惹かれ合うふたり
店で働き始めて半年の月日が流れた。
閉店後、いつものように最寄り駅まで店のママである親友と一緒に歩く。駅の手前で2人は別れた。
理沙は東京湾の夜景を見るために港の近くの公園まで歩く。
東京湾を見渡すことができる展望デッキで、コーヒーを飲みながら何も考えずに過ごす。
今日店で起きた出来事、楽しい事もイヤな事もいったんは頭の中から追い出して空の状態で遠くを見つめる。
視線の先には、深夜の時間帯にもかかわらず灯りのついている場所があった。
東京湾の中央に、光の中に人工島が浮かび上がっていた。建設作業中のトラス構造物が見える。
視線をすぐ近くの公園に向けると、暗がりの中で動かないカップル。抱き合っている。
大げさなパフォーマンスで踊っている男。
腕を振り回したり、ステップを踏んで右へ左へ動き回っている。
コーヒーを飲み終えると、興味半分、その男のところに接近した。
辺りは暗かったが、時々警備用のサーチライトの光が公園の風景を照らしていた。
男はパフォーマンスを一旦終えて、立ったまま肩で呼吸をしている。
男の顔に光が当たった。
「あら」
理沙は男に近づいた。
* * * *
店は完全能力給なので、店で働き始めた当初は、安い月給に気持ちが折れそうになった。
ママである友人がいるからこそ、なんとか耐えられるもので、一緒に帰宅するときには彼女に愚痴をこぼした時も。
友人からは、あたしも最初の頃はいじめにあって、毎日悔しい思いをしていたよとなだめられ、
理沙は毎朝、彼女と同じように夜の街でのし上がってやると毎朝闘志を新たにしていた。
店では新たなキャストが加わり、営業時間での冷たい争い、閉店後の派閥同志の騒動は絶えなかった。
その客と席を共にしたのは、ようやく店の中での自分の居場所が出来上がった頃だった。
「あたしも昼間は学校に通っているんです。場所が近いですね」
場慣れしていないように見える会社員。借りてきた猫のように見える彼のそばにちょこんと座り、
まずは、当たり障りのない仕事の話をした。彼の職場は理沙が昼間に通っている専門学校の近くだった。
「家の内装とか、レイアウトのデザインの勉強しているんです」
「自分も学校で建築の勉強していたんですよ」
会社の同僚は、既にお気に入りのキャストがいるので、理沙は彼と2人だけでずっと話をしていた。
内容はごく他愛のない、普段であればどうでもいいような、朝何時に起きて、昼は何を食べるといった、
すぐにでもネタが尽きてしまうような内容だったが、なぜかあれもこれもと話は繋がっていって、
気がつけば1時間の制限時間はあっというまに終わった。
「延長しますか?」
理沙が彼に尋ねると、男はお気に入りのキャストと話に夢中の先輩に声をかけ、先輩はすぐにOKした。
「まだ入社したばかりですか?」
「ようやく1年たったところで、でも、後輩いないし」
「あたしもまだ半年」
「全然そんな風には見えないな」
結局のところ、その後も何回か延長して、気がついたら閉店時刻になっていた。
テーブルのチェンジは一度もなく、理沙は結局のところ彼とずっと話をしていた。
彼と一緒にラストダンスをして、店の前まで彼の事を見送った。
一度彼は振り返り、そこで理沙は再び手を振った。
ママがそんな理沙の仕草に気づいて言った。「ずっと一緒だったけど、楽しかった?」
理沙は少し首をかしげて、
「どうかな」
* * * *
男の方も理沙に気づいて、手を挙げた。
「今日はもう閉店?」
「ええ、これから帰ろうかと思って」
寒い夜だったが、彼の額には汗が光っていた。
「こんな遅くに何しているんですか?」
「あれ、前に店で話しませんでしたっけ?」
理沙は首を振った。
彼はステージに立っているようなポーズを取ると、腕を動かし始めた。
腰のところで手をさかんに動かしながら、ちょこちょこと歩き始める。
「なんとなく分かったけど」
以前にどこかで見た記憶はあるのだが、言葉が出てこなかった。
しばらく彼のパフォーマンスを見ていてようやくエアギターという言葉にたどり着いた。
「ようやく分かってくれたね」
「趣味か何かで?」
店で会話した時には、仕事や身の回りのことの話題ばかりで、理沙も趣味の話までは頭に残っていなかった。
親友のママからも時々言われる、もっと客の話をきちんと聞かないと、という言葉が思い出された。
「世界大会があって、選考に向けての練習だよ」
その後は、しばらく彼のパフォーマンスを見ていた。
音がないと、ただ踊っているだけのようにしか見えないのだが、
彼から渡されたイヤホンを耳に装着すると、世界が一変した。
イヤホンは片耳だけだったが、ギターの演奏に合わせて彼のパフォーマンスがぴったりとはまり、
ステージが目の前に見えているような気がしてきた。
最後のフレーズをしっかりと決めて、彼は深々とお辞儀をした。
理沙は夢中になって手を叩いていた。
* * * *
彼のパフォーマンスが終わると、また店で会いましょうねと言って理沙は別れた。
翌日は、学校に行く予定ではなかったので、昼近くに起きてベランダからしばらくぼんやりと外を眺めていた。
彼のパフォーマンスと、耳から流れていた曲がまだ二日酔いのように頭の中に残っている。
