裏切り
何物かに追いかけられていた。理沙は顔の見えないその存在から逃げようと必死で走るのだが、
路地裏に迷い込んでしまって方向の感覚もわからない。とにかく逃げたいとの一心で走る。やがて袋小路の壁に阻まれて万事休す。
振り返れば顔の見えない存在が2メートルほど離れて立っていた。
うすら笑いと不気味な声。逃げたい一心で背中で壁を押しても、逃げる事はできない。叫び声がなぜか出ない。
はっと目が覚めると、ぼんやりとした視野の中にいつもの見慣れた部屋の風景があった。
理沙はベッドからゆっくりと起き上がり、重い足取りでベランダへと向かった。雲一つない空に太陽が眩しい。
* * * *
不吉な予感はしていたが、昼間にあった出来事で夜見た夢の事はすっかり忘れていた。
生活の足しにするために、夜の店での掛け持ちにはなるが、理沙は給料のよい昼の仕事も探していた。
そのために学校に通って勉強もしていた。そしてその成果が報われて、今日デザイン関係の会社の仕事に就くことができた。
面談の時に、夜の仕事のことは包み隠さずに面接官には話してあった。社長は、たとえどんな家庭環境であろうとも、
一番大事なのは、能力があるかないかというただ一点。理沙はその点に非常に好感をもっていた。
さっそくママに報告をしないと、と連絡を入れたところ、
[理沙、ちょっと早めに出勤できる?]
いつもと違うそのメッセージに、理沙は気になるものを感じたが、30分ほど早めに店に着いた。
「理沙、店長と連絡がとれないの」
まだ2人だけしかいない店内、ママの顔色は青ざめていた。
* * * *
店に向かう電車に乗っている間、理沙はふと今日は給料日だということを思い出し、口座の残高をチェックした。
そこで理沙は異変に気づいた。今月の給料がまだ振り込まれていないようだった。
非常に不吉なものを感じつつも店に到着したところで、店長となかなか連絡がとれないママからの嘆きの言葉。
「ほかの娘と連絡は?」理沙が尋ねると、ママは、
「連絡がとれないのが、一人だけ」
そのキャストと、ママが昨日言い争うところが思い出された。
ちょっとした彼女の態度の変化を、ママは見逃さなかった。そのことを注意するといつもとは違って強い口調で彼女は反論した。
ママも譲らなかった。自分よりも1つ年下のママに対して、立場の違いはもうどうでもいいというように喰ってかかる彼女。
一触即発の状態にまでエスカレートしたが、なぜか最後の一歩のところで彼女は手を引いた。
そしていつものように彼女は帰宅しようとした。
しかし、ドアを出る直前にふと店内を振り返り、理沙のことを見ると不気味な笑みを浮かべた。
ちょうどその時、店長が理沙のそばを通り過ぎた。そしてドアのところに立っている彼女と一言二言言葉を交わす。
「2人がどこにいるのか、確認できる?」
非常時や、災害時のために使用するキャストの安否確認システムでママが確認すると、2人の所在は確認できなかった。
ママはそのあと何人かに連絡をとっていた。
その後、ママは店の会計管理に使用している端末に、位置情報システムの画面を表示させた。2人のID情報と画像を入力した。
理沙も友人との待ち合わせのために似たようなシステムを使った事はあるが、その画面はちょっと仕様が違うように見えた。
30秒ほどで結果が表示された。
「こんなところにいたのね」
2人は店を出るとタクシーに乗り、空港に向かった。
海外逃亡でもするつもりなのか、店長と店の女が空港に向かっていることを確認すると、2人は後を追った。
途中で渋滞に巻き込まれることもあったが、運転手は焦る2人の気持ちを感じ取って空いている道を探し出した。
空港に着くとさっそく出発ロビーに向かう。
追跡システムの画像と、まわりの風景を見比べながらママは走る。理沙も置いていかれないように走る。
突然に立ち止まり、ママは待合の休憩場のソファーのところで休んでいる男女を指差した。
そして小さな声で、「あれよ」
サングラスをかけてうつむき加減なので、表情までは確認できないが、おそらく店長と店の女だということはわかった。
