危険な綱渡り
理沙には、どんなに疲れている時でも習慣として必ず行っている事があった。
寝る直前に、日記を書くこと。
しかし、その内容は実際に体験した事、店での出来事や、客との会話そのものを書くという事ではなく、
それとは全くかけ離れた内容であり、内容は小説に近かった。
何がきっかけで始めたのかよく覚えていないが、最初は普通に日々の記録だったが、
親友と再会したあの日、うだるような暑さの中で倒れそうになったあの日を境に、夜の街の世界へと足を踏み入れ、
昼は現実世界、夜は非現実世界の2重の世界を往復するようになってから内容が変わった。
毎日の日記は、日々劇的で変化に富んだ内容となった。
その世界を、少々離れた位置から冷めた目で眺めている理沙自身がいた。
* * * *
今日はなぜか客が面白いほど良く釣れる。
こちらから何かエサを撒いているわけでもないのに、次々にあたしの方に寄ってくる。
ものすごくハイな気分の、血気盛んな男ばかり。
現実逃避しているとしか思えないのだが、本人にとっては現実はもうどうでもいい。
それならばあたしも手伝って、いい夢を見せてやろうか。
店の前で釣ってきた客を、ママに見せると早速品定めをして料理にとりかかる。
とにかく飲ませて、いい気持にさせて朝までを楽しく過ごす。
代金はしっかりと頂いて、そっと店から追い出す。
彼が気づいたときには朝になっていて、なぜか路上で寝ている。
後味がいい夢を見せてやればいいのだ。でも、後の事は知らない。
そして今夜も店の前で釣りにとりかかる。
みんな病んでいるように見える。
一見、活気があるように見えるのだが、実はクスリで無理やり生かされている。
このままでいいわけがない。
でも、あたしたちも彼らから生命力を頂いて生かされている。
お互い様だと思った。
これが今の世の中の現実。
* * * *
まだ春だというのに、今日はうだるように暑い。
夏の過酷な暑さではないけれども、とにかく異常な春。
つい先日には雪が降っていたというのに。
暑さで眩暈がするときには、ふと昔の事を思い出してしまう。
スクランブル交差点を渡っていた、あの夏の日。
道路を半分まで渡ったところで、ふと眩暈に襲われる。
あたりの風景がぼやけてきて、まわりの喧騒が遠くから聞こえているような感覚。
よろよろと倒れそうになり、しゃがみこんでしまった時に、誰かが腕を掴んだ。
拉致されてどこかに連れ去られてしまうのではないか、身の危険を感じたその時、
「大丈夫?理沙」
誰かが自分の名前を呼んでいた。
建物の日陰の下で座り込んで、徐々に意識が戻ってきた。
「まさか、こんなところで会うとはね。ほんとに大丈夫?」
心配して自分のことを覗き込んでいるその女性。次第に昔の記憶がはっきりとしてくる。
「ええ、だいぶ良くなってきたみたい」
名前を思い出すまでに少し時間がかかったが、その顔には見覚えがあった。
しばらくの間音信不通になっていた親友だった。
といった記憶だったと理沙は思っているのだが、現実はかなり違っていた。
おぼろげではあるが、その思い出したくない記憶は時々夢の中に蘇ってくる。
その日暮らしの毎日が続き、その日も職安から紹介された企業に面接に行ったが、手ごたえが感じられなかった。
今日は3社ほど面接に行き、すべて採用まで至らず。
面接ばかりの毎日に、理沙は疲れてへとへとだった。
とりあえずは腹が減ったのと、憂さ晴らしのために下町の屋台街に行き、安い食事と安い酒を飲む。
あまり飲みすぎると帰る事もできなくなってしまうので、ほろ酔い程度で店を出る。
いつもより少し飲みすぎたのか、それとも疲れているのか、足元が少々ふらついている。
駅までの道をどこかで間違えてしまったのか、見覚えのない路地に紛れ込んでしまい、
暗い夜道なので歩けば歩くほど方向感覚がわからなくなってしまう。
来た道を引き返そうと、振り向いたところで、男3人が背後にいた事に気づいた。
慌てて小走りに逃げようとする理沙、しかし追ってきた男たちにすぐに囲まれてしまった。
無言ですり寄って来る3人。
命の危険を感じたが、もう遅いと思った。
