目を覚ましたとき、部屋の中はすでに明るかった。
理沙はしばらくベッドの中で天井を見ていた。
時計を見る。
「……寝たなあ」
昨日はホテルに着いたのが夜十時を過ぎていた。
シアトルを出てから、何度バスに乗り、何度眠ったのかもよく分からない。
途中で名前も知らない女性と話した。
土砂降りの雨に遭った。
大きな虹を見た。
元海軍の男から、冗談半分の敬礼までされた。
ずいぶん長い旅だった。
今日はもう、急ぐ必要はない。
士官学校までは、それほど遠くなかった。
*
シャワーを浴びる。
身支度を整える。
ホテルの食堂へ降りた。
パン。
卵。
果物。
コーヒー。
久しぶりに、時間を気にせず朝食を食べた。
窓の外は晴れていた。
昨日の豪雨が嘘のようだった。
理沙はコーヒーを飲みながら、スマートフォンで今日の経路を確認する。
路線バス。
乗り換えなし。
最寄りの停留所から士官学校までは徒歩。
「簡単」
画面を閉じた。
*
チェックアウトを済ませる。
大きなキャリーケース。
リュックサック。
結局、持ち物はそれだけだった。
ホテルを出る。
朝の日差しは明るかったが、空気は少し冷たい。
理沙はバス停まで歩いた。
*
先客は数人だった。
通勤らしい男性。
年配の女性。
学生らしい若者。
理沙はキャリーケースを横へ置き、時刻表を見る。
あと七分。
そのとき。
通りの向こうから、一人の女性が歩いてきた。
理沙は何となく目を向けた。
*
若い。
自分より少し年下だろうか。
短い黒髪。
ピンク色のスウェット。
淡い色のパンツ。
小さめの荷物。
これから軍の施設へ向かう人間には、あまり見えなかった。
とはいえ。
理沙自身だって、今日から軍人という格好をしているわけではない。
女性はバス停へ来ると、少し離れたところに立った。
端末を見る。
時刻を確認する。
そして、小さくため息をついた。
何となく、元気がない。
理沙はそれ以上気にしなかった。
*
バスが来た。
乗車する。
理沙はキャリーケースを固定し、窓際の席へ座った。
先ほどの女性も乗ってくる。
少し前の席。
窓側。
座ると、すぐに外へ顔を向けた。
*
バスは郊外の道を走った。
低い建物。
住宅。
商店。
広い道路。
時折、軍関係らしい車両も見かける。
理沙は士官学校の案内資料を開こうとして、やめた。
もう何度も読んだ。
今さら確認することもない。
窓の外を見る。
*
前方の女性も、ずっと外を見ていた。
景色を楽しんでいるようには見えない。
少し眉を寄せている。
何かを考えているらしい。
理沙はその横顔を見て、
「緊張してるのかな」
と、何となく思った。
自分も同じだった。
ただ、ここまで来てしまった以上、今さら引き返そうとは思わない。
*
バスが停留所へ入った。
案内表示を見る。
理沙の降りる場所だった。
立ち上がる。
キャリーケースを引く。
降車する。
*
数歩歩いたところで、背後からバスのドアが閉まる音がした。
何となく振り返った。
先ほどの女性も降りていた。
「あれ」
理沙は小さく呟いた。
女性は周囲を見回してから、理沙とは少し離れたところを歩き始めた。
方向は同じだった。
*
理沙は歩く。
キャリーケースの車輪が舗装道路を転がる。
数メートル前を、女性も歩いている。
速くもなく。
遅くもなく。
ただ。
どこか足取りが重い。
理沙は少し笑った。
「やっぱり一緒かな」
*
道の先。
大きな敷地が見えてきた。
フェンス。
ゲート。
警備所。
奥には何棟もの建物。
案内板。
理沙は歩調を少し緩めた。
とうとう来た。
技術士官学校。
*
一年前。
ロサンゼルスへ着いたときには、今日ここに来ることなど想像もしなかった。
仕事を探すことだけで精いっぱいだった。
小さなアパート。
ファストフード店。
交通管制センター。
カーリー。
シアトル。
ダグラス。
アトランタ。
クロスリー。
思えば、いろいろな場所を通ってきた。
それでも今。
やっていることは単純だった。
キャリーケースを引いて、目の前の門へ向かって歩いている。
*
前を歩いていた女性が、突然立ち止まった。
士官学校の入口まで、あと少し。
けれど女性は動かない。
ゲートを見ている。
しばらくそのままだった。
理沙は後ろから近づいた。
追いつく。
女性の横を通り過ぎる。
*
数歩。
理沙も立ち止まった。
何となく気になった。
振り返る。
*
女性も、こちらを見ていた。
目が合った。
一瞬。
どちらも何も言わなかった。
理沙は士官学校の門を指さした。
「……あなたも?」
女性は少し驚いたような顔をした。
それから。
小さく頷いた。
「うん」
ほとんど聞こえないくらいの声だった。
理沙は門を見る。
もう一度、女性を見る。
「なんだ」
少し笑った。
