003_30_ディアナとの出会い

 目を覚ましたとき、部屋の中はすでに明るかった。

 理沙はしばらくベッドの中で天井を見ていた。

 時計を見る。

「……寝たなあ」

 昨日はホテルに着いたのが夜十時を過ぎていた。

 シアトルを出てから、何度バスに乗り、何度眠ったのかもよく分からない。

 途中で名前も知らない女性と話した。

 土砂降りの雨に遭った。

 大きな虹を見た。

 元海軍の男から、冗談半分の敬礼までされた。

 ずいぶん長い旅だった。

 今日はもう、急ぐ必要はない。

 士官学校までは、それほど遠くなかった。

     *

 シャワーを浴びる。

 身支度を整える。

 ホテルの食堂へ降りた。

 パン。

 卵。

 果物。

 コーヒー。

 久しぶりに、時間を気にせず朝食を食べた。

 窓の外は晴れていた。

 昨日の豪雨が嘘のようだった。

 理沙はコーヒーを飲みながら、スマートフォンで今日の経路を確認する。

 路線バス。

 乗り換えなし。

 最寄りの停留所から士官学校までは徒歩。

「簡単」

 画面を閉じた。

     *

 チェックアウトを済ませる。

 大きなキャリーケース。

 リュックサック。

 結局、持ち物はそれだけだった。

 ホテルを出る。

 朝の日差しは明るかったが、空気は少し冷たい。

 理沙はバス停まで歩いた。

     *

 先客は数人だった。

 通勤らしい男性。

 年配の女性。

 学生らしい若者。

 理沙はキャリーケースを横へ置き、時刻表を見る。

 あと七分。

 そのとき。

 通りの向こうから、一人の女性が歩いてきた。

 理沙は何となく目を向けた。

     *

 若い。

 自分より少し年下だろうか。

 短い黒髪。

 ピンク色のスウェット。

 淡い色のパンツ。

 小さめの荷物。

 これから軍の施設へ向かう人間には、あまり見えなかった。

 とはいえ。

 理沙自身だって、今日から軍人という格好をしているわけではない。

 女性はバス停へ来ると、少し離れたところに立った。

 端末を見る。

 時刻を確認する。

 そして、小さくため息をついた。

 何となく、元気がない。

 理沙はそれ以上気にしなかった。

     *

 バスが来た。

 乗車する。

 理沙はキャリーケースを固定し、窓際の席へ座った。

 先ほどの女性も乗ってくる。

 少し前の席。

 窓側。

 座ると、すぐに外へ顔を向けた。

     *

 バスは郊外の道を走った。

 低い建物。

 住宅。

 商店。

 広い道路。

 時折、軍関係らしい車両も見かける。

 理沙は士官学校の案内資料を開こうとして、やめた。

 もう何度も読んだ。

 今さら確認することもない。

 窓の外を見る。

     *

 前方の女性も、ずっと外を見ていた。

 景色を楽しんでいるようには見えない。

 少し眉を寄せている。

 何かを考えているらしい。

 理沙はその横顔を見て、

「緊張してるのかな」

 と、何となく思った。

 自分も同じだった。

 ただ、ここまで来てしまった以上、今さら引き返そうとは思わない。

     *

 バスが停留所へ入った。

 案内表示を見る。

 理沙の降りる場所だった。

 立ち上がる。

 キャリーケースを引く。

 降車する。

     *

 数歩歩いたところで、背後からバスのドアが閉まる音がした。

 何となく振り返った。

 先ほどの女性も降りていた。

「あれ」

 理沙は小さく呟いた。

 女性は周囲を見回してから、理沙とは少し離れたところを歩き始めた。

 方向は同じだった。

     *

 理沙は歩く。

 キャリーケースの車輪が舗装道路を転がる。

 数メートル前を、女性も歩いている。

 速くもなく。

 遅くもなく。

 ただ。

 どこか足取りが重い。

 理沙は少し笑った。

「やっぱり一緒かな」

     *

 道の先。

 大きな敷地が見えてきた。

 フェンス。

 ゲート。

 警備所。

 奥には何棟もの建物。

 案内板。

 理沙は歩調を少し緩めた。

 とうとう来た。

 技術士官学校。

     *

 一年前。

 ロサンゼルスへ着いたときには、今日ここに来ることなど想像もしなかった。

 仕事を探すことだけで精いっぱいだった。

 小さなアパート。

 ファストフード店。

 交通管制センター。

 カーリー。

 シアトル。

 ダグラス。

 アトランタ。

 クロスリー。

 思えば、いろいろな場所を通ってきた。

 それでも今。

 やっていることは単純だった。

 キャリーケースを引いて、目の前の門へ向かって歩いている。

     *

 前を歩いていた女性が、突然立ち止まった。

 士官学校の入口まで、あと少し。

 けれど女性は動かない。

 ゲートを見ている。

 しばらくそのままだった。

 理沙は後ろから近づいた。

 追いつく。

 女性の横を通り過ぎる。

     *

 数歩。

 理沙も立ち止まった。

 何となく気になった。

 振り返る。

     *

 女性も、こちらを見ていた。

 目が合った。

 一瞬。

 どちらも何も言わなかった。

 理沙は士官学校の門を指さした。

「……あなたも?」

 女性は少し驚いたような顔をした。

 それから。

 小さく頷いた。