夕方に店に出勤すると、ママからさっそく声をかけられた。「例のお客、今日も来ているよ」
理沙はどきっとした。しかしママの次の言葉に拍子抜けした。
「彼は来ていないけどね」
会社員と一緒の席につき、隅の方でちょこんと座っていると、理沙のことが気になったのか彼の先輩は言った。
「ごめんね、今日は彼は忙しくて来られなくなったんだ」
いえいえ、と理沙は首を振った、「大丈夫です。またいつか会えればいいですから」
閉店後には、いつものように東京湾の見える店でコーヒーを飲み、
近くの公園に視線を向けた。彼はそこにはいなかった。
彼からメッセージIDを聞いていたので、会社の先輩が来たことについてメッセージを送ってみたところ、すぐに返信があった。
[ありがとう。今日は行けなくてごめんなさい]
理沙はすぐに返事を返した。
[お仕事頑張ってね]
* * * *
半年いればもう長い方だよと親友が言った通り、この半年間でキャストは半分以上入れ替わった。
給料の安さに呆れてもっとよい条件の店に移った者、自分で店を持つんだと出ていった者、事情はさまざまだったが、
「たいていは、この店の方が良かったんだって気がつくんだよね。その時には遅いけど」
そう言う親友の言葉は、淡々としていてもそれなりの重みがあった。
自分と同じ年とは思えなかった。
店を持つまでにはどれだけの苦労があったのか想像もできないが、3年前に突然に音信不通になったときには、
家族が崩壊したとか、半ば夜逃げ状態だったとか、悪い噂しか理沙の耳には聞こえてこなかった。
「理沙はよく耐えたよね。これからもよろしく」
今日の閉店時の発表で、理沙は既に店を出ていってしまった先輩キャストの売上も超えて、店のナンバー3になっていた。
夜の公園で会った日からちょうど1週間後、彼は先輩と一緒に再び店にやって来た。
「嬉しい」
はじめて理沙は彼の手を取り、席までエスコートした。
先輩はお気に入りのキャストと何か話をしているようだったが、その事は気にせずに理沙は彼との2人だけの世界に入った。
やがて、先輩はお気に入りキャストと一緒に店を出ていってしまった。
彼のすぐそばを通った時に、先輩は彼に何かを耳打ちした。
彼らがキャストを連れて店を出ていったあとで、理沙は彼にそれとなく尋ねた。
「一緒に行かなくていいの?」
彼はうなずいた。
その後は2人だけでの会話が続いた。何度か席を替わることはことはあったが先日と同じような他愛のない会話が続いた。
* * * *
理沙にも何人かの固定客が付き始めた。
そのうちの一人、会社経営者と自称しているので、いちおう理沙は若社長と呼んでいるのだが、
彼はたいてい、取り巻きのような何人かを連れて店にやってきていた。しかもどちらかといえば酒癖が悪い。
しかし、若社長は変にしつこいこともなく、話を合わせてさえいれば怒りだして暴れるといった事もないので、
理沙にとっては売上に貢献してくれる一番の客だった。
「歌ってくれないかな?」
突然に若社長は理沙に言った。今までこんなことはなかったので少々驚いたが、
彼が示した曲に、ちょっと思い当たることもあり、すぐにOKを出した。
大抵、客は2人でデュエットと称して、変に絡みあったりしてくることを求めたが、彼はソロの曲を示した。
「いいよ」
曲が流れ始めた。「Vanishing」である。
閉店後に行く店で、コーヒーを飲みながら窓の外を見ていた時に流れていた曲だった。
ちょうど店で先輩キャストとのいざこざがあり、ママの仲裁でなんとかその場は収まったが、
つい気が立って店をやめてやると思った矢先、一人静かにコーヒーを飲みながら、自分の今までの事を思い出した。
きらびやかであっても、危険で薄汚れたこの街。成功者もいれば落ちぶれて今日の生活もおぼつかない者もいる。
自分は何をしてこれから生きていこうか、静かに目を閉じて考えていた時に店内で流れていたのがこの曲だった。
ゆったりとしながらも、訴えるような歌詞を、理沙は歌っていった。
歌の背景は、もっと違うものだとは分かっているのだが、
若社長の心の中にある何かが、今の自分と重なったのだろうと思った。そして理沙は歌い切った。
理沙の歌う姿に、店内の客もキャストも会話に夢中で気にも留めていなかったのだが、歌が終わると一斉に拍手があがった。
若社長の席に戻ると、彼は理沙にただ一言、
「よかった。すばらしい」
曲を聴けてすっかり満足したのか、そのあと若社長は取り巻きと一緒に帰っていった。
店の外で理沙は若社長から握手を求められた。固い握手を交わした彼の手が熱かった。
理沙は気づいていなかったのだが、歌っている間にエアギターの彼は先輩と一緒に入店していた。
店内に戻り、ママから席を案内されていつものように彼の席に座ると、
「よかったよ」
さきほどの曲を彼が聞いていたのを、理沙はそこではじめて知った。
「聞いてくれたんだ。嬉しい」
理沙の気持ちの中で、彼に対しての気持ちが徐々に変わってゆくのを感じた。
エアギターに熱中している彼と同様に、自分にも夢中になれそうなものがあるのかもしれない。
進んでいる方向は同じとは言い切れないが、お互いに相通じるものがありそうだと理沙は思った。