新橋・ガード下での記憶

プロキシマ・ケンタウリへの出発準備が着々と進む中、いまだに方針が決まらない事が一点。
250年の航海中、宇宙船居住者を人工冬眠で眠らせるのか、それとも自然の摂理に従い宇宙船内で世代交代を行うのか。
議論は何度も行われたが、管理者および宇宙船居住者の中では意見が二分していた。
そんな中で直子は、どちらの意見ももっともだと思い、どちらの意見にも賛同せず少し離れたところから議論を眺めていた。
意見が対立していたとしても、いつかどこかで落ち着くだろうと思っていたからだった。
とりあえず、出発してから決めてもいいのではないか?
出発の日に向けて、出発式の訓示を書いて欲しいと行政官から依頼されたのは、管理職会議の場で意見が揉めている最中だった。
直子はごく軽い気持ちでその依頼を引き受けたのだが、いざ考え始めるとなかなか書くことができないものである。
この類の訓示をしたことは、今までに山ほど経験しているはずなのに、なぜか筆が進まない。
その日もいったんは諦めて気分転換に昔の映画を見てから、その後寝てしまった。
気分がすぐれない時に、直子はいつも決まって思い出すとある出来事があった。

*     *     *     *

かつて同僚であった元大佐から、久しぶりに直接会いたいとの連絡があった。
待ち合わせ場所は、新橋の駅前の広場。
10月も中旬になろうとしていたのに、その日も真夏のような暑さだった。夕方5時でも気温は30度を軽く超えていた。
直接会うのは20年ぶりだろうか?しかし、リモートでは事あるごとに会っていて、
お互いに100歳近いのだが、元大佐は元部下と始めた事業のことを楽しそうに話していた。
「ここはやっぱり暑いな、ちょっと涼しい場所に行こう」
しかし、言っている事に反して、元大佐の選んだ店は混みあっている居酒屋だった。
人気店なので座るまでに15分ほど外で待たされ、冷房のよく効いた奥の部屋に通された。
「あなたにしては似合わない店ね」
不満も半分、直子は少々苦言を言った。
「この雰囲気が好きなんだよ」
軍を退役してからは、退職金と年金を元手に事業を立ち上げて、実質的な経営は元部下に任せて、
一年の半分の期間を旅行に費やしていた。
しかも、宇宙には全く興味はなく、ひたすら田舎歩きのような旅行をしていた。
「田舎はやっぱりいい、特に生ぬるい夜風を浴びている時なんかは」
かつて、姉と一緒に3人で木星の自主独立の中心に立ち、ともに地球政府と戦った仲間だというのに、
その彼は今では自然豊かな東南アジアの土地で、悠々とその日暮らしのような生活をしているとは、
非常に違和感を覚えた。
「それで、話したい事って何かしら?」
「その前に、まずは注文しよう」
大ジョッキのビール、焼き鳥の盛り合わせ、香辛料の効いた南国風の焼き物。
直子は辛い焼き物は敬遠しつつも、焼き鳥はだらだらとビールを飲みながら何本か食べた。
旅行の話が、今回も話のねたの中心となっていた。
神経をすり減らすような、軍での生活の対極に位置するような、田舎での静かな暮らし。
時にはバッグパック1つで広い平原を歩き、宿泊場所がなければ農家で寝泊まりしつつ、
農作業を手伝いながら数週間村に滞在したこともあったようである。
軍での彼の姿を間近で見ていた直子だったが、違和感は覚えつつも、彼の話に自然と吸い込まれていった。
直子もまた、木星の資源開発に関するオブザーバー的な仕事はしつつも、週に4日間の夜間は姉の店で働き、
客との様々な会話を楽しみにしていた。
軍を退役して、こうして2人だけで立場を忘れて素で話をしながら、直子は彼に自分と相通じるものがあるのだということを改めて確認した。
基本的に、会話する事そのものが楽しいのだ。
「さて」
彼の顔がかなり赤くなっていた。
「それで、今日の本題は?」
言ってしまったあとで、直子はいつもの会議の癖が出てしまったことを少々後悔した。
少しの間、元大佐は考えていた。しかし、
「なんだか忘れてしまったよ、とりあえず思い出すまで待っていてくれ」

