失われた未来
9月も半ばになるというのに、真夏のような暑さ。うだるような暑さの中で生気のない人々が坦々と歩き続ける。
スクランブル交差点にそんな生気のない人々が殺到する。そしてそれぞれの方向に交差して散ってゆく。
人々が散って、交差点の中央の開いた空間に男性が一人倒れていた。
ごく普通の会社員で、バッグを持ったままぱったりと倒れている。何人かの人がその男の顔色をうかがったが、
やがて何事もなかったかのように立ち去る。
警察官がその男のもとにやってきた。警察官は顔色を確認し、手に触れて、その後は事務的に対応していた。
地区の清掃員がやってきて、物を扱うように男を抱え上げて小型トラックに載せた。
以前であれば人だかりができてその光景が画像におさめられて、人々の話題になったはずだが、
その日は、その光景を画像におさめる人の数はまばらだった。
画像は人々の目にとまることもなく、アップロードされた画像は大量の情報の洪水の中に埋もれてしまった。
その日のトップニュースは、
[9月の東京の最高気温を更新。午後2時時点で37.2度]
* * * *
国境の島に、1機の小型飛行機が不時着した。
領土紛争で揉めている島であるが、その小型機は警備の船の警告を無視して島に着陸した。
乗っている2人の故国は、人民の命を優先するとの目的のもと、警備の船の警告を無視してヘリでの着陸を強行。
その行為は国家間での大問題となった。しかし、領有権を主張する側の国は政変のため首相不在の状態。
選挙に勝つことだけに気を取られて、国境の島の危機についてはすべて現場任せになってしまった。
両国の報道官の非難の応報が続き、国民の感情も徐々にヒートアップしていった。
乗務員たちが救助された後も、上陸を果たした警備員は安全保障の理由と称して島に居座った。
一方、領有権を主張する国側も、軍の派遣の検討を始めたが、国家間の紛争にまで発展させたくないとの思惑から、
外交的手段での解決を模索した。しかし、上陸した側は自国の領土と主張し主張は平行線のまま。
警備船は本来の目的を果たせないまま洋上から空しく観察しているだけだった。
警備船に乗り込んだマスコミは、盛んに警備員に詰め寄り問い詰めていたが、職務上、命令なしには動けないと答えるだけ。
まったくの能無し、税金のムダ使いだと国民からの批判が殺到した。
やがて資材運搬用の大型ヘリが島に着陸し、プレハブ設備の建設が始まった。
* * * *
暑い部屋の中、男はエアコンもつけずに汗だくの状態で仕事をしていた。
企業から委託されて、システム制御用のプログラムの作成を行っているが、要求される仕様の高さの割には、
アルバイト程度の安い金額しか支払われず、それでも無職よりはまだマシと、彼は仕方なく仕事を引き受けていた。
四畳半一間の小さなアパートでの生活を始めてはや10年。生活は年を重ねるごとに苦しくなり、
年齢がまだ若いので多少の無理は効くものの、貯金はほとんどなく、今の生活を今後も維持できるかはわからないかった。
ディスプレイの片隅に、ニュース映像をつけているが、音声は流さずに好きな歌手の曲をBGMとして流していた。
ニュース映像では、国境の島でのいざこざが今日もトップニュースとして扱われていた。
遠くから眺めるだけの映像ばかりで、なかなか接近できなかった。そのため、上陸して実力行使もできないのかと、
辛らつなコメントが画面上に流れていた。
しかし男はそんな事には関心はなく、なんとかこの暑いのを解消して欲しいと思っていた。
作り始めたプログラムは、暑さによる思考力低下でまとまりがつかない状態になっていた。
それでも納期は迫っている。追加仕様の指示が朝起きた時に流れてきて、昨夜苦労して作り上げたプログラムは
全面的に見直すハメになってしまった。納期に間に合わなければ関連するシステムすべてに影響する。
委託元から、進捗状況の報告を求める冷酷なメッセージが飛んでくる。
彼は、[もう間もなく出来上がります。ただいま動作確認中です]と蕎麦屋の出前のような返事を返し、
頭を抱え込んでしまった。
煮詰まった時には眠るに限る、と彼は決断してそのまま横になった。
吸い込まれるように彼は深い眠りに落ちた。
* * * *
顧客からの鬼のようなクレームに対応し、どうにか収束させると、女はヘッドセットを頭から外して、
大きく背伸びをして立ち上がった。グループリーダーに今日の業務状況を報告して慌ただしく事務所を出る。
外の蒸し暑い、ぬるま湯のような空気をかき分けながら、近くのバス停からバスに乗り、10分ほど混みあった車内で
立ったままうとうとと眠りそうになってしまった。
バスを降りると5分ほど歩いて小さな保育施設に着いた。待っていた娘が彼女に抱きつく。
