苦言を述べる

グラスモニターで辺りを眺め、理沙は画面上に表示される温度分布を確認した。
「温度ムラがあるわね。換気をきちんとしないと結構暑くなるかも」
グラスモニターを直子に手渡し、理沙は再び辺りを見渡した。
まだ作業灯が辺りを照らしているだけで、暗くて遠くまではっきりと見渡すことはできないが、
居住区がまだ構造物むき出しの状態であることはよくわかった。
幅100メートル少々の広い道が延々と続いているようにも見える。
ただし、普通の道路と違うのは、延々となだらかな登坂のように見える事で、坂の向こうは暗闇の中に消えていた。
振り返って後ろも同様で、なだらかな登坂は暗闇の中に消えている。
直径が300メートル以上ある、一番底の部分、と言う表現は少々語弊があるが、理沙と直子は今ドーナツ型構造物の中、
環境整備中の居住区を散策しているところだった。
「あ、ちょっと避けた方が」
直子に注意され、理沙は背後からやってきた搬送用ロボットを避けた。
歩いている床の部分も、道路の部分はきちんと路盤パネルがはめ込まれ、道路らしくなってはいるが、
道路の両側は、構造物パネルそのままである。
「こんな状況で、あと1年で完成できるの?」
「大丈夫。着々と進めていますから」
2人は、居住区を1周する中央通りを歩きながら、道路の両側で進められている建設作業を眺めた。
木星到着と同時に、居住区のドーナツ状構造体は稼働開始し、ゆっくりと動きながら地球上の6分の1の疑似重力を生み出していた。
そのため、他の区画と異なり、ここでは自分の足で歩きながら苦も無く移動することができる。
音もなく、平面モーターがじわりと、面全体で動きながらドーナツ構造体全体を動かしていた。
「この辺りが、商店街になる予定です」
直子が立ち止まったその場所は、灯りもなく、床は構造体パネルがむき出しのまま。建設作業も始まっていない。
理沙は、交差点の中央に立ち、グラスモニターを再び装着してこのあたりの完成予想図を確認した。
作業の進捗の事を気にしている理沙に対して、直子は改めて言った。
「恒星間移住宇宙船とはいえ、まだプロトタイプだし」
理沙はグラスモニターを再び顔面から外した。
「まぁそうだよね。いつ出発するかもまだ決まっていないし」
2人は再び歩き始めた。
「あたしたちが生きている間に、出発できるかどうかもわからない」

*     *     *     *

画面で見る長官の表情は冴えなかった。
数日前に理沙は、木星に到着して1か月間の苦労話を、長官に淡々と語ったが、
蓋を開けてみてわかったような事が多く、当初の想定と現実との間の乖離について苦言を述べたい事ばかりだった。


「大統領が交代して1年間は、特に目立った方針転換はありませんでしたが、
私が今回のプロジェクトに参画した頃から、なんだか雲行きが怪しくなったという事は感じていました。
でも、ここまで現場がひどい状況だとは思っていませんでした。近いうちに状況報告いたしますが」
そこでひと息ついて、理沙は画面の前から離れて自室のキッチンへ行き、ボトルコーヒーを冷蔵庫から取り出した。
「それと。。。。。」
画面に背を向けて、コーヒーを一口飲んでから、理沙は再び話し始めた。
「あたしにはあえて黙っていた事なのかもしれませんが、軍の女性士官の件は、正直言ってびっくというか、
少々焦りました。管理引継ぎのセレモニーの時の私のスピーチは、今までの経験の中で最低なものになりました」
引継ぎセレモニー以降、直子と会うたびに理沙は常に違和感を覚えていた。
彼女は軍関係者の中でリーダーとして堂々と動き、毎日行われる会議の場でも事業団側と対等に渡り合っていた。
だからこそ理沙は妹のその言動が信じられなかった。
外見は昔の写真の中の直子そのまま、しかし、言動は冷酷な軍の管理職。
「まぁ、そのうち慣れるでしょう。彼女とはこれから仕事では徐々に協力関係を作っていく事になるでしょうし、
プライベートでもうまくやっていけると思います」
彼女との間の、40年以上の心の中のギャップはそう簡単に埋めることはできない。
理沙は、家族とも断絶し、父親が亡くなったことを知った10数年前から、自分に身寄りがない事を事実として受け止めていたが、
直子と再会してからの1か月間で、その気持ちは激変していた。


長官から、再び返事があった。
とはいえ、内容は理沙の頭の中にほとんど残らないほどの、非常に薄っぺらい内容だった。
もうこれ以上長官に苦言を言ってもしょうがないと、理沙は思った。
映像は終わった。
理沙はベッドに横になり、明日の予定について頭の中で整理していたのだが、いつの間にか寝落ちしていた。

