行政官の交代

「わざわざこちらに来られるなんて」
理沙は到着した新任の行政官に手を差し伸べた。
「いえいえ」
理沙が差し出した手をしっかりと彼はしっかりと握りしめた。
「まずはあなたに会いたいと思っていました」
新任の行政官は、作業プラットフォームの発着ロビーに到着するなり、現行政官との挨拶もほどほどに、
連絡通路を通り宇宙船へと乗り込んできた。
後任の行政官と会うのは、交代式の後だとばかり思っていた理沙は、
非番ではあったが、急いで自分の部屋を出ると、さっそく連絡通路へと向かった。
「士官学校卒業式での訓示は、なかなか楽しい内容だったと聞いています。私も生で聞きたかった」
そんな話題をいきなり初対面で持ち出すものだろうか。
理沙は笑顔で対応したものの、しばらくの間少々心外な気持だった。

*     *     *     *

行政官の交代式は、予定よりも3時間遅れで、作業プラットフォームの会議室で行われた。
その予定外の3時間の間に、理沙は後任の行政官の希望で宇宙船の内部を案内させられることになった。
大変申し訳ないと、彼は恐縮しているような素振りを見せていたが、それでいてやんわりと無理を通そうとしている。
新任の行政官は、軍の出身であることを理沙は前もって知っていたが、軍歴を調べながら理沙は彼の人となりを分析していた。
このような士官はなかなか手ごわいパターンである事が多い。
「長い間お疲れ様でした」
交代式の場で、後任の行政官はまず前任者に対してねぎらいの言葉を述べた。
「いろいろと批判の言葉はあったものと思いますが、ここでの仕事は非常にミッションクリティカルであるゆえ、
失敗した時の影響が大きいのは当然の事です。あなたの事故後の対応は非常に適切であったと私は思っています。
これからも、木星の次の発展のために引き続きお手伝い頂きたい」
長い式典は好ましくないとの新任の行政官の要望で、関係者数名だけ、15分ほどのコンパクトな交代式となった。
「これで肩の荷が降りたわね」
今日からは技術開発担当のリーダーになった前任の行政官に、理沙もねぎらいの言葉を述べた。
「またこれで地球への帰還予定が1年伸びました」
あまり嬉しくないといった表情だったが、理沙は彼の肩をぐいと押し、
「いろいろとやって欲しい事もあるわけよ。よろしく頼みますね」
ふと視線を感じ、理沙が振り向くと、すぐそばに行政官が立っていた。
会話の内容を聞かれているだろうとは思ったが、まぁいいだろうと思った。
内緒にする必要もない。
その事はこれから徐々に明らかになってくるはずだった。


行政官の思いがさっそく表面化したのは、最初の定例会議の場だった。
地球から木星への移動中にも、何度か会議の場で考えを述べるのを聞いたことはあったが、やはり直接面と向かって聞くのは、
感触が少々違ってくるものである。
「この木星開発事業に関して、私は今後どのようにしたいのか、私なりの思いを述べたいと思います」
よくありがちな、まずは上層部からの思いをそのまま伝えるといったものはなかった。


「調査段階から含めると、かれこれ50年のプロジェクトではありますが、今は莫大な投資に対する見返りを得る時期にあります。
種まきと長い育成期間は終わって、刈り取りの時期にあるわけです。
その刈り取りの時期にふさわしく、木星の核融合燃料生産事業は、地球だけでなく太陽系全体のエネルギー需要を支えています。
皆さんも知っての通り、地球は今非常に危機的な状態にあります。
何十年かに一度の、新型感染症の大流行で世界の生産、経済に関する活動はほぼ停止状態にありました。
今年に入ってから徐々に回復に向かってはいますが、世界全体が相当なダメージを負っています。
元の状態に戻るまでには、1年2年の単位ではなく、もっと時間がかかるものと思います。
しかし、そのような中で、地球外の居住地は幸いにも無傷で、
ここ木星の生産現場は自動化プラントがフル稼働状態で、地球の核融合エネルギー需要をほぼ全量まかなってきました。
瀕死の状態にある地球の、生命線とも言えるほどの存在になりました。
そしてここ木星はさらに成長の余地があります。その象徴がこのプラットフォームに係留されている巨大宇宙船です。
何の目的のために作られたか、極秘の状態で建造が進められて、
その姿が公になったとき、地球上では議論も沸き起こりました。
こんなに巨大なものをいったい何のために?
もっと優先してやるべき事があるのではないかと。世論は紛糾しました。
この宇宙船が建造された真の目的については、まだ公表されていません。
今後もうやむやにされる可能性もあります。実のところ、今後のロードマップについてはまだ決めかねています。
とはいえ、今後やってくる危機的状況に備えて、今から徐々に準備をしているといった状況です。
いずれ明らかになる日がやってくるものと思います。私たちはその目的のために最前線で戦う立場にあります。
その責任を常に認識しつつ、共に働きましょう」


