心に火をつける
親友と2人で、別な店に移ってからはや1年。理沙も親友も店の中では徐々に成績を上げていて、
元からいるキャスト達からは目の敵にされていた。しかし、その1年の間にもキャストは入れ替わりが進み、元からいる彼女たちも
多数派から少数派になりつつあった。
ある日理沙は、閉店後に親友が、元からいるリーダー的存在の女と2人だけで何やら話をしているのを見かけた。
見えない火花が2人の視線の間に見えるほど、部屋の空気は冷え切っている。
「とうとう、追い抜いたみたいよ」
理沙の入店の翌月にやってきた女が、そっと耳元でささやいた。
その時店長がやってきて、閉店後のミーティングを始めると告げた。親友も店長の姿を見るとリーダー女と一緒に控室を出た。
キャスト達は2人が通る道を開ける。理沙は通り過ぎる親友をふと見たが、彼女は勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべていた。
店長のまわりにキャスト達が集まる。
「では、今月の成績を発表します」
店内に、店長の声だけが静かに響き渡る。
* * * *
「本当にやってみたい事って、あるの?」
真顔で若社長から見つめられた。理沙はふと別なことを考えていたので、上の空だろうと気がついたのだろう。
慌てて理沙は、そんな事はない、というように目の前で手を振った。
「昼の仕事をやっているのは、知っているでしょう?」
そして、以前も若社長には話した事がある、昼の仕事と夜の仕事でお金を貯めて、小さくても自分の店を持ちたいことを話した。
「もし、店を持ったら、その時には来て下さいね」
わかった。と若社長は頷いた。彼は何か腹の底では違った事を考えているのではないかと、理沙も時々思うことがあったが、
変に関係を迫ってくることもなく、微妙な距離感でお付き合いをしてくれる、話題の多い男だと思っていた。
「理沙だけいれば、あとはもう何もいらないな」
突然に意味深なことを言われ、理沙はちょっと今日は何かが違うと思ったが、笑顔でやり過ごした。
「前の店で、歌ってくれたことがあったよね」
「そうね」
歌うと言えば、一緒に体を密着させて歌うのが定番なところで、そのとき彼はいきなり曲名を指定して1人で歌わせた。
「たまたま私も覚えていたから、歌えたんだけどね。でもそれほど上手くなかったでしょ?」
「いやいや、なにか才能がありそうだと思った」
そして再び、これから先にやってみたい事についての話題になった。
「理沙にしかやれないことって、あると思うんだよ」
「例えば?」
そして、再び前の店で理沙が一人で歌った時の話になった。
若社長はしんみりとした表情になり、当時の心境について淡々と話し始めた。
「実は、ちょうどあの頃に妻と別れて、裁判や財産分配でもめていたのが落ち着いて、そんな時にたまたま会ったのが理沙なんだ」
はじめて聞く彼の身の上話に、理沙はいよいよ彼の心の中の黒い部分が見え始めたような気がした。
理沙の心の中での警戒レベルが1段階ほど上がった。しかし、そこまでだった。
「自分みたいな人間にはくれぐれもなって欲しくない。理沙には本当にやりたいことをやって欲しいと思っている」
* * * *
エアギター男からも、その後同じようなことを言われた。
店が始まる前の午後の時間に久しぶりに彼と会い、繁華街を歩きながらどうでもいいようなとりとめもない会話をして、
夕方、東京湾が良く見えるラウンジに入り、飲み物を注文すると、今度は無言の時間が訪れた。
ようやくエアギター男は口を開いた。
「理沙」
理沙はうつむいたままで反応した。
「なんか、楽しそうに見えない」
「しょうがないでしょう」
2日前の閉店後、月間の成績発表の後の事が理沙の脳裏に残っていた。
親友が売上トップになり、晴れやかな表情の彼女を見ていても、なぜか理沙の心の中は晴れなかった。
理沙は拍手したが、古参のキャストの涼しい表情が気になっていた。
他のキャスト達は親友の売上トップを喜んでいる者、戸惑っているものと、明暗がはっきり分かれた。
「あたしは、お金を貯めて独立して、自分の店を持ちたいの」
この目標のために、自分をいつも奮い立たせて、今日までやってきた。
しかし、彼の方は理沙のその言い方に納得していないようだった。
「それだけ?」
その一言に、理沙は心の底の何かがはじけるのを感じた。
理沙は目を上げて、彼の事を見た。
「もっと違う返事が欲しい?」
彼からの反応はなかった。