*     *     *     *

理沙と、直子と大佐の3人だけの会議室。
15:00から30分ほどの、毎日行われる日々の進捗会のようなものだが、
事業団も軍も関係なく、同じ木星で生活する仲間のような気分で、共通の話題や課題について話し合っていた。
「いよいよ明日、作業プラットフォームC側の準備ができたので、接岸します」
そして直子は船内の各セクションの準備状況について報告をした。
あすの当直への段取りはすべて完了しており、理沙もまたチェックリスト上何も問題ないことを確認した。
さて、と話題を変えたのは大佐だった。
「あすのリーダー会で話しますかね、国の方針転換の件」
理沙は腕組みをして、少しの間考えた。直子がじっと見つめている。
「もう皆が知っている事でしょうね。私たちが話しても現場の動揺が少々減るくらいで変わりはない」
3人は、作業プラットフォームへの接岸が完了後の会議の際に、国の方針転換についての話をすることに決めた。
会議が終わると、当直である大佐は中央制御室へと向かい、
大佐と交代して非番となった理沙は、今日は元々非番である直子を誘い散歩もかねて居住区へと向かった。

*     *     *     *

作業プラットフォームCへの接岸は、何の問題もなくあっさりと完了した。
10数年間、次々と増築を重ねて、作業プラットフォームCは既に1000メートル以上の構造物に成長していた。
木星に来るたびに理沙はその巨大さに感心していたのだが、今回あっさりその立場は逆転した。
作業プラットフォームCは、その2倍もの大きさの宇宙船と接続されると、傍から見るとまるで付属品のように見えた。
いつになるかまだ決まっていない、恒星間への旅に出るその日までは、この状態が続くことになっている。
通路が接続されると、まずは管理者トップである3人が作業プラットフォームCへと向かった。
接続先の旅客ターミナルで3人は、整列した管理職メンバーからさっそく歓迎された。
先頭に立って出迎えてくれたのは、木星の核融合燃料生産事業の管理職トップである行政官だった。
「ようこそ木星へ、皆様を歓迎いたします」
理沙は行政官と握手を交わした。
歓迎セレモニーは10分ほどのあっさりとした短いもので、
3人は行政官の案内で、中核ブロックの会議室に通された。
中核ブロックの設備は、理沙にとっては珍しくもなんともないものばかりだったが、現在の行政官と直接会うのは今日が初めてだった。
現場での出来事についての雑談がしばらく続き、いったん会話が落ち着いたところで行政官は話題を変えた。
「さて、これで人口が200人少々増えたわけですが」
会議室で行政官に同席している、数名の管理職たちが何か目配せしているように見えた。
「実は、人口が増えることを歓迎しない方々がいます。皆様もご存じの通りですが」


これほどまでに政策はがらりと変わってしまうものなのか。
事業団長官から既に事情は聞いており、連携された資料からも現場の窮状は知る事ができたが、
やはり百聞は一見にというものである。
作業プラットフォームCの中に漂う空気から理沙は敏感に感じ取っていた。
既にここには、理沙が知っている以前のような生き生きした雰囲気はない。
かつて現場を支えていた、最前線の技術者たち、[ミスター核融合]のような有能な技術者が常に激をとばし、
時には怒号と罵声が飛び交う事もあったが、それは真剣に仕事に取り組んでいるという裏付けでもあり、
地球国家のエネルギー需要を支えているという自負が、現場の作業員にはあった。
今の木星の現場は、政府からのコストカットの締め付けと厳重な管理によりがんじがらめの状態にあった。
そこに、明確な目的もないままに、とりあえず建造された巨大宇宙船が加わった。


その5日後、公試運転を完了し、さまざまな管理の引継ぎが終わった巨大宇宙船は、
正式に事業団管轄の宇宙船として登録され、作業プラットフォームCの旅客ブロックで正式な命名式が行われた。
ホワイトハウスからリモートで、大統領が船の建造目的と命名にあたってのエピソードについて演説し、
船は、2年前に亡くなった大統領の名前で呼ばれることになった。
[恒星間宇宙へと進出するという、前大統領の意志のもと、この船は建造されました]
壁面ディスプレイに映し出されている、現大統領を見ながら、
理沙は、なんとも皮肉というか茶番だなと思った。
すぐ隣に立っている、行政官の方をチラ。。。と見ると、彼もまた理沙の方を見つめていた。
お互いに苦笑いをしながら、2人は大統領の演説に再び耳を傾けた。



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