落ち着いた足取りでママは2人のそばまで歩いてゆく、理沙もすぐ後ろを歩く。
ママは男女の前で立ち止まった。仁王立ちしているようにも見える。男女が顔を上げ、男がサングラスを取った。
「何か御用ですか?」
ママの表情がこわばった。女の方もサングラスを取った。
確認するようにママは交互に男女の顔を確認したが、やがて一歩後ずさりした。
「ごめんなさい、人違いでした」
理沙も男女を確認したが、店長と店の女ではなかった。
ママは2人に深く頭を下げ、理沙のそばまでとぼとぼと歩いて戻ってきた。「行きましょう」
理沙は何が起きたのか理解できなかった。店に戻るまでのタクシーの中で、ママはほとんど無言だった。
誰かとメッセージで会話をしているように見えたが、理沙は恐ろしくてその内容を見る気にはなれなかった。
「なりすましよ」
店に戻ると、ママは理沙に言った。
「あの2人が、店長とあの子と入れ替わったわけよ。最近あるらしい」
「でも、顔認証があるでしょう?」
ママは首を振った。
「見た目は本人そのままで、顔認証システムにも撮影されるんだけど、その後データがすり替わるらしい」
理沙は言葉が出なかった。顔認証の入れ替わりについては聞いたことがあったが、まさかその手に自分たちが騙されるとは。
「入れ替わったもう一方の2人は、今頃飛行機の中でしょうね。2人で笑っているんでしょう」
そのあとママは、店をしばらくの間休業しますとの貼り紙を書いて、店のドアに貼り付けた。
* * * *
店長に店の売上金をすべて持ち逃げされ、それでも業者への支払いや店の家賃があり、理沙も含めた店のキャストへの給料は待ってくれない。
さっそくママはキャストを店に呼ぶと、自分のポケットマネーから今月分の給料を支払うことを全員に告げた。
皆黙っていたが、理沙が控室に戻ると、キャストたちの間からママへの悪態が聞こえてきた。
一人、また一人と彼女たちはママに別れを告げると、店を出ていった。
気がつけば店には理沙とママの2人だけになってしまった。
今までの気品のある、自分と同じ年とは思えないほど堂々としたママの姿はなかった。
力尽きて、今すぐにでも泣き崩れてしまいそうな、自分と同い年の親友の姿に戻っていた。
「理沙」
よく見ると、目を赤く泣き腫らしていた。声に全く力が感じられない。
「出ていっていいよ。後はあたしがなんとかしなくちゃ」
「そんな言い方やめてよ」
理沙は彼女の肩に手をかけて、しっかりと目を見た。
「あたしの事を助けてくれたんだもの、今度はあたしが助ける番」
とりあえず今はこの窮地を乗り越えるしかないと思った。
「今夜はうちに泊まらない?これからどうするか一緒に考えようよ」
とはいえ、理沙には明確な考えはなかった。
* * * *
理沙が考えるほどに事は簡単ではなかった。
親友が今まで苦労して溜め込んだ多額の貯金も、店のキャストたちの給料や、業者への支払いを済ませると
すっかり空になってしまった。自分の住んでいるマンションの家賃を払う分さえも残っていない。
とりあえずは身の回りの物をすべて売り払ってなんとかお金を工面し、理沙は親友を自分のアパートで引き取ることにした。
理沙は昼の仕事があるので、なんとか自分のアパートの家賃は払うことはできたが、
職のない親友は、理沙のアパートに転がり込んだ翌日から、職探しを始めた。
夕方になると、親友は先に帰宅していて、食事の準備を始めていた。
スパゲティとサラダ、そして少々のお酒。
親友は食べながら今日の職探しのことを話していた。個人的なツテをたどって、昼夜の仕事を条件関係なく探していたが、
「でも、なかなか難しいものだね」
しばらくの間、2人は黙々と食べていたが、やがて、
「やっぱり、あたしって人徳ないのかな」
そして、彼女は先日店で見せた泣きそうな表情になった。
「そんなこと言わないの」
彼女に対してこの程度の事しか言えないが、前向きな気持ちにしてあげるしかないと理沙は思った。
「寝て起きれば、明日にはまたリセットされて、前向きになれるよ」