そろそろ店に行かなくてはいけない時刻だったので、理沙は彼に別れを告げ一人で店を出た。
その夜は、店はいつも以上に大盛況で落ち着く暇がなかった。年末もそろそろ近いからだろうか。
親友の指名が異常に多く、一日の中での最高記録になるのではないかと思えるほどだった。
理沙も、特にあちこち馴染みの客に特別に連絡を入れていたわけではなかったのだが、親友と同じくらいに忙しかった。
閉店後に、疲れて控室で休んでいた親友のところに、古参のキャストが詰め寄り喧嘩が始まってしまった。
裏で手を回して客を無理やり集めて、自分たちの縄張りを荒そうとしているとの彼女たちの言い分にも、親友は涼しい表情。
ちょうどその場を通りかかった理沙は、彼女たちの仲裁に入ったが、理沙も喧嘩に巻き込まれた。
親友と2人でタクシーに乗り帰宅した。
「理沙、あたし絶対にのし上がってやるからね」
親友の顔には、さきほどの喧嘩でできた打撲と切り傷。理沙は丁寧にその傷の手当てをする。
しかしよく見ると、親友は目元が涙でにじんでいた。
「理沙だけだよ、あたしの気持ちが分かってくれるのは」
ひどい仕事環境で働いていた親友を、以前の店の店長は助け出し、店の中でトップの立場になるまで育て、
ママとして自分を支える存在になるまで見守っていた。そんな店長に親友は惹かれ、尊敬の気持ちと多少の恋心もあったことだろう。
だからこそ、裏切りというものは恐ろしい。天国から地獄に突き落とされて、親友の性格まで変えてしまった。
「あんな事さえなければ」
再びトップになるまでの間、店長に対する怨念ともいえるようなエネルギーが彼女を支え、動かしていた。
しかし、少し離れたところで見ている理沙は、彼女の気持ちを理解してはいるものの、心の中は冷めていた。
[本当にそれでいいの・・・?]
親友もまた、自分と同じく気持ちを押し殺しているように思えた。
* * * *
店の中は今まで以上にはっきりと2つのグループに分かれた。
古参のリーダーを支え、今までの勢力図を守ろうとする者たち。対して、親友と理沙を中心に勢力を拡大する者たち。
理沙はこのままでは親友の気持ちの暴走に歯止めがつかないと、彼女を見守り支える事にした。
親友は、再びお金の蓄えができたので、近々アパートを見つけて一人で暮らすと言った。
店でのトップになったものの、それだけで得られる金では説明がつかないようなグレードのアパートだったので、
なにかスポンサーがあるのだろうかとそれとなく探りを入れてみたが、親友から巧みに話をそらされた。
「それよりも」
親友は理沙に対して若社長との間の事を問い詰めてきた。
「あなたにとって大事な客だというのはわかるけど、何か気になるところがあって」
その日の夜も、理沙は若社長と席をともにした。
理沙は親友から言われた忠告をもとに、自分から話を切り出してみる事にした。
「あたし、そろそろ昼の仕事に専念してみようかと思ってる」
ほほぅ。。。。と、若社長は顔色を変えることなく反応していた。
しかし、声の調子で理沙には変化がはっきりとわかった。
「店で、何かあったんだね」
理沙は頷いた。
「わかるんだ?」
そして、昼の仕事のことや、その先に考えていることについて淡々と話した。
ひととおり話し終えると、若社長がさっそく反応した。
「何か、私に力になれる事があれば」
* * * *
2日後、若社長は再び店にやってきた。
先日店にやって来たときに、昼の仕事のことと、自分のスキルを伸ばしていきたいということを話したが、
歌うことで自分の夢に挑戦してみたい、というのが本心であることを伝えていた。
「この前言った曲、歌えそう?」
理沙は一人でステージに向かっていった。今日はほとんどのキャストが客と一緒に店外に行ってしまったので、
閉店近い時刻に残ったキャストは、理沙も含めて数人。
やがて曲が流れ始めた。「I write a song」である。
理沙一人だけのステージ貸し切り状態である。観客は若社長ただ一人。
今日もまた一気に歌い切り、席に座っている若社長は満足したように理沙の事を見つめていた。
閉店時刻になり、理沙だけが若社長を出口まで見送った。そして店の外でもしばらく彼の後姿を眺める。
理沙の夢を全面的に応援する、と若社長は言っていた。
どれだけ本気なのかはわからないが、彼の財力があればもしかしたら、という予感はあった。
とはいえ、もし彼が本気になって自分にのめり込んできたらどうなるだろう、
さらにはエアギター男から言われた一言も気になっていた。
[理沙、なんだか最近楽しそうに見えないね]