002_09_個室オーディション(2)

「いつまでも、語り草になるような歌手がいたらなあ、と思ったことがありました」

柴原は、そう言って少しだけ目を細めた。
さっきまでの職歴の話とは、少し声の調子が違っていた。
理路整然とした説明というより、昔のことを思い出しているような口調だった。

「海外での大きな投資案件が一段落して、何年か続いた米国での単身赴任が終わったときのことです。帰りの飛行機の中で、たまたま昔の歌謡曲を聴きましてね」

柴原は、自分でも少し不思議そうに笑った。

「昭和の終わった年に生まれた人間ですから、昭和歌謡に特別な思い入れがあったわけではありません。むしろ、ほとんど縁がなかった」

理沙は、テーブルの向こうに座る柴原を見ていた。

まりあも、小さく姿勢を正して聞いている。
湯浅は腕を組み、フィリップはアイスコーヒーのストローを指でいじっていた。島崎は眠そうな目をしているが、話は聞いているようだった。

「ところが、その女性歌手の声を聴いたとき、なぜか妙に引っかかったんです。古い曲なのに、古く感じなかった。時代も、歌い方も、今とは違うはずなのに、胸の奥に残るものがあった」

柴原は少し間を置いた。

「それからですね。昭和の歌謡曲を集めるのが、いつの間にか趣味になりました。中古のレコード店を歩いたり、同じ趣味の人と話したり。忙しい仕事の合間に、そんなことをしていました」

「意外ですね」

湯浅が言った。

「よく言われます」

柴原は笑った。

「私自身も、趣味の世界にとどめておくつもりでした。まさか自分が、歌手を育てようとする側になるとは思ってもいませんでした」

理沙は少し戸惑った。

柴原の話は面白い。
けれど、自分たちがここへ呼ばれた理由とは、まだ結びつかない。

恐る恐る、理沙は口を開いた。

「あの……つまり、私たちに昭和の歌謡曲を歌ってほしい、ということですか?」

一瞬、場が止まった。
次の瞬間、柴原は大きく手を振って笑った。

「いやいや、そういうことではありません」

小川も少し笑った。
フィリップはなぜか真剣な顔で理沙を見ていた。

「違うんですか?」

「違います。懐メロ専門の事務所を作りたいわけではありません」

柴原は笑いを収め、グラスに手を伸ばした。

「ただ、考えたんです。時代が変わっても心に残る歌とは、どういうものなのか。いつまでも語られる歌手とは、どういう存在なのか」

そこから先は、柴原の得意分野に戻ったようだった。
声の調子が、少し変わる。

「私は長く、投資や事業開発の世界にいました。大量の情報を集め、分析し、どこに可能性があるのかを見極める。そこに資金を投じ、必要な人材を集め、事業として成立させる」

柴原は、理沙たちを順に見た。

「歌手を育てるということも、ある意味では投資です。時間も、資金も、人も使う。成功する保証はない。むしろ失敗する確率の方が高い」

理沙は黙って聞いていた。

その言い方は、少し冷たくも聞こえた。
けれど、嘘を言っている感じはしなかった。

「ただし、数字だけでは残る歌手は作れません。そこが難しい。データで見えるものと、データでは見えないもの。その両方を扱わなければならない」

柴原は、少しだけ楽しそうだった。

「だから、まずは小さく始めることにしました。それがHALUCAです」

小川が横で静かに頷く。

「とはいえ、私は音楽業界の人間ではありません。業界に強いコネがあるわけでもない。歌手を発掘するノウハウもなかった」

柴原は苦笑した。

「会社を辞めると上司に話したときは、誰にも賛成されませんでした。そんな危険な商売に手を出すな、と。まあ、当然でしょうね」

島崎が小さく頷いた。

「怪しいですもんね」

「島崎くん」

理沙がすぐに見る。

「すみません」

島崎は姿勢を正した。
柴原は笑った。

「いえ、正しい反応です。無名の音楽事務所など、怪しく見えて当然です。大々的なオーディションを開いたところで、誰も来ない。街でスカウトをしても、信用してもらえない」