「一緒なんだ」
*
その瞬間。
女性の表情が変わった。
さっきまでの物憂げな顔が、少しだけ明るくなる。
「あなたも?」
「うん」
「候補生?」
「そう」
女性が、明らかにほっとした顔をした。
「よかった……」
「何が?」
「誰もいなかったらどうしようって思ってた」
「そんなわけないでしょ」
「分かってるんだけど」
女性は少し恥ずかしそうに笑った。
*
理沙はキャリーケースの取っ手から手を離した。
右手を差し出す。
「大嶋理沙」
女性は一瞬その手を見る。
そして握った。
「ディアナ」
「ディアナ?」
「ディアナ・エクヴァル」
「よろしく」
「こちらこそ」
握手。
それだけだった。
*
「リサって呼べばいい?」
「いいよ」
「私もディアナでいいから」
「分かった」
「どこから来たの?」
「シアトル」
「シアトル?」
「うん」
「遠い」
「バスで来た」
ディアナが目を丸くした。
「バス?」
「うん」
「ずっと?」
「ほとんど」
「なんで?」
「安かったから」
「……それだけ?」
「それだけ」
ディアナが笑った。
さっきまでの沈んだ顔は、もうほとんど消えていた。
*
「私は昨日着いたの」
「そうなんだ」
「飛行機で」
「普通はそうすると思う」
「でしょ?」
「うん」
「七か月って長いよね」
「基礎訓練?」
「うん。それに私、体力あんまり自信なくて」
「私も」
「本当?」
「一応、最近走ってるけど」
「毎日?」
「だいたい」
「……やっぱり自信あるじゃない」
「ないよ」
ディアナは次から次へと話した。
寮は何人部屋なのだろう。
食事はどうなのだろう。
朝は何時に起こされるのだろう。
体力テストはどれくらい厳しいのだろう。
「起床ラッパって本当にあるのかな」
ディアナが言った。
理沙は思わず足を止めそうになった。
「私もそれ考えた」
「本当?」
「面談の前の日に」
「やっぱり気になるよね」
「でも分からない」
「調べなかったの?」
「調べても仕方ないかなって」
「大胆だね」
「そうかな」
*
理沙は隣を歩くディアナを見た。
話し方。
仕草。
言葉の選び方。
どことなく品がある。
育ちがよさそうだった。
それなのに。
体力訓練が怖いとか。
寮生活が不安とか。
さっきまで入口の前で立ち止まっていたとか。
妙に親しみやすい。
「……お嬢様っぽい」
思わず小さく呟いた。
「え?」
「なんでもない」
「今、何か言ったでしょ」
「言ってない」
「言った」
「気のせい」
ディアナが不満そうな顔をする。
理沙は笑った。
*
二人は並んで歩いた。
士官学校の門が、すぐ目の前にある。
警備所。
受付。
候補生らしい若者たちが、すでに何人も集まっていた。
大きな荷物を持っている者。
家族と別れている者。
一人で立っている者。
緊張した顔。
楽しそうな顔。
さまざまだった。
*
「ねえ、リサ」
「何?」
「一緒に受付行っていい?」
「いいけど」
「よかった」
「一人でも行けるでしょ」
「行けるけど」
ディアナは少し笑った。
「知ってる人、一人くらいいた方がいいから」
「今知り合ったばっかりだけど」
「もう知ってるでしょ」
理沙は少し考えた。
「まあ、そうだね」
*
二人はゲートへ向かう。
理沙は一度だけ振り返った。
さっき歩いてきた道。
停留所は、もう遠くに見える。
その先。
昨日泊まったホテル。
さらに先には、長いバスの旅。
シアトル。
ロサンゼルス。
日本。
全部、今は後ろにある。
*
「リサ?」
ディアナが呼んだ。
「うん。行こう」
二人は再び歩き始めた。
*
一年前。
理沙は一人でロサンゼルスへ来た。
誰も知らない街。
どこで暮らすのか。
どこで働くのか。
明日どうするのか。
何も決まっていなかった。
今も。
この先が全部分かっているわけではない。
どんな訓練が待っているのか。
どんな仕事に就くのか。
どこへ行くのか。
それは、まだ知らない。
けれど。
少なくとも今日は。
一人ではなかった。
*
理沙とディアナは、並んで士官学校の門をくぐった。
「ところで」
ディアナが言った。
「朝って、本当に走ると思う?」
「たぶんね」
「毎日?」
「たぶん」
「……帰りたくなってきた」
「早いよ」
二人の笑い声が、門の内側へ消えていった。
*
その少し後ろ。
同じように荷物を持った一人の女性が立っていた。
彼女もまた、今日ここへ来た候補生の一人だった。
女性は、並んで歩いていく理沙とディアナをじっと見ていた。
表情はほとんど動かない。
ただ、その視線だけが二人の背中を追っていた。
やがて女性も荷物を持ち直す。
そして何も言わず、同じ門の中へ足を踏み入れた。
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