001_34_前向きな別れ

更衣室には、二人だけだった。
音がない。衣擦れも、止まっている。

理沙と彩名は、向かい合っていた。
距離は近い。
手を伸ばせば、触れられる。どちらも動かない。
視線だけが、交わる。

長くはない。だが、切れない。
そこに、強さはなかった。
押し合うものも、ない。
ただ、同じ場所に立っているだけだった。

やがて、彩名が言う。

「わかったよ」

短く、それだけだった。
理沙は、何も返さなかった。それで終わる。

その月の終わり。
理沙の最終出勤日も、いつもと変わらなかった。

特別な飾りはない。
告知もない。
店は、普段通りに開いた。

客が入り、音が流れる。
その中に、いつも見ていた顔があった。
開店してすぐに帰る客が、その日は残っていた。
時間が過ぎても、席を立たない。

理由は聞かない。必要もなかった。

理沙はステージに立つ。
照明の中に入る。

最近の曲を、いくつか歌う。
声は安定していた。
揺れない。空気も、整う。
いつもと同じだった。

終わりに近づく。

ママが視線を送る。
合図だった。

理沙は、もう一曲を選ぶ。
少し考える。

別の曲を選ぶ。
そのまま、歌う。最後まで通す。
「Vanishing」は、歌わなかった。

ステージを降りる。

拍手が続く。
大きくはない。だが、途切れない。
理沙は軽く頭を下げる。

ママが近づく。
短く言葉をかける。品物を手渡す。

客も、何かを差し出す。
理沙は受け取る。一つずつ、確認する。
それで終わる。

営業が終わる。
ミーティングがある。
オーナーが話す。短い言葉。
ママも続く。形式的なものだった。
それで十分だった。

控室に戻る。
私物をまとめる。
残っていたものは、少なかった。すぐに終わる。

彩名が待っている。
言葉はない。
そのまま、2人で店を出る。

階段を降りる。入口に出る。
夜の空気がある。
そこで止まる。

理沙が手を差し出す。彩名が握る。
強くも、弱くもない。
少しだけ、長い。
離す。

理沙は、そのまま立っていた。
何かを言いかける。
言葉を選ばない。そのまま出す。

「あたしが最近、あの曲を歌わなくなった理由」

一度だけ、間を置く。

「わかってるよね」

彩名は、何も言わない。小さく、うなずく。
それで足りる。

理沙の中に、あの視線が浮かぶ。

ステージの上。遠くから見ていた目。
温度のない、まっすぐな視線。

「やっぱり、忘れられないんでしょ」

名前は出さない。
それでも、分かる。
彩名は、もう一度うなずく。変わらない。

「……そっか」

理沙は短く言う。
それ以上は続けない。

「もっと、いい人見つけなよ」

軽く言う。
本気でも、冗談でもない。そのままの形だった。

次の瞬間、彩名が近づく。
距離がなくなる。
そのまま、抱きつく。
理沙は動かない。

受ける。
数秒だけ。
長くはない。

離れる。言葉はない。
それで終わる。

「じゃあ」

理沙が言う。

手を上げる。
彩名も、わずかに動く。それ以上はない。

理沙は歩き出す。

駅の方へ。
足音が、一定に続く。
背中に、視線を感じる。

振り返らない。そのまま、進む。
距離が伸びる。
やがて、気配が薄くなる。

理沙は、歩き続けた。