小川は、少しだけ苦笑した。

「そこで、発掘するための仕組みを作りました」

柴原の声が、少しだけ低くなった。

「世の中には、無数の動画サイトや配信サイトがあります。そこには、まだ誰にも見つかっていない歌手や、本人が歌手と名乗ってすらいない人たちがいる。その中から、こちらが求める可能性を持った人を探す」

理沙の頭の中で、いくつかのものがつながり始めた。

自分たちの配信サイト。
突然届いた小川からのダイレクトメッセージ。
ライブハウスの一番後ろに立っていた黒いスーツの女性。
そして、さっきオフィスの奥にいた、システムエンジニア風の3人。

「先ほど、奥の席にスタッフがいたでしょう」

柴原が言った。

理沙は思わず顔を上げた。

「彼らが中心になって、候補者を探すためのシステムを作りました。もちろん最後は人が見ます。機械が歌手を選ぶわけではありません。ただ、広い海から、見るべき場所を絞り込むことはできる」

そういうことだったのか。

理沙は、ようやく理解した。

小川が、自分たちを偶然見つけたわけではない。
柴原が、ただ勘で声をかけたわけでもない。
HALUCAは、最初から探していたのだ。

「候補者を絞り込んだあと、小川に個別に接触してもらいました」

小川が、少しだけ頭を下げた。

「いきなりのご連絡になってしまって、申し訳ありません」

「それは……」

理沙は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
聞きたいことは、別にあった。

「私たちの、どこが良かったのですか?」

自分でも、少し強い声になったと思った。
テーブルの上の空気が、わずかに固くなる。

柴原は、理沙のことをまっすぐ見た。
すぐには答えなかった。

「理由はあります」

柴原は、ゆっくりと言った。

「ただ、それはHALUCAのノウハウに関わる部分でもあります。申し訳ありませんが、詳しくはお話しできません」

理沙の胸の奥に、小さな違和感が生まれた。
そこは言えないのか。

顔には出さないようにした。
けれど、少し腹立たしさもあった。

最初に小川から届いたメッセージには、曲を聴いた感想が書かれていた。
ライブのあとも、小川は見ていなければ分からないことを話した。
それなのに、肝心なところになると、ノウハウだから言えない。

理沙は、柴原の隣に座る小川を見た。
小川は、理沙の表情の変化に気づいたのか、少しきまり悪そうな顔をしていた。

柴原は続けた。

「もう一つ、理由があります」

理沙は、視線を柴原に戻した。

「もしここで、私たちが皆さんのどこを評価したのかを言ってしまうと、皆さんはきっとそこを意識してしまう」

柴原の声は穏やかだった。

「自分たちの良いところはここだ。求められているのはここだ。そう考えてしまうかもしれない。それは、皆さんの創作活動を狭くする可能性があります」

理沙は、すぐには返せなかった。

分からなくはない。
けれど、納得できたわけでもない。

湯浅が黙って柴原を見ている。
フィリップは少し眉を寄せていた。
島崎は、考え込むようにテーブルの端を見ていた。
まりあは、膝の上で指を軽く握っている。

「ですから、今は言いません」

柴原は、そう言って少しだけ頭を下げた。

「ただ、皆さんをここへお呼びしたことには、明確な理由があります。それだけは信じてください」

理沙は、何も言わなかった。

信じてください。
その言葉は、簡単なようでいて、簡単ではなかった。

柴原はゆっくりと立ち上がった。

「少し休憩にしましょう。換気も兼ねて、10分ほど」

そこで、いったん話は切れた。

湯浅とフィリップ、島崎は、外の空気を吸ってくると言ってオフィスの外へ出ていった。
柴原も奥の席へ戻り、スタッフに何か声をかけている。

応接コーナーには、理沙とまりあ、そして小川だけが残った。
さっきまでの説明の余韻が、テーブルの上に残っているようだった。

小川が、小さな声で言った。

「ごめんなさいね」

理沙は小川の方を見た。
まりあも、少しだけ顔を上げる。

「柴原は、悪気があって隠しているわけではないんです。ただ、言い方が少し……」

小川はそこで言葉を止めた。
理沙もまりあも、小さく首を振った。

「いいえ」

理沙はそう答えた。
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。

まりあも黙っていた。

理沙は、まだ名前を知ったばかりのその女性が、同じように言葉を探しているように見えることに気づいた。