夜空を見上げるマリア

うだるような暑い日に、彼女は街中を歩いていた。
今日は仕事のシフトが入っていない日だったので、午前中から家を出て街中に向かう電車に乗り、
昼近くには街中を歩いていた。
特にどこに行くという目的はなく、まわりには沢山の人が溢れていたが、
なぜか自分だけが疎外感のような、孤独な気持ちを感じていた。
マリア、彼女はそのような名前で呼ばれているが、自分の本当の名前は知らない。
育ての親のような人はいるが、両親という存在はなく、
施設で衣食住に不自由することはなかったが、物心ついたときには自分は一人で、
まわりの世界を眺めてカップルや家族連れが歩いているのを見かけると、
自分が他人と異なる境遇にあるのを実感した。
よろよろと歩いている目の前の男が、道端に座り込んでしまったのをマリアは少し離れたところから眺めていた。


マリアがまだ幼いころ、自分が他の人と違う理由について、施設の世話役の女性に尋ねたことがあった。
両親や家族の事、兄弟姉妹のことについて尋ねてみた。
世話役の女性はただ一言。
「あなたには、いないの」
そのことについて寂しいとか悲しいということは、なぜか感じなかった。
悲しいという感覚がないというわけではない。
自然あふれる施設のまわりの環境で、世話役の女性は様々なことを教えてくれた。
楽しい事、悲しい事、達成感と、時には争いや、規律正しさを自然の中ですべて学んだ。
ある意味、世話役の女性は母親でもあり、父親でもあった。
いろいろな感性を3年間の中で学んだ後、別れは突然にやってきた。
世話役の女性が突然に失踪し施設は閉鎖された。
マリアは別な施設で生活することになったが、それまでとは大きく生活環境が変化した。
感性あふれる生活はなく、単調な毎日。
以前の世話役のような人物もいない、単なる無機質な空間。
世話役の女性との3年間の生活がなければ、果たしてその後彼女は生き続けていただろうか。


マリアは、喫茶店の風通しのいいベランダ席に座った。
毎週彼女はこの店に来ると、同じこの位置に座り、席から街の風景を見渡していた。
バッグの中からメモを取り出し、コーヒーを飲みながらぼんやりと考える。
遠くの風景を眺め、メモに何かを書き始める。
2時間ほど、食事をしながら書いたメモは2枚ほど。
そのあと彼女は店を出た。
さきほどのよろよろ歩いている男の事がなぜか思い出され、駅に戻る途中にその場所に立ち寄ると、
男はまだその場にいたが、路上に横たわっていて、表情には生気がなかった。
しかし、まわりの人々は全く気に留めていない。
彼女は近くにいた警官に声をかけて男のもとに再び戻ったが、警官は彼の事を一目見ただけで諦めた。


*     *     *     *

マリアは、ある日突然に解雇された。
働いている店が、経営不振で営業を中止せざるを得なくなり、
店長からの詳しい説明もなく、店の前に貼り出された一枚の紙でそのことを知った。
彼女はすぐに職探しを始めた。
食事は自治体の困窮者向けの炊き出しを利用し、多少の蓄えはあったので住んでいるアパートには引き続き住めそうだった。
とはいえ、1か月以内には蓄えもなくなるので、職業安定所に通い、
幸いにも今までと同じような職種にありつくことができた。
生死の境をあやうく生きているような状況にあったが、なぜかマリアはそれほどに深刻には考えていなかった。
雨風をしのげる場所があって、食事ができて、自分の気に入った服をいくつか着回ししていれば他に必要なものはない。
家の中は必要最低限の家具があるだけだった。
何もやることがなければ外を歩き回るだけでいい。
いつも彼女は、メモ一つ持って歩き回っていた。
都会は幼いころを過ごした自然あふれる場所ではなかったが、
いつの間にか始めた身の回りの世界の観察で、気づいたことはすぐにメモしていた。
歩く人々のちょっとした仕草や、会話、自然環境を観察する中で身についた、
観察力と心の中で感じる鋭い感性、言葉に変換する表現力。
メモはいつの間にか数十冊の量になっていた。マリアにとっての唯一の財産だった。