隙を見つけて逃げようか、でも腕を掴まれて動けなくなる。
本能が行動を支配し、掴まれた腕を必死に振りほどき、逃げようとすると今度は別な男に肩を抱かれる。
ナイフを見せつけられて、緊張と恐怖のあまり声を上げる事が出来ない。
もうおしまいだ、と思ったその時だった。
別な男3人が、絡んでいた男3人に襲い掛かった。そしてあっという間に急所を襲い、命を奪う。
「さぁ、こっちへ」
もう一人の女性が、理沙の腕を掴むと元来た道の方へと連れ出した。
少し遅れて、3人の男たちもやってきた。
しばらくの間放心状態で、理沙は連れ出してくれた女の顔を見る事もできず、うつむいていた。
「危なかったね、でも大丈夫」
まわりの状況が徐々に認識できるようになり、女性の優しい声かけに気分が徐々に落ち着いてきた。
「ありがとうございます」
気分を落ち着かせて、その女性の方を見た。
名前を思い出すのに少し時間がかかったが、その顔には見覚えがあった。
これが、実際に理沙が親友と再会した時の出来事である。
* * * *
無法地帯の夜の世界に、今日も救いを求める者たちがいた。
残念ながら裏通りの狭い路地まで法律は適用されていないのか、運の悪い人々の亡骸が裏通りに無造作に捨てられていた。
危うく自分も同じ運命をたどっていたかもしれないと思うと、背筋に冷たいものが走り、あの時のことを忘れたいといつも思う。
無法地帯の夜の世界だったが、完全に見捨てられているわけではない。
自警団が狭い路地をパトロールし、無法地帯の法律そのものとして行動していた。
合法か非合法かということはどうでもいい、法律に救われない人々を救う事だけを考える。
自分もまた、その法律になったような気持ちで、暗い夜道を集団になって歩く。
そして、悪いものたちを容赦なく消し去る。
「こんな事をしても、お咎めなしなの?」
ある日、親友に尋ねてみたことがあった。
「あまり、深くは考えない方がいいよ」
深く考えていたら、手が止まってしまう。
そして手が止まってしまう事イコール死を意味していた。
どこからか入手した銃を使って彼らの頭を一瞬で打ち抜き、彼らの餌食になったかもしれない人々を救う。
そして名前を告げずに次のターゲットを探しに闇夜を歩く。
殺傷した者たちを警察に引き渡し、その時に警察に咎められることもない。
事務的に、淡々と事を処理する。
夜道を親友と一緒に歩きながら、彼女の背後に存在するであろう者たちのことを考えた。
果たして、バックから操る者たちは、善なのかそれとも悪なのか。
* * * *
一番信頼していた人から裏切られて、普通に考えれば自暴自棄になってしまうはずなのに、
親友はいつもと変わらないそぶりを見せていた。
莫大な借金、自分のその日生きるための生活費にも困っているような生活。
生活が安定するまでの間ということで、理沙の家に同居している親友だったが、
理沙にいつも見せている笑顔が、なぜか非常に不自然に思えてしまうのだった。
[どんなにイヤな事があっても、とりあえず寝れば頭の中がリセットされて、起きた時には前向きな気持ちになれる]
新しい店に移っても、2人はしばらくの間は新人扱いで、
特に親友に対して、店の他のキャストからの仕打ちは過酷なものだった。
ある日、理沙は彼女の右の瞼の上に青あざを見つけたことがあった。
「あ~、これね」
親友は、眠くてフラフラしていたらテーブルの角でぶつけたと言い、別に何でもないと笑った。
* * * *
その後、親友の不審なけがを見かける事はなくなり、
彼女が他のキャストと控室で楽しく会話しているのを見かけるようになったので、理沙の不安は自然消滅した。
ある日、客を店の外まで見送り、再び店内に戻ろうとしたところで、親友が入り口ドアの外で電話をしているのを見かけた。
口数は少なかったが、時々頷き、理沙と視線が合うと彼女は笑みを見せたが、
再び険しい表情になったので理沙は店内に入った。
理沙はしばらくの間別な客の相手をして、その後控室に行こうとしたところで親友が外から戻ってきた。
理沙と目が合ったが、無言だった。
彼女は非常に上機嫌なように見えた。