてが完成したわけではありません。
船体はできあがりましたが、内装がまだ出来上がっていない、ある意味壁紙貼り作業途中の新築の家です。
家具だって揃っていない。私たち管理スタッフが乗り込んでも、船をひとつの社会として確立させるための人々が必要です。
出発まで時間はまだまだかかると思っています。もしかしたら、何十年かかるかもしれない」
そして理沙は、訓示の最後をこう締めくくった。
「とはいえ、私たちはスタートラインに立ちました。私たちは最初のスタッフであり第1期生です。どうぞよろしくお願いします」

*     *     *     *

3人の船の管理者会議。
会議といっても、こちら地球側は2人で対面での会話できるのだが、
もう一人は3億キロも離れた、太陽を挟んで反対側の場所にいるため、コミュニケーションは時差つきである。
しかも、本人の希望なのか画面なしである。
文字だけのコミュニケーションに理沙は違和感があった。
[本日の進捗です]
いつものように女性士官からのメッセージが時刻通りに届く。
艤装作業の状況、先行して整備が進む管理ブロック、今日は発着用ロビーの映像が含まれていた。
船を横づけするためのアンカー設備や、ドッキングポートも整備が進んでいた。
発着用ロビーは、作業用プラットフォームのロビーよりも広く、単なる宇宙船内部の設備とは思えないほど。
ちょっとしたスペースコロニーだと女性士官はコメントしていた。
[来週の出発に、特に支障はないでしょうか?]
彼女は地球から出発する160人のスタッフの準備状況を尋ねてきた。
理沙は、全て準備は整っており、特段心配はないと返答した。
新型宇宙船には、32人のスタッフが乗り込み、16人が2つのグループで木星までの公試運転を担当する事になっており、
12時間2シフトの生活は、個人的には少々辛いと女性士官は述べていた。
とはいえ、これは彼女の冗談のようなもので、実際にはこき使われて辛いのは32人のスタッフだと、
会議が終わってから大佐は言った。
「氷のような女性だという噂もある。まぁ、今まで裏方ミッションのようなものばかり参画していたらしいが」
木星、土星へと先陣を切って乗り込み、木星資源開発という社会インフラを支える仕事に参画してきた理沙に対し、
その女性士官の経歴は、実用的な軍の宇宙船の建造や、地球/木星間の航路の確立、非常時における救助体制等、
あまり目立たないが非常に重要なミッションに主に参画していた。
理沙たちが今回乗り込む、巡洋艦「アトランティス」も、彼女が参画したタスクが作り上げた標準型巡洋艦のひとつである。
「冷静さと、仕事の正確さには定評がある。とはいえ、今回は少々危険な事もあったらしいが」
自動増殖システムMetal-Seedが、今回の新型宇宙船の建造にも使われているという事は、理沙は以前から知っていたが、
増殖プロセス中の劣化エラーで、一時は建造の中断、最悪は核爆弾による全破壊の決断まで迫られていたことを、
理沙はそのとき初めて知った。
軍の中では最高機密事項ともいえる大事故寸前の事態となったが、もし自分がその場に立ち合っていたら正しく対処できただろうか。
想像すると、理沙は背筋が少々寒くなるのを感じた。
翌日の会議の場で、理沙は彼女に問いかけてみた。
[そろそろ、あなたの顔が見たいです]
30分ほど待って、彼女からの返信。
[現地で直接お会いしましょう]
今まで何度も同じような問いかけをしたものの、今回も反応は非常にそっけないものだった。

*     *     *     *

軍人特有の、プライドというものだろうか。
このようなタイプの人物には、理沙は今までいくらでも対峙してきた。
士官クラスともなると、表面上は相手を尊敬しているように振舞うが、心の底ではお互いに違うロジックが働いていた。
木星資源開発プロジェクトのために、事業団に出向となっていた間も、年に何回かは軍のセンターに出頭することがあり、
廊下を歩くと時々そのようなタイプの女性士官に出会う事があった。
彼女たちは常にさっそうと廊下を歩き、意気揚々と男性士官と一緒に仕事の自慢話をしている。
特に、実戦経験のある士官は、実戦経験のない士官を別人種のように見ているようである。
最前線の戦闘には、今ではアンドロイド兵が大量に投入されていて、後方で管理画面を見ているだけで実戦経験と言えるのかと、
理沙は時々不思議に思う事もあったが、基準は今でも実戦経験の有無が幅をきかせていた。
[あなた、実戦経験は?]
とある女性士官とラウンジで雑談をしている時に、そんな話題を彼女の方から理沙に振ってきた。
こんな時に上下のマウント合戦していったい何になる?
[木星と土星で、生死の境をさまよった事もあります。沢山の部下と一緒にね]
軍だろうが、民間のプロジェクトだろうが、命を張って戦ってきたことには変わりはない。
お互い、社会を支えるプロジェクトに参画してきた者同志、戦友のようなものだと理沙は思った。

*     *     *     *

地球/月L1へと向かうシャトルに乗り込む日がやってきた。
密室での会議ばかりの日が終わり、空港へと向かう日の朝は、すっきりとした朝焼けだった。
朝の5時になったばかりだが、かなり明るい。
理沙は高速を走るバスの窓から工業地帯の風景、元自宅近くの風景を眺め、ふと後部座席を振り返ると、
皆、疲れ果てて寝ていた。
昨日、出発前日のパーティーで夜遅くまでしこたま飲んでいるはずである。
あれほど飲むなと理沙は全員に言ったのだが、真に受ける者は少なかった。
おそらく、シャトルでの飛行中に酔いでかなり苦しむ事になるだろう。自業自得というやつである。
理沙は、昨日も女性士官とリモートで会話をしていた。
事務的な連絡事項に目を通し終えると、理沙はいくつかコメントをしたのちに、あすの出発に関するいくつかの連絡事項、
そして最後に彼女に対して、
[お互いに、無事に木星にたどり着けることを願っています。直接会えることを楽しみにしています]
すると、ほぼ時間通りに彼女から返信がやってきた。
[ええ、私も楽しみにしています。艦長。道中のご無事を祈っています]


空港に到着し、淡々とした手続きの後にシャトルは空港を出発した。
80人は低軌道ステーションに到着後、ハンブルクから出発した80人と合流し、合計160人は輸送用軌道シャトルに乗って、
地球/月L1プラットフォームへと向かう事になっているのだが、ハンブルクからの80人の到着が遅れるとの事。
「体調不良者が10人ほど、まぁ、昨日の飲みすぎが原因なので心配ないです」
大佐からその事を聞いて、ああやっぱりと思った。
シャトルから降りるときに青ざめた顔をいくつ見ただろう。
「明日になれば、良くなるでしょう」
理沙の気持ちはもうすでに木星へと飛んでいた。あと2ヶ月少々かかるのだが。
初対面となる女性士官は、果たしてどのような人物なのかということが、現時点での理沙の最大の関心事だった。



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