*     *     *     *

施設から出て、自治体からの補助金で学校に通っていた時期もあった。
成績は可もなく不可もなく、特にクラスの中で目立った存在でもなく、
かといって一人孤独の存在でもなく、
家族環境の問題で日々の生活に困っている生徒は珍しくなく、マリアはごく普通の学生生活を送っていた。
友人と呼べる人物が数人、彼女は友人とごく普通につき合い、放課後の時間を楽しく過ごし、
学校を卒業した今でも時々会うことはあった。
生徒の中には、生活苦から犯罪すれすれの行動に手を出す者もいたが、
マリアはそのような行動には出なかった。
昔施設にいた頃、世話役の女性が何気なく言っていたことがいつも彼女の行動を制御していた。
[知らない人についていったり、悪い事に手を出したらダメだよ]
そう話す世話役の女性の毅然とした態度には、子供ながらに恐怖を感じることもあった。
今になって考えてみると、彼女は自分の経験から言ったことなのだろうと思えてくる。


ドラッグストアでの仕事が見つかり、マリアは週に4日その店で働くことになり、
今までの生活を続けることができて彼女はひとまず安心した。
仕事はすぐに覚え、他の店員の中にすぐに溶け込むことができた。
店員はみな同年代がほとんどで、働きながら勉強する学生や、
生活を維持するために他の仕事も掛け持ちだったりと、生活環境は様々だった。
店の外での付き合いはお互いに少なく、店が終わるとすぐにマリアは街中を散策して帰宅した。
夜の渋谷の街は人で溢れていた。様々な人種が混ざりあい、様々な言語が飛び交う世界だった。
今まで見慣れてきた街中と、人の層も異なっていた。
老若男女、それぞれの身なりで身分も様々。
空を見上げると、狭い場所に高層ビルが集中し、光り輝いていた。
以前の街中ではせいぜい10階建て程度だったが、ここでは200メートル以上のビルが6つほど。
スクランブル交差点で人々がすれ違う中に入るのは、非常に不思議な感覚がした。
四方八方から人が中心に向かい、混ざりあい、そのまま各々の目的地へと流れてゆく、
密集した場所で衝突が起きるのではないかとマリアは時々思ったりもしたが、
そんなアクシデントもないのを不思議に思った。
ビルに昇って屋上から眼下の街を眺め、東京の街全体を眺めた。
どこまでも続く光の海のように見える。


*     *     *     *

店で働き始めて3週間ほどになる頃、ふと同僚の男が言った。
「帰る方向が同じなんだね、一緒に帰ろう」
降りる駅は、彼の方が2つほど先なので、マリアの方が先に電車を降りた。
乗っている時間はせいぜい10分ほどなので、2人は店での仕事の不安、店長のちょっとした癖について話した。
仕事をネタにした会話はすぐに終わり、徐々にお互いの家での過ごし方や、休日の過ごし方、趣味に移っていった。
彼は、マリアが事あるごとに取り出して何かを書いているメモに気づいていた。
「大したものじゃないけど」
特に恥ずかしがるということもなく、彼女はメモを彼の前に広げた。
開いたメモを見るなり、うわ。。。。と彼は声をあげた。
彼女は言葉の断片をかき集めているだけにすぎないと思っていたが、
彼はよっぽど新鮮に思えたのか、食い入るように見続けていた。
「すごい詩を書くんだね」
「詩ってほどでもないけど、ちょっと思いつくことがあったら、忘れないように」
その日から彼は、彼女が今日書いたメモを帰宅時に見せてもらうのが日課になった。
マリアも、自分のためだけに書いているメモに、彼が興味を持ってくれたことが嬉しかった。


