更衣室には、二人だけだった。
音がない。衣擦れも、止まっている。
理沙と彩名は、向かい合っていた。
距離は近い。
手を伸ばせば、触れられる。どちらも動かない。
視線だけが、交わる。
長くはない。だが、切れない。
そこに、強さはなかった。
押し合うものも、ない。
ただ、同じ場所に立っているだけだった。
やがて、彩名が言う。
「わかったよ」
短く、それだけだった。
理沙は、何も返さなかった。それで終わる。
その月の終わり。
理沙の最終出勤日も、いつもと変わらなかった。
特別な飾りはない。
告知もない。
店は、普段通りに開いた。
客が入り、音が流れる。
その中に、いつも見ていた顔があった。
開店してすぐに帰る客が、その日は残っていた。
時間が過ぎても、席を立たない。
理由は聞かない。必要もなかった。
理沙はステージに立つ。
照明の中に入る。
最近の曲を、いくつか歌う。
声は安定していた。
揺れない。空気も、整う。
いつもと同じだった。
終わりに近づく。
ママが視線を送る。
合図だった。
理沙は、もう一曲を選ぶ。
少し考える。
別の曲を選ぶ。
そのまま、歌う。最後まで通す。
「Vanishing」は、歌わなかった。
ステージを降りる。
拍手が続く。
大きくはない。だが、途切れない。
理沙は軽く頭を下げる。
ママが近づく。
短く言葉をかける。品物を手渡す。
客も、何かを差し出す。
理沙は受け取る。一つずつ、確認する。
それで終わる。
営業が終わる。
ミーティングがある。
オーナーが話す。短い言葉。
ママも続く。形式的なものだった。
それで十分だった。
控室に戻る。
私物をまとめる。
残っていたものは、少なかった。すぐに終わる。
彩名が待っている。
言葉はない。
そのまま、2人で店を出る。
階段を降りる。入口に出る。
夜の空気がある。
そこで止まる。
理沙が手を差し出す。彩名が握る。
強くも、弱くもない。
少しだけ、長い。
離す。
理沙は、そのまま立っていた。
何かを言いかける。
言葉を選ばない。そのまま出す。
「あたしが最近、あの曲を歌わなくなった理由」
一度だけ、間を置く。
「わかってるよね」
彩名は、何も言わない。小さく、うなずく。
それで足りる。
理沙の中に、あの視線が浮かぶ。
ステージの上。遠くから見ていた目。
温度のない、まっすぐな視線。
「やっぱり、忘れられないんでしょ」
名前は出さない。
それでも、分かる。
彩名は、もう一度うなずく。変わらない。
「……そっか」
理沙は短く言う。
それ以上は続けない。
「もっと、いい人見つけなよ」
軽く言う。
本気でも、冗談でもない。そのままの形だった。
次の瞬間、彩名が近づく。
距離がなくなる。
そのまま、抱きつく。
理沙は動かない。
受ける。
数秒だけ。
長くはない。
離れる。言葉はない。
それで終わる。
「じゃあ」
理沙が言う。
手を上げる。
彩名も、わずかに動く。それ以上はない。
理沙は歩き出す。
駅の方へ。
足音が、一定に続く。
背中に、視線を感じる。
振り返らない。そのまま、進む。
距離が伸びる。
やがて、気配が薄くなる。
理沙は、歩き続けた。
|