008_05_中国の宇宙船の土星への出発(1)

36時間にわたる加速が終わった。
「エンデヴァー」は秒速200キロメートルの定速航行に移行し、船内の状態もそれに合わせて落ち着きを取り戻していく。
停止していた居住区画の回転が再開され、遠心力によって6分の1重力が生み出される。
無重力に近い状態で張り詰めていた身体は、ゆるやかに床へと引き戻される感覚を思い出す。
乗組員たちは再び12時間交代の生活へと戻り、それぞれの持ち場で日常の作業に入っていった。

木星まではおよそ8週間。
週7日のスケジュールが淡々と組まれており、時間の流れは一定のリズムを刻んでいた。
乗組員はそれぞれ主担当と呼ばれる役割を持っているが、その枠は固定されたものではない。
状況に応じて互いに補い合い、必要であれば別の役割も担う。
理沙の主担当は動力・推進システムだが、コクピットで操縦を担当することもあれば、地球の管制室との交信窓口に立つこともある。
その柔軟さが、この船の運用を支えていた。

その日は、アルヴィン・シンクレアと共に食料生産プラントの点検を行っていた。
船内で発生する排泄物や呼吸による二酸化炭素を原料に、有機物を合成し、食料を生み出すための装置である。
配管や反応槽の状態を確認しながら、数値のわずかな変動にも目を配る。
特別な問題は見当たらなかった。
点検作業を終えたころ、時刻はちょうど正午に近づいていた。2人はそのまま会議室へと向かう。

12時になると、船内にレゲエ風の軽快な音楽が流れ始めた。
昼食の合図である。
会議室に入ると、ブルーノがすでに6人分の食事をテーブルに並べ終えて待っていた。
理沙とアルヴィンは席に着き、まだ来ていない3人を待ちながら、壁面ディスプレイのマルチ画面を何となく眺める。
いくつかの映像が同時に流れており、どれも特に注意を引くものではない。

そのとき、短いアラート音が鳴った。

音楽は途切れ、マルチ画面の表示が一斉に切り替わる。
中央には管制室からの通信映像が表示された。

「ちょうど今」

管制窓口担当の声が、やや慌ただしく響く。

「中国の宇宙船が出発しました」

会議室にいる6人、そして各自の部屋で休憩している他の6人も、それぞれのディスプレイで同じ映像を見ていた。
中国国営放送の中継が流れ、地球/月L2の作業プラットフォームから宇宙船が離脱する様子が映し出される。

宇宙船の名前は「長征」。

アナウンサーがその全長や構造、6名の乗組員が搭乗していることを淡々と伝えていた。
発進の映像は繰り返し再生され、角度を変えた複数のカメラ映像が交互に映し出される。

この瞬間が来ることは、誰もが予想していた。驚きはない。
会議室の空気も、特に変わらなかった。
地球の管制室も同様で、ニュース映像から得られる情報をもとに、「長征」のスペックを分析し、「エンデヴァー」へと逐次送ってくる。

理沙はそのデータを目で追いながら、映像に映る軌道を確認した。
出発直後の進路。そのわずかな差異が、気にかかる。

地球へ向かうコースが、「エンデヴァー」と違う。

小さな違和感だった。はっきりとした理由があるわけではない。
ただ、どこかが噛み合っていない。理沙の中で、その感覚がゆっくりと広がっていく。

まさか、と思う。

そのタイミングを見計らったかのように、再び中国国営放送の映像が切り替わった。
スタジオに、中国科学院の責任者が姿を現す。落ち着いた口調で、準備された原稿を読み上げる。

「長征」の目的地は、土星である。

その言葉は、特に強調されることもなく、淡々と告げられた。



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