*     *     *     *

その日もいつものように店に出勤すると、シフトの予定のはずの彼の姿がなかった。
それとなく同僚に尋ねると、
「あなた知らないの?」
いいえ、とマリアが首を振ると、同僚は自分の端末を開いてニュース記事を彼女に見せた。
書かれている内容を見て、マリアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
ちょうどその時に店長が控室に入ってきた。
店員皆がいつものように店長の前に集まると、店長は言った。
「皆さんも知っていると思いますが、彼は家庭の事情で今日から出勤することができなくなりました」
出勤することができない?家庭の事情?いやそれどころか彼はもうこの世にはいない。
店長の含みのある言い方に、マリアは疑問というか怒りに近い気持ちを感じたが、店員皆特に何も言わなかった。
いつものように仕事が始まり、仕事の休み時間にはいつもと同じような他愛のない会話が交わされ、
終業時刻になると皆いつものように帰宅していった。
彼女の心の中の奥底にある大きな違和感が、その日突然に炸裂した。
表面上は平和で、日々の生活苦はあるものの、なんとか生きていけるこの世界。
しかし、常に危険と隣り合わせの世界であることは、否定することができない事実だった。
ただその不都合な事実を、できるだけ考えないようにして、その日を平穏に暮らす。
徐々に流されてゆく船のように、緩やかではあるが、確実に破滅へと向かっていた。
マリアがその日に書いたメモには、目の前に口を開いた、どす黒い世界が殴り書きされていた。


*     *     *     *

悶々とした数日間を、仕事をしながら過ごし、
もしかしたら徐々に仲良くなっていったであろう彼の事を、マリアは非常に不憫に思った。
とはいえ、もうどうにもできない。頭の中はからっぽで、手だけが機械的に動いていた。
夜空を見上げ、まわりの喧騒も耳に入らない。
マリアはスクランブル交差点の中で立ち止まり、人の流れの中でふと一人考え事をしていた。
もしかしたらこのまま自分の命も終わってしまうのではないか、
彼のようにあっけなく。


そこでまわりの歓声にようやく気づき、彼女は周りを見渡した。
スクランブル交差点は人でいっぱいに埋まっていた。
皆同じ方向を眺め、ある者は歓声をあげ、ある者は拍手している。
今まで単なる窓の明かりがランダムに並んでいるだけと思っていた目の前のビル。
そのビル全体が、今日は巨大な映像スクリーンのようになって光り輝いていた。
[渋谷ウォールスクリーンが、ただいま点灯しました]
アナウンスの声が頭上から流れてきた。
空には、ヘリが3機ほど飛んでいて、次々に変化する映像をニュース映像として中継していた。
様々な光る模様、リアルな自然の風景。
目の前で見ているものが、マリアの心の中に直接飛び込んできて、感性を揺さぶった。
この日のために用意されていたと思われる、非現実的な世界の映像に、まわりの人々のテンションがさらに上がる。
なぜかマリアだけは、その騒動の中にあって冷ややかな目でその映像を見ていた。
映像が消えた。
もうこれで終わりかと思えたところ、マリアは自分だけ一人交差点の真ん中に立っている感覚になった。
空から地上を見下ろしている一人の歌手が、マリアと目が合った。


視点が入れ替わり、マリア自身が空から地上を見下ろしていた。
空中のステージ上に一人で立ち、スポットライトを浴びて皆の注目を浴びていた。
彼女は何をしたらいいのか全くわからなかったが、徐々に心の整理がついてくると、静かに歌い始めた。
街中に流れている様々な音楽や、歌手の声が、なぜか自分の持ち歌のようであるかのように錯覚した。
歌詞も、今まで書き溜めていたメモの内容が、洪水のように頭の中に溢れている。
あとは自分の気持ちに従って、歌い続けるだけだった。
不思議な感覚はしばらく続き、声の調子が歌えば歌う程良くなっていった。


はっと我に返り、マリアは元の世界に戻った。
ビルの壁面では、女性歌手が光り輝く衣装で空中を舞いながら歌っていた。



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