008_08_重大リスクの兆候(2)

わずかな間を置いて、船長からの返事が届いた。

<昔の記憶、かもしれない>

短い一文だった。
理沙はその文字列を確認したあと、視線をほんのわずかにメリッサへと向ける。
表情に変化はない。ただ、何かを探るような気持ちで、その横顔を見た。

<とりあえず、聞いてみる>

そう返してから端末を閉じる。
メリッサは、理沙の様子を気にするようにじっと見つめていた。
理沙は軽く首を振り、気にするほどのことではないという仕草を見せる。

「船長から、今日の作業の事で」

無理に作ったような笑顔を添えながら、そう言う。

「それで、彼とは?」

話題を戻す。
メリッサは一瞬だけ視線を外し、それから小さく息を吐いて、過去の話を始めた。

研究所での仕事中、何気ない会話がきっかけだったという。
特別な出来事があったわけではない。
日々のやり取りの積み重ねの中で、いつの間にか距離が近づいていった。
やがて同じプロジェクトに参加することになり、同僚として過ごす時間が増えていく。
口数は少ないが、仕事に対する姿勢は誰よりも真っ直ぐで、その背中が語るものに惹かれていったのだと、メリッサは淡々と語る。

「恋仲、というよりも、兄貴と妹といった感じだったかな」

少しだけ肩をすくめるようにして、そう付け加えた。

火星での基地建設プロジェクトが立ち上がったとき、2人は迷うことなく志願したという。
その流れは、ごく自然なものだったらしい。

「エリシウム基地って、知っているでしょう?」

その言葉のあと、ほんのわずかな間が空いた。

理沙は小さく頷く。
その動作と同時に、視線を一瞬だけ監視カメラの方へ向けた。
今このやり取りを、どこかで船長が見ている。そう考えること自体が、もはや習慣のようになっていた。

「一年間、そこで働いて、そして地球に戻ったら……」

言葉が途切れる。
メリッサの表情が、わずかに沈んだ。
続きを探すように口を開きかけて、しかし何も言わずに閉じる。
その沈黙を、理沙は何も言わずに受け止めた。促すことも、埋めることもせず、ただ待つ。

「もう、終わった事だし。もういいんだ」

メリッサは視線を窓の外へ向けた。
物憂げな横顔だったが、その奥にある感情は読み取れない。
理沙はその様子をじっと見つめ続ける。時間だけが、静かに流れる。

やがてメリッサは再び理沙の方へ向き直った。
視線を合わせる。逃げることなく、まっすぐに。

一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、それから口を開く。

「二股していたのよ。彼」

その直後、表情がわずかに緩み、笑みが浮かぶ。

「思いっきりぶん殴ってやったよ。空港のロビーで。」

吐き捨てるような言い方だったが、そのあとに続いた笑いは、どこか軽かった。
胸の奥に溜まっていたものを外に出し切ったあとのような、乾いた笑いだった。

理沙はその言葉に一瞬反応できず、わずかに遅れて表情が崩れる。
予想していなかった展開に、ほんの短い間、思考が止まる。
しかしメリッサの笑いにつられるようにして、自然と口元が緩んだ。

張り詰めていたはずの警戒心は、気づけばどこかへ消えていた。

理沙は軽く肩をすくめ、監視カメラの方へほんの一瞬だけ視線を送り、小さくウィンクする。

「最低な奴だね」

そう言ったとき、メリッサの表情はすでにいつもの調子に戻っていた。

その言葉を聞いた瞬間だった。
理沙の意識の奥で、何かが引っかかった。
ほんの一瞬、過去の断片が浮かび上がる。

薄暗い寝室。空気が重く、静まり返っている。
ベッドの上で、目の前の男に向かって、理沙は思い切り平手を打ち込んでいた。
乾いた音が響く。
相手の表情は見えているはずなのに、記憶の中では輪郭が曖昧だった。

次の瞬間には、服をかき集めるようにして身に着け、部屋を飛び出している。
扉を閉める音だけが、やけに鮮明に残っていた。

外は夜だった。
幹線道路沿いの歩道を、あてもなく歩き続ける。
足を止める理由も、進む理由もない。ただ前へと進んでいる。
周囲の光はぼやけていて、時間の感覚も曖昧だった。

気づけば、公園のベンチに座っていた。
何をしていたのか思い出せないまま、ただそこにいた。
やがて、東の空がわずかに白み始める。夜明けだった。

その光景が、ふっと途切れる。

理沙は瞬きをした。
目の前には、変わらずメリッサの姿がある。
通路の中、静かな空気の中で、2人は向かい合っていた。



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