*     *     *     *

2次会は、直子が奢るということで、店を移動することにした。
タクシーを拾う事も考えたが、新橋から有楽町までの夜の風景を楽しみたいと、直子は2人で歩いた。
次に入った店は、繁華街の小さなクラブだった。
れいなが店を離れて独立し、夫と一緒に小さな店を構えたという事を聞いたのは1年ほど前の事。
彼女からの誘いで、一度通っただけで、直子は店の雰囲気が気に入った。
れいなはその日は体調不良のため店にはいなかったが、2人並んでカウンター席に座り、
静かに流れている音楽を聞きながら、バーテンダーと3人でしばらく会話をした。
「そういえば」
直子は、唐突に言った。
「さっきの、話そうとしていた事って、思い出した?」
元大佐はウイスキーのストレートをちびちび飲みながら、それでも先ほどと比べて視線は安定しているように見えた。
彼は小さく頷いた。
「あなたのお姉さん、行政官の夢を見たよ」
もっと重大な事かと思いきや、期待していたほどの事でなかったので、直子は拍子抜けした。
「どんな夢?」
彼の会話に付き合う事にした。
夢の内容は、木星で毎日3人で行っていた管理職会議の光景だったとの事。
核融合燃料の生産計画の件で、現場からの要望に常に耳を傾けるのはよいが、
管理職として高い目線からの強い意見を持つこともまた大切ではないかと。
その事で理沙と議論になったという内容だった。
「相変わらず、夢の中でも仕事の事が離れないのね」
直子は10数年前の出来事なのに、いまだに頭の中から離れない、木星での管理職当時の話題を懐かしく思うとともに、
元大佐が話すそのしぐさに、つい笑みがこぼれてきた。
「でも、不思議なんだよなぁ」
バーテンダーにウイスキーのお代わりを頼み、待っている間、彼はしみじみと語った。
「まるで昨日の事のように思えるというか、夢のようで夢じゃないんだよ」
会議室の光景が昔そのままに、そして面と向かって座っている理沙と直子もまた、現実に見ているようだったとの事。
彼が語っているのを見ながら、直子は自分にも同様の出来事があったのを思い出した。


核融合ラムジェット機と一体となり、直子は木星の雲海を飛んでいた。
大赤斑内部に突入し、雲の切れ目から作業プラットフォームとの交信が回復したその時のことだった。
はるか前方に、何か光るものを直子は発見した。
「前方に光る物体。私と同じスピードで飛行しています」
管制官からの返事はなかったが、その光る物体を追いかける事にした。
光の点が、雲の中に突入したので直子はその後を追った。
雲の中を最大推力で追いかけたのだが、なかなか追いつかない。
その光の点に注意を向けたところ、ごくわずかながら音声信号のようなものが発信されているようだった。
[そろそろ上昇しないと]
はっきりと、その声は直子に語りかけていた。
しかも、聞き覚えのあるその声。でもこんなところで聞こえるなんてありえないと直子は思った。
すると、光の点は具体的なイメージとなった。
[でも、まさかこんなところで会うなんて。直子ちゃん相変わらず仕事熱心ね]
いつも見慣れている、軍の制服姿の理沙だった。
超高速で飛行しているはずなのに、髪の乱れがないところに違和感があったが、
以前、2人だけでシステム空間の中で語り合った時のように、声は非常に鮮明だった。
[姉さんこそ、こんなところに何しに来たの?]
[仕事ぶりを見に来たのよ。なんとなく気になって]
機体は降下を続けており、圧力が上昇し機体にかかるストレスが徐々に上昇していた。
[無理しないで、ここから上昇しなくちゃ]
光の点で自分のことを誘ったのは、いったい誰なのかと突っ込みたくなったが、直子は機体を上昇させることにした。
上昇中も、理沙は直子に寄り添い、やがて機体は再び大赤斑の上に出た。
[それじゃ、待ってるからね。直子ちゃん]
光の点は急速に上昇し、追いつけないほどの速さで視界から消えた。
そこで直子は目覚めた。
作業プラットフォーム内のリモート制御室ではなく、自宅のベッドの上だった。
あまりにリアルすぎる体験に、これはいったい何事だったのかと、直子はしばらくの間考え込んでいた。