ちょうどその場にやってきた保育施設の管理者に、話があるからと呼ばれて一人で事務所に入った。
管理者は彼女に、料金が今月引き落としされなかったことを告げた。理由を問われて彼女はひたすら謝るばかり、
週明けには振り込みますからと言ったものの、契約上、引き落としができなかった場合は契約違反として、
退所しなくてはならないと管理者から冷たく告げられた。
さらには、生活が苦しいのはあなただけではないと、輪をかけて死刑宣告のような発言に彼女は目の前が暗くなった。
怒りがこみ上げてきたが、ふらふらと立ち上がり事務所を出ると、何事もなかったように娘に笑顔を見せる。
2人は手をつなぎながら自宅まで歩いた。
商店街の壁面ディスプレイでは、先日からの国境の島でのいざこざのニュース。
そのニュースがちょうど終わり、流れてきた次のニュースに、彼女の目は点になった。
[来年の4月より現金の取り扱い終了。今後は全てが電子決済に]
* * * *
気がついた時にはすっかり日が落ちて、男は暗い部屋の中にいた。
電気をつけなくても、近くの商店街や高層アパートの灯りで多少は部屋は明るい。
電気代を節約したいところだが、とりあえずは部屋の電気をつけて仕事を再開した。気がついたら2時間も寝ていた。
恐ろしいほどの深い眠りについたせいか、気分がスッキリして思考が冴えていた。
作業に戻ると、画面には委託元からの催促メッセージが5つも表示されていた。
一番最後のメッセージにだけ返事をして、仕事に集中した。寝る前とは大きく異なり、恐ろしいほどに仕事がはかどった。
その後2時間ほどかけてプログラムを完成させ、委託元に納品すると、大きく背伸びをして立ち上がった。
窓の外、それほど遠くないところには高層ビル街。
きらびやかなその高層ビル街のどこかに、委託元の会社があるはずなのだが、一度もオフィスに行ったことはない。
就職活動は担当者と画面越しで面談しただけ。仕事の指示のメールが流れてきて、
成果物を納期までに必ず納品する。成果に対しての対価の支払いは翌月末。
オフィスで働いている委託元の社員のことを彼は想像した。
エアコンの効いた快適なオフィスで、広いテーブルのようなデスクに作業端末。画面を眺めているだけで手は動かさない。
手を動かすのはコーヒーを飲む時と、スナック菓子を食べる時だけ。
業務委託先からのメールを受け取ると、検証担当者に横流しして内容チェックを依頼。
不具合があればそのまま業務委託先に押し返す。苦言付きで。
ひと仕事を終えて、夜遅くなってもそのまま返事がなかったので男はとりあえず受け取ってくれたものと思った。
ディスプレイの片隅には、いまだに相手に振り回されっぱなしの国境の島の映像。
日付が変わっても委託元からの返事がなかったので、男は横になってぼんやり考え事をしていた。
やがて、自分の性欲を処理すると、疲れ果ててそのまま寝てしまった。
* * * *
女は娘を寝かせると、作業端末を開いて友人との会話を始めた。
友人といっても、直接に会った事は一度もなく、オンライン上でお互いに同じ境遇にあることを知り友人になったようなものだ。
同じ境遇であることから会話はいつも盛り上がっていた。上司に対する愚痴、社会に対する不満。
子育ての悩みについて語りながら、今日は直に会ってどこかに出かけようという話になっていた。
缶ビール片手に、行ってみたい温泉街、ショッピング、グルメの話がとりとめもなく続く。
女は、突然に頭がふらつくのを感じた。今日はちょっと飲みすぎただろうか。気づいたらもう寝る時刻になっていた。
友人との会話を終わらせて、次回のオンライン上での集合時刻の約束をして、別れた。
隣の部屋では娘が気持ちよさそうに寝ていた。
昼間のイヤな事も、娘の寝顔を見ているとなぜか忘れてしまう。
娘が生まれて3年間、シングルマザーで娘の事を必死になって育ててきた。
別れた彼氏に対しては、どうしてこのような事になってしまったのかと恨む気持ちもあるが、
自立した生活をして、娘に誇れるような人間になろうと、自分で決めたことに対して悔いはなかった。
豪華なマンションから女と一緒に出てくる元彼を見かけて、どきっとしたが、堂々とすればいい、
2人の前をわざと横切り、娘と一緒に楽しそうに歩いた。
女は娘の寝ている寝室に入り、横になった。
再び先ほどのような頭のふらつきを感じたが、疲れているのだろうと思った。今日も働きすぎた。
とにかく横になって体を休めて、明日も気持ちよく仕事をしようと思った。明日は今日よりもいい一日になるはず。
* * * *
きらびやかな繁華街の灯り、空の暗さを気にしなければ昼と変わりないと思えるほどに勘違いをしてしまう。
しかし、一歩裏通りに入れば深い闇の空間が広がっていた。
建設会社の倒産で放置された、建設途中のテナントビル。雨風にさらされて構造が朽ちかけていた。