「うん」

 ほとんど聞こえないくらいの声だった。

 理沙は門を見る。

 もう一度、女性を見る。

「なんだ」

 少し笑った。

「一緒なんだ」

     *

 その瞬間。

 女性の表情が変わった。

 さっきまでの物憂げな顔が、少しだけ明るくなる。

「あなたも?」

「うん」

「候補生?」

「そう」

 女性が、明らかにほっとした顔をした。

「よかった……」

「何が?」

「誰もいなかったらどうしようって思ってた」

「そんなわけないでしょ」

「分かってるんだけど」

 女性は少し恥ずかしそうに笑った。

     *

 理沙はキャリーケースの取っ手から手を離した。

 右手を差し出す。

「大嶋理沙」

 女性は一瞬その手を見る。

 そして握った。

「ディアナ」

「ディアナ?」

「ディアナ・エクヴァル」

「よろしく」

「こちらこそ」

 握手。

 それだけだった。

     *

「リサって呼べばいい?」

「いいよ」

「私もディアナでいいから」

「分かった」

「どこから来たの?」

「シアトル」

「シアトル?」

「うん」

「遠い」

「バスで来た」

 ディアナが目を丸くした。

「バス?」

「うん」

「ずっと?」

「ほとんど」

「なんで?」

「安かったから」

「……それだけ?」

「それだけ」

 ディアナが笑った。

 さっきまでの沈んだ顔は、もうほとんど消えていた。

     *

「私は昨日着いたの」

「そうなんだ」

「飛行機で」

「普通はそうすると思う」

「でしょ?」

「うん」

「七か月って長いよね」

「基礎訓練?」

「うん。それに私、体力あんまり自信なくて」

「私も」

「本当?」

「一応、最近走ってるけど」

「毎日?」

「だいたい」

「……やっぱり自信あるじゃない」

「ないよ」

 ディアナは次から次へと話した。

 寮は何人部屋なのだろう。

 食事はどうなのだろう。

 朝は何時に起こされるのだろう。

 体力テストはどれくらい厳しいのだろう。

「起床ラッパって本当にあるのかな」

 ディアナが言った。

 理沙は思わず足を止めそうになった。

「私もそれ考えた」

「本当?」

「面談の前の日に」

「やっぱり気になるよね」

「でも分からない」

「調べなかったの?」

「調べても仕方ないかなって」

「大胆だね」

「そうかな」

     *

 理沙は隣を歩くディアナを見た。

 話し方。

 仕草。

 言葉の選び方。

 どことなく品がある。

 育ちがよさそうだった。

 それなのに。

 体力訓練が怖いとか。

 寮生活が不安とか。

 さっきまで入口の前で立ち止まっていたとか。

 妙に親しみやすい。

「……お嬢様っぽい」

 思わず小さく呟いた。

「え?」

「なんでもない」

「今、何か言ったでしょ」

「言ってない」

「言った」

「気のせい」

 ディアナが不満そうな顔をする。

 理沙は笑った。

     *

 二人は並んで歩いた。

 士官学校の門が、すぐ目の前にある。

 警備所。

 受付。

 候補生らしい若者たちが、すでに何人も集まっていた。

 大きな荷物を持っている者。

 家族と別れている者。

 一人で立っている者。

 緊張した顔。

 楽しそうな顔。

 さまざまだった。

     *

「ねえ、リサ」

「何?」

「一緒に受付行っていい?」

「いいけど」

「よかった」

「一人でも行けるでしょ」

「行けるけど」

 ディアナは少し笑った。

「知ってる人、一人くらいいた方がいいから」

「今知り合ったばっかりだけど」

「もう知ってるでしょ」

 理沙は少し考えた。

「まあ、そうだね」

     *

 二人はゲートへ向かう。

 理沙は一度だけ振り返った。

 さっき歩いてきた道。

 停留所は、もう遠くに見える。

 その先。

 昨日泊まったホテル。

 さらに先には、長いバスの旅。

 シアトル。

 ロサンゼルス。

 日本。

 全部、今は後ろにある。

     *

「リサ?」

 ディアナが呼んだ。

「うん。行こう」

 二人は再び歩き始めた。

     *

 一年前。

 理沙は一人でロサンゼルスへ来た。

 誰も知らない街。

 どこで暮らすのか。

 どこで働くのか。

 明日どうするのか。

 何も決まっていなかった。

 今も。

 この先が全部分かっているわけではない。

 どんな訓練が待っているのか。

 どんな仕事に就くのか。

 どこへ行くのか。

 それは、まだ知らない。

 けれど。

 少なくとも今日は。

 一人ではなかった。

     *

 理沙とディアナは、並んで士官学校の門をくぐった。

「ところで」

 ディアナが言った。

「朝って、本当に走ると思う?」

「たぶんね」

「毎日?」

「たぶん」

「……帰りたくなってきた」

「早いよ」

 二人の笑い声が、門の内側へ消えていった。

     *

 その少し後ろ。

 同じように荷物を持った一人の女性が立っていた。

 彼女もまた、今日ここへ来た候補生の一人だった。

 女性は、並んで歩いていく理沙とディアナをじっと見ていた。

 表情はほとんど動かない。

 ただ、その視線だけが二人の背中を追っていた。

 やがて女性も荷物を持ち直す。

 そして何も言わず、同じ門の中へ足を踏み入れた。