*     *     *     *

その後、日付が変わるまで元大佐の話は、理沙の昔話ばかりだった。
木星での管理職としての数年間を、3人でともに経験したとはいえ、直子にとっては軍歴の中の数年間の出来事。
しかし、非常に中身の濃い数年間であったことだけは確かである。
元大佐は、まだまだ話足りないという様子だった。
「そろそろ、夜風に当たりながら酔いを醒ましましょうか」
直子は、それとなく2次会は終わりにしようと彼に持ちかけた。
彼はあまりその気はないようだったが、
「そうですね」
直子から見つめられると立ち上がった。
外は夕方までの暑さはおさまり、肌に心地よい風が吹いていた。
2人は、再び新橋まで戻るコースを、賑やかなガード下の店を眺めながら歩いた。
不夜城のように、店は夜が更けるほどさらに活気を帯びていた。
また、夜間の営業制限時間から解放された深夜の夜の街では、客引きの女性たちがたむろしていて、獲物を物色していた。
そちらの方を眺めている元大佐に、直子は少々あきれたが、
色目でもなく、ただ静かに彼女たちを眺めているその姿に、なぜか直子は注意する気になれなかった。
「賑やかだなぁ。。。。」
ひとり呟いている彼を見ながら、直子もまたきらびやかな夜の街を一緒に眺めていた。
「もう一杯、飲む?」
その一言に、直子は再びあきれたが、
彼が指さした、街の入り口のオープンカフェに入った。
道路に面したオープンデッキの席に、2人は座った。
近くの店の大音量の音楽で、お互いの会話がよく聞き取れない。
ビールを1本づつ注文し、店員がすぐにビールをテーブルの上に置くと、元大佐はちびちびとラッパ飲みを始めた。
直子もまた、彼に倣ってラッパ飲みをした。
「東南アジアの繁華街を歩くと、賑やかな場所でこんな飲み方をするんだ」
声が聞き取りずらかったが、バッグパッカーをしながら東南アジアの街を転々を歩きながら旅した経験を、彼は語った。
表通りから少し外れた、人通りの多い、露店や夜の街を歩きながら、彼は決まってオープンデッキの店でビールを飲む。
そんな飲み方のどこがいいのかと直子は尋ねた。
「特に何が、というものはないんだけどね」
再び外の喧騒を眺めながら、しみじみと、彼はちびちびとビールを飲み続ける。
そして直子もまた、外の喧騒を眺めながらビールを飲む。


ビールを2本空けて、時間にして30分ほどだったが、元大佐は突然席を立ち静かに飲む時間は終わった。
お互いに何の会話もなく、これで終わりかと思ったりもしたが、物足りない後味の悪い飲みではなかった。
それどころか、彼は満足したように笑みを浮かべながら歩いていた。
「昔を思い出した?」
彼は頷いた。
「なんか、まだ生きているなぁって気がしたよ」
新橋の駅前の広場に到着し、直子はこのあとの宿のことをそれとなく彼に尋ねた。
「大丈夫、泊るところならある」
直子がタクシーで千葉まで帰ると言うと、
「それじゃ、ここでお別れだ」
そして彼は手を差し出してきた。
直子は、躊躇することなく彼の手を握りしめた。そして固い握手を交わす。
手のひらが熱かった。
彼は駅の方に向かって歩き始めた。
直子はタクシー乗り場に向かうことなく彼の後姿をしばらく眺めていた。
その後振り返ることなく、元大佐は駅の改札に入り姿を消した。

*     *     *     *

結局のところ、あの日の出来事はいったい何だったのだろう。
久しぶりに会いたいと呼び出されて、結局のところ本題は夢の中に姉が出てきた話で、
リアルさの度合いは自分が過去に経験した出来事と比較するすべもない。
そして、夜風を感じながらオープンデッキでダラダラとビールを飲んだ事くらいか。
しかしそれでも、そのどうでもいいような出来事が、直子の記憶の中では忘れられないことのように思えた。
新橋の駅前で別れた時、握りしめた手の感覚は数十年たった今でも忘れる事ができない。
もしかしたらと、ふと直子は思った。
元大佐は、姉の事をネタにしながらも、実はもっと別な目的で呼び出したのではないか。
あの日を最期に彼とは会う事はなかった。
もうこの世にいない以上、真意を確認する事はもうできない。
しかし、その時の思い出は、これからもタイムカプセルのように直子の心の中に残り、消え去ることはないだろう。


その時、自分の事を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。
聞き覚えのあるその声。
直子は、その声のする方に振り向いた。



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