蒸し暑いむき出しのコンクリートの部屋の中で、女がぼんやりと宙を眺めていた。窓ガラスのない窓から繁華街の灯りが。
女から少し離れた場所に、全身傷だらけの男の死体が横たわっていた。
2時間ほど前には、まだその男は生きていて、彼女と一緒に繁華街を歩いていた。ちょっとしたはずみで男3人に絡まれるまでは。
楽しく繁華街を歩き、食事でもしようかと言っていたところ、男3人に絡まれ、
裏通りに引きずり込まれたあとは、あっという間に2人は地獄に落とされた。
男の屈強な肉体は一瞬にして急所を狙われ、全身を傷つけられ、最後のとどめを打たれて息絶えた。
その後、彼女の心と体には思い出したくない出来事がしっかりと染みついた。
傷つけられ、もてあそばれ、単に肉体に張り付いているだけの破れた衣服を眺め、徐々に意識が遠のいてゆく。
最後に男たちに打ち込まれた注射が、いったいどのようなものか彼女は知らないが、何かの薬品だろうと思った。
窓の外の繁華街の灯りを眺め、やがて女は目を閉じた。
* * * *
男が目覚めると、作業端末には特にメッセージはなく、いつもの委託元からの作業指示のメッセージもなかった。
こんな状況がここ3日ほど続いている。毎日特にやることもなく部屋の中で過ごす。
今日は昨日ほどの暑さはなく、ようやくこれで秋になるのだろうと思ったが、それでも最高気温の予測は35度。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して飲む。画面を見ると国境の島の映像はなく、
アパートで母親が亡くなったとのニュースが流れていた。3歳の娘が泣いている。
連日の暑さで身に堪えたのだろうと男は思った。熱中症で救急搬送される人など珍しくない。
母親は寝たままで亡くなり、単に寝ているだけだと思った娘は、3日間ずっと母親のそばを離れなかったようだった。
いつ何時委託元からの指示が突然やってくるかわからなかったので、作業端末の前からなかなか離れられないが、
意を決して、男は外に出て食材を買いに出かける事にした。
商店街の壁面ディスプレイに、国境の島の映像が映し出されていた。
ヘリの数は日を追うごとに増えていて、プレハブ施設の建設が着々と進んでいた。
帰宅しても、委託元からはメッセージはなかった。
ニュース画面を見ると、さきほどまでリスト上にあったアパートで亡くなった母親のニュースはなかった。
代わって、ニュースのトップに表示されたのは以下のニュースだった。
[異例の芸能人カップル、電撃結婚]
* * * *
国境の島の近くで、警備船の乗組員はついに行動に出る事にした。
政府からの指示は全くなく、国民からは乗組員はただ指をくわえているだけだと叩かれ、
怒りに震えた船長は、警備船を島に向けて動かし始めた。ほぼ同時刻に軍も島に向けて出発した。
独断の行動に、まだ選挙中でそれどころではない首相は、慌てて官邸に戻り大臣を招集して檄を飛ばした。
政府施設の前では、警備員の行動に反対するデモ行進が突然に始まり、警察との対立の場にマスコミが集まった。
しかし、ニュース映像でそのデモ行進が表示されることはなかった。
デモ行進の場からほんの少し離れただけの繁華街では、そんな喧騒とは全く無縁の状態。
日々の仕事に追われているサラリーマンが飲み屋街に集まり、違法な客引きが通りの真ん中で標的を探し、
酔いつぶれた若者が歩道に横たわっていた。
警備船と軍の行動が、翌日のニュースリスト上に現れる事はなかった。ニュースのトップには以下のニュースが表示されていた。
[白イルカの親子、東京湾を北上中]
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アパートの一室では、男がまだ委託先からの次の指示を待っていた。
親を失くした3歳の娘は、行き先もなく、保護施設に入所してこれからの人生を歩み始めようとしていた。
コンクリートむき出しの部屋の中では、腐り始めた男の死体と、肌もあらわな女性の死体が発見されずに放置されていた。
豪華なマンションから出てきた男は、女と手をつなぎながら、あの母子が目の前に現れないかと恐れていた。
国境の島では、警備船の乗組員が島に上陸し、軍も上陸作戦を始めていたが、ニュースで取り上げられることはなかった。
やがて、島の高台に赤い国旗がはためいたが、首相は国民にはその事は一切触れずに選挙に向けた演説を始めた。
失われた未来。
未来が失われたわけではなかったが、人々は目先の事で頭がいっぱいだった。
現在の事だけを考えるようになってしまった人々の頭の中から、未来が失われてしまった。
* * * *
理沙が社会人としての一歩を踏み出した、最初の夏が終わろうとしていた。