2年前のことを再び思い出してみよう

仕事の現場でも2時46分になったところで黙祷がありました。
昨年は日曜日だったので職場での行事はありませんでした。東北の人たちのことを思いながらも、
私たちの部屋では表立った動きがなかったのは非常に残念でした。心の中で祈ることにしました。

2年前は夜になってから少々寒くなりましたが、真冬ほどの寒さでなかったのが唯一の救いでした。
いまいちどあのときのことを書いてみようと思います。

当日は出張の帰りでしたが、事務所に到着したのは午後の2時あたり、
出張の清算とか事務処理をしているところで、なんとなく足元がぐらついている感覚。数日前から東北では
地震がありましたが、その延長でいよいよ関東も?と思いきや、揺れはどんどん大きくなる一方です。
免震構造のビルではあるものの、ビル全体で吸収している揺れのエネルギーは相当なもので、
壁がギシギシしている音まで聞こえてきて、恐ろしくなってしまいました。脱出できるようにドアもあけました。
またこの前みたいな地震がきたらどうする?
う〜〜〜〜ん。。。。。

どれくらいの時間揺れていたかわかりませんが、ビル内の警報が鳴ったり、アナウンスがあったりで、
非常に騒々しくなってきました。揺れよりもこっちの方がうるさいですね(^_^;

さっそくインターネットで情報収集しましたが、東京ではなく東北だということでまたか・・・・と思いましたが、
第一報での震度とマグニチュードの大きさに驚きました。
と思ったらまた揺れてくる、今度は前ほどではなかったものの、そのうちビルが倒れるんじゃないかと
恐ろしくなりましたが、とはいえ冷静にならなくてはいかんとムリにでも平静さを保ちました。

そうこうしているうちに、東北の津波の情報が入ってきたり、交通機関の情報や、
または東京の一部での災害とか、情報はどんどん増える一方で、自分たちはどうすべきかの判断はなかなか
難しい状況になってきました。
とりあえず外の様子を見に行くと、さっそく動き始めた人たちで道はごったがえしていましたね(^_^;

帰宅しようと判断して、自宅に向かった人もいましたが、会社からの公式な指示はなく、
そのまま夕方まで待つことになりました。電車の不通の情報もあちこち聞かれてきて、今日は会社でお泊りかな?
などと考えたりもしましたが、なんとかなるでしょう?となぜか開き直りの状態。
その間にも地震は何度もあって、地震警報の音がするたびにびくっとしました。

社外の状況が刻々と情報として入ってきて、部署の中では社外の人たちの安否確認で忙しい。
電話やメールのやりとりはしたくても回線がパンクしてそれどころではない。
夕方には社外の事務所とのTV会議なんかもありましたが、TV会議はできても、インターネット回線が不通になって
業務にも影響が出始めていました。

やがて夕方になり、定時をすぎると各自の判断で帰宅の許可がでました。
とはいえ電車が動いていないので帰宅する足もないし、外を見れば人でごったがえしていて歩いて帰宅すること
事態がキケンな状態なので、しばらく様子見でインターネットで情報集めをしていました。
出先から戻ってきたひともいて、社内にいても状況は変わらないので飲みに行こうか?なんて誘われましたが
そんな気持ちにはなれず、社内で待機することにしました。

夕方7時を回ると、ビルの管理会社から非常食の供給のアナウンスがあり、
いつ食べられるかわからないので非常食を貰いにいきました。お湯で温めるだけで食べられるチャーハンと
ドライカレーを貰ってきて、お湯で温めて食べると非常に美味しい♪(^_^;

飲みに行った人たちはなんて愚かなのだろう、と思いつつも、今夜はいったいどうやって寝ようかと
考えているところで、ふとネットの情報で電車が徐々に動き始めていることを知ったのは夜の9時あたり。
仙台空港の津波や、その他の場所の津波情報を見ているところでしたが、自分たちのことも
現実的になんとかしなくてはいけないので、一緒の方面に向かう人と電車に乗ることにしました。
帰れそうなの?(^_^;

駅に向かってみれば、ホームは人でいっぱい。もちろん予想はしていましたが、
電車はなかなかやってこないし、来る電車は満員と通り越してすし詰め状態。乗れるような状況ではありません。
それでもなんとか乗ってしまうのだから恐ろしい、なんとか乗り込んでも体の自由はきかないし、
カバンを持っている状態なので、カバンを持っていかれないように注意しなくてはいけない。

ドアはなかなか閉まらないし、電車が動き出してもノロノロとした走りで駅との間で何度も止まってしまう。
終戦後の買出し列車はいったいどんなだったのだろう?なんてことを考えながら、
それでも着実に自宅に近づいているということで、無理やり自分を納得させていましたね(^_^;

電車もある程度のところまでくると降りる人の方が多くなり、終点のちょっと手前まで来ると、
ほとんどの人が降りてしまったので、さっきまでの大混雑はなんだったのだろう?な状態。
でも、まだまだサバイバルは終わらない。終点で降りると今度はバス停やタクシー乗り場が大混雑。
少し歩いて状況を調べましたが、とてもタクシーに乗れる状況になく、道路は大混雑。

自宅までは1時間も歩けば確実に行けると思ってはいましたが、なにせ夜の真っ暗なところ、
しかも3月とはいえまだまだ寒い。ということで自宅に電話をすると家族に電話がつながりました。
さっそく場所を説明して車で迎えに来てもらうことにしましたが、もしだめだったら歩いて帰ろうという
覚悟はしていましたね。でも、電話がつながってヨカッタ(^_^;

待つことたぶん30分ほどで車は到着し、会社から一緒にサバイバルをしてきた方をご自宅まで送って、
我が家に戻ったのはたぶん夜の2時をまわったあたりでしょうか?
幸いなことに部屋は乱れていることもなく、普段通りだったので安心しました。

それからあとは、1時間ほどTVの情報番組を見ていたりとかしましたが、
パジャマに着替えて、布団には入らずにコタツの中で寝ていたというよりも横たわってTVをつけていました。
何が起こるのか不安があったからということもありましたし、実際に夜中にも地震警報で何度も起こされましたね。

あまりしっかり寝られない状態で翌朝になり、翌日もほとんど出かけることもなく自宅で過ごしましたが、
東北の状況と、乱れている交通機関と、都内の災害状況がほとんどのところ、福島の原発の危機的な状況も
徐々に入ってくるようになりました。
そしてそれから数日のうちに、原発が2度も大爆発するとはね。。。。。
ダメだ、もう限界。。。。。

サバイバルながらも、なんとか自宅に戻れたのは幸いだったなぁと思います。
もしも、という状況があの時はいくつもあって、
もしも、出張からの帰りがあと1時間遅れていて、電車で移動中に被災したら。。。。。
もしも、夕方の時点で帰宅しようとしていたら。。。。。
もしも、帰宅をあきらめて会社で寝泊りしようとしたら。。。。。
もしも、自宅に電話してもつながらなくて夜中に歩いたとしたら。。。。。
状況と場合によっては、騒動に巻き込まれて最悪はケガをしていたかもしれませんね。。。。。

とにかく、無事でなによりでした。としかいいようがありません。
同じような経験をしたくはありませんが、
いつ災害が起きても生き残れるように心の備えだけは怠りないようにしたいと思います。