気持ちは止められない

「始末したよ」
親友のその言葉の意味を、理沙はすぐに理解することができなかった。
突然に店を1週間ほど休んで、再び店にやって来た時に、親友は理沙を控室に呼び出された。
「いったいどういうこと?」
「だから」親友は言った意味をなかなか理解できない理沙に再び言った。
「2人とも、始末したよ。それだけ」
開店時刻になり、2人はフロアに入る。
親友がいない1週間の間、キャスト達から漏れ聞こえてきたのは、彼女に対する不満ばかりだった。
ある日突然に店を1週間も空けてしまって、さらには、親友をいつも指名していた客には
事前に彼女から連絡があったのか、1人も店にやって来ることはなかった。他のキャストは彼女に腹を立てていた。
今日はさっそく彼女に対する醜い争いが起きるものと思っていたが、しかし、親友はいつも通りに堂々と振舞っていた。
なぜか他のキャストは彼女に対して異常なほどに気を遣っている。
理沙は気になって、他のキャストに何があったのかそれとなく尋ねたところ、わざと話をそらされてしまった。
「もうちょっと、何があったのか教えてくれない?」
閉店後、理沙は親友と2人だけになったところで、事の真相を聞き出すことにした。


「自分が脇が甘かったから、いけなかったんだと反省はしてるけど」
位置情報システムでも2人の行き先を探し出すことが出来ないのに、見つけ出すことができたのは
昔ながらのアナログな、人との繋がりで探し出すやり方だった。親友は客の中から情報屋と呼ばれる人物とコネを作り、
遠い場所で2人だけの生活を始めていた彼らを、ようやく探し出し、ある人物に2人の始末を依頼した。
「許せないことって、あるわけよ。死ぬほどの思いをして生活を確立したってのに」
「それって」
理沙は親友が淡々と話すのを遮った。「いきなり始末したってこと?」
親友は理沙の言ったことに小さく首を振っただけで、再び話しを続けた。
「真相は聞き出した。2人が裏で繋がっていたことを正直に白状してくれた。何もかも。そのあとで始末した」
プロの人間を雇った、まるでアクション映画のシーンのような光景が理沙の脳裏に浮かんだ。
自分のロジックだけで事を進めて、意に沿わない人物はあっさりと消し去る。血も涙もないというのはこういう事か。
彼女の話を聞き終えて、理沙はどう言葉をかけたらよいかわからなかった。
とりあえず肩を抱くことくらいしかできなかった。握りしめた手も異常なほどに冷たかった。


*     *     *     *

エアギター男と、約束の場所で待つ。
いったい突然に何事かと思った。唐突に彼は、ちょっとしたプレゼントがしたいと理沙に場所と時刻だけを指定して、
あとは当日のお楽しみだと伝え、それ以上の事は何も言わなかった。
駅前にライブハウスが何軒かある場所で、並んでいる人がちらほら。そして時刻通りに彼は現れた。
手招きしてとあるライブハウスに理沙を連れ込んだ。それほど大きくない場所だったが、
設備はきちんと揃っていて、なかなか雰囲気のいい場所だと思った。
既に観客が30人ほど入っていて、ステージではライブ演奏の準備が始まっていた。
観客席で理沙が待っていると、エアギター男が控室から出てきて、理沙の手を握り控室へと招いた。
「歌手に会えるわけ?」
理沙が控室でそわそわしていると、彼は首を振った。
「今日は理沙が主役だよ」
しばらくの間声が出なかった。状況がまったく理解できず一人で動揺している理沙。
やがてエアギター男の仲間らしい男が数人、控室に入ってきた。
「この娘がお前が言っていた歌手か、なかなかいい感じだね」
そして彼らは理沙に握手を求めてきた。
「大丈夫、俺たちがきちんとエスコートするから」
周りから勝手に盛り上げられて、理沙の不安な気持ちは高まるばかりだったが、
エアギター男含めた4人のバンドメンバーを見ているうちに、なぜかまんざらでもない気持ちに変わってきた。
「いつも店で歌っているように、それでいいんだよ」
エアギター男の最後の一押しで、理沙はようやく立ち上がった。


突然に会場に乗り込んでまるで借りてきた猫のような心境だったが、バンドメンバーともなぜか息が合い、
理沙は4曲を一気に歌い切った。盛り上がった客席が理沙の気持ちをさらに盛り上げていた。
控室に戻り、ステージに立つまでの理沙の後ろ向きな気持ちはすっかりどこかに行ってしまった。
気がつけば、理沙はバンドメンバー4人と抱き合っていた。
興奮した気持ちは、店の外に出た後も変わらないかった。今までの周りの世界が一変したように思える。
「なんか」
エアギター男と近くの駅まで歩く間、理沙はずっと上を見上げていた。
「やりたかった事って、こういうことなのかも」
「そんなもんだよ」
できないだろうと思って今まで心の中にずっと溜め込んでいたものだったが、
一人では無理でも二人だったらできそうな気がしてきた。