行政官の最初のスピーチが終わり、特に連絡事項もなく会議はそのまま終わった。
席を立とうとしたところで、向かって右斜め前に座っていた直子と視線が合った。
彼女と一緒に会議室を出て、船に戻ろうと連絡通路へと向かう。
「どう思う?」
理沙が尋ねると、直子は何も言わず少しだけ首を傾けた。
「可もなく、不可もなくといったところ?」
「まぁ、ロードマップが決まっていないというところは、合っていると思う」
連絡通路を抜けて船に戻ると、当直の開始時刻1時間前ということで、直子は中央制御室へと向かっていった。

*     *     *     *

「これより、テストフライトの概要について説明をいたします」
元行政官である、技術開発担当リーダーの説明が始まった。
会議室中央の画面を前に、正面に行政官が座り、理沙は彼から見て向かって右側の席である。
なので、リーダーの横顔がよく見えた。そして表情の微妙な変化も。
会議テーブル中央の立体ディスプレイに、まずは木星全体の映像が映し出され、赤道付近が拡大表示された。
「今回は、赤道付近の飛行を行います。雲が西から東に流れる、気流が比較的安定している部分です」
彼の背後の壁面ディスプレイに、飛行コースの概略が表示された。
作業プラットフォームEを出発して、雲の頂上までひたすら降下する軌道をたどり、上層大気に突入するまでは
大気採取用の原子力ラムジェット機と同じコースだが、今回はさらに降下して大気中を長時間飛行するというものである。
「今まで試験的に使用されていましたが、生体インターフェイスを使用し、パイロットには疑似的な飛行体験をさせます」
作業プラットフォームEのシミュレーター内の操縦者から、線が伸びているのが見えた。
神経をシステムに直結させて、直接機体を操縦させるというものである。
技術的にはすでに数十年のノウハウの蓄積があるが、
操縦する際の体へのフィードバックの感覚、没入感においてリアリティが極限まで追及されていた。
「パイロットの感覚として、まるで自分の体そのものが飛行しているような体験をすることが可能です」
木星大気中での飛行時間は予定では3日間ほど。
その間寝る時間もないのかと、さっそく行政官から質問が出た。
「生体インターフェイスの実験は二次的なものです。主たる目的は木星大気中への往復飛行です」
ある意味、今まで自分たちの上位であった人物に対して、軽々しく質問するなどということは普通では考えられない事だが、
行政官から彼に対して次々に質問が投げかけられるのを見て、他の管理職もまた徐々に質問を始めた。
立場の変化というものは、こんなものなのだろうか。
しかし理沙が見たところでは、当のリーダー本人は質問されることを楽しんでいるようだった。
彼にとっては、管理職である事よりも、一人の技術者であることが性に合っているようである。


核融合ラムジェット機の出発の日がやってきた。
技術リーダーは、作業プラットフォームEで直接指揮を行い、理沙はその状況を宇宙船の会議室でリモートから見守った。
「作業アームを展開」
技術リーダーの合図で、核融合ラムジェット機が格納庫から引き出される。
大気採取用の原子力ラムジェット機よりも、ふたまわりほど大きな機体。
それでも機体の形状は、原子力ラムジェット機と比べてすらりとした形で非常に洗練されているように見える。
[出発準備完了]
パイロットの声が聞こえた。しかしこれはパイロット本人の生の声ではない。
生体インターフェイスに繋がれた脳が、スピーカーを通して直接話している声である。
[作業アーム切り離し10秒前]
カウントダウンの読み上げはなく、やがて突然カウントゼロとなり船体は木星へ向かって降下を始めた。



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