*     *     *     *

閉店後に、理沙は親友に言った。
「あたし、この店をやめようと思ってる」
今まで心の中でもやのように霞んでいた思いの事。エアギター男の誘いでライブハウスで歌ってその気持ちが晴れたこと。
親友は理沙の思いを静かに受け止めているように見えた。彼女はしばらく理沙の事を見つめていたが、やがて、
「わかった」
何か揉めそうな予感がしたが、あっさりと承諾されてしまった。
「あたしも理沙に話したいことが。今夜からアパートには戻らないよ」
今まで生活費の節約のために理沙の家に同居していたが、
知り合いのところで面倒を見てもらえることになったので、今夜から彼女は理沙の家に戻らないことになった。
その夜から、一人で寝る事になったが、なぜか様々な思いが頭の中で蠢いてその日はなかなか眠れなかった。


*     *     *     *

その後、理沙は昼の仕事に専念することを親友に告げ、正式に店を辞める日が決まった。
事務的に事が進み、理沙の最終出勤日には、馴染みの客が集まって理沙の門出を祝ってくれた。
閉店後、挨拶のつもりで控室にいる親友のところに行った。
親友は店の売上No1の立場を確実にしていた。彼女の思いはさらに先へと進んでいて、
まずは店のママになり、やがては自分の店を立ち上げるという夢を、理沙に熱く語った。
できれば理沙にも手伝ってもらいたいという思いがあったものの、2人の心のベクトルは既に別々の方向に向かっていた。
理沙は、そんな熱い気持ちの親友に、前店長の殺害の件を再び問いただした。
「いつかは罪を問われることになるんだよ」
自分の熱い気持ちを邪魔されたと、親友は急に表情を変えた。
「あたしは、用意周到にやっている。それに」
自分がどれだけ今まで苦労してきたのか、彼女は理沙と再会する前の地を這うような生活のことを再び持ち出した。
壮絶な体験を語り終えたところで、
「でも、あの人がいなかったら、今のあたしはなかった」
店を立ち上げて、年を偽ってママになり、売上を順調に伸ばしながらも夜の世界での抗争に巻き込まれ、
「危機感がいつの間にかあの人への思いを強くしてしまったんだろうね。だから、許せなかった」
「でも、殺す事ないでしょ。別な方法はあったでしょう?」
「理沙にはわからないよ。この気持ちは」
沈黙が続いた。
敵意の表情で見つめる親友に、理沙は身の危険を感じた。
しかし、親友はいつもの穏やかな表情に戻った。
「ごめんね理沙。あなたはあたしを救ってくれた人だからね」
そして彼女は立ち上がり、理沙を出口まで見送ってくれた。
店の前で親友は握手を求めてきた。理沙はためらわずに固く手を握った。
「ちょっと寂しくなるけど、理沙も頑張ってね」
理沙は無言のまま彼女に深く頭を下げ、駅の方に向かって歩き始める。
「理沙」
呼び止められて、理沙は振り返った。
「いつまでもずっと、あなたの事を見ているからね」
親友の口元の笑みに、理沙は不気味なものを感じたが、彼女に手を振ると前を向いて歩き始めた。


*     *     *     *

「こんな遅い時にごめんね」
妹からの電話だった。いつもはメッセージだけなのだが、何かあるのだろうとふと気になった。
「離婚が成立したみたい」
しばらくの間、親友のことと将来の夢の事で頭がいっぱいだったが、頭の片隅にあった不安が現実となった。
「わかった」
他には特に話すことはなかった。
理沙は父親側、妹の直子は母親側に引き取られることになっているが、
先の事は自分で決めることになるだろう。そう思うと身が引き締まる思いがしたが、
具体的に何をしたらいいかと言えば、理沙には思いつくものがなかった。


混沌とした気持ちで、駅に向かうのはやめて、海の見える公園を目指した。
海の見えるラウンジで、コーヒーを飲みながら東京湾を眺める。眼下の公園に集まる人だかりも気にならなかった。
やがて、港湾のサイレンが鳴り、この時刻に鳴るのは珍しいなと、ようやくそこで公園の人々に気づいた。
東京湾の中央の人工島を眺めて、何かが始まるようなことを言っていた。
理沙は席を立ち上がって眼下の公園に降りていった。
いつも見慣れている東京湾中央の人工島、今日はなぜかいつも以上に工事用のライトが輝いている。
するとその中央、光の中心からまばゆいばかりの光の筋が立ち上っていった。
背後からさらに人が集まってきた。
深夜の時間にもかかわらず、その光景を見るために人が集まり、歓声があがった。
すぐ前の男女が見ているニュース映像から、極超音速旅客機の最初のフライトだということを理沙は知った。
光の筋はやがて雲の中に消えて見えなくなり、人だかりは徐々に散開していった。
当面の生活の不安、親友からの意味深な言葉、妹からの言葉が頭の中で混沌とした状態になっていた。
とはいえ、とりあえず今は前に進むしかない。理沙はそう思った。



「サンプル版ストーリー」メニューへ