鏡の中のもう一人の自分

ステージの準備は完了していた。
あとはマリアが登場するだけ。
マリアの女性マネージャーは、ステージを見渡すことができるコントロール室から、
4万人の観客を見下ろし、あと10分後の光景について想像した。
改装工事の完了した、東京ドーム球場の完成お披露目にふさわしい、
というよりも世界で初めてのステージ設備の威力は果たしてどのようなものか。
3日前のリハーサル時に、彼女はステージ設備の稼働確認に立ち合っていた。
グラウンドの中央にステージが設営され、四方からマリアの歌う姿を見る事ができるようになってはいるが、
ステージの四方八方上下からマリアの姿を撮影し、リアルタイムで空中に投影するのはおそらく世界では初めての事。
事務所の社長も投影テストを見守っていた。
保安上の理由と、そうでなくても常に多忙なマリアのスケジュールの都合がつかず、
投影テストには似たような体型のモデルがマリアの代わりにステージ上に立つことになった。


歌う予定の曲が流れ始め、あらかじめ録音されたマリアの声で歌い始める。
しかし、ステージ上のモデルは、衣装はマリアの着る予定の衣装だが、
モデルは口パクで歌真似をしていた。
「プロジェクター投影開始」
歌をいったん中断し、ステージ中央にモデルが立つ。
プロジェクターが作動すると、ステージを注視している皆が歓声をあげた。
モデルの立っている上方、10メートルほどのところに、モデルの姿が浮いている。
身長は5メートルほど。
空中にレーザー光を放ち、干渉する光の点を上空に多数表示させ、
多数の光の点が集まり立体を表示させる。
モデルがそのまま上空に浮遊しているのではないかと、見間違えるほどの光景だった。
「ステージ上でちょっと踊ってみてください」
監督の指示に従いモデルが踊ると、リアルタイムで上空の映像も踊った。
映像の表示品質と、動きに問題ないことを確認すると、マリアの曲が再び流れ始めた。
モデルがステージ上で歌真似を続けると、上空の映像も同じように歌い、踊った。


マネージャーはリハーサル時の光景を思い出しながら、マリア本人が歌い踊る姿に4万人が歓喜するところを想像した。
今日のステージが成功したら、間違いなく伝説になるだろうと彼女は確信した。


*     *     *     *

理沙とマリアが2人だけ。お忍びでの飲み会である。
「こんな店、久しぶり」
理沙は上品な装飾のバーのカウンター席と、背後に並んだボトルを眺めていた。
「でも、当時はキャストで働いていたの」
1年少々前の事ではあるが、ここ1年の慌ただしさでもう5年も昔の事のように思えた。
理沙はマリアに当時の写真を見せた。
「綺麗ね」
当時店のママだった友人と並んで撮った写真だが、もう当時に戻るつもりはなかった。
しばらくの間、理沙が夜の街で働いていた時の話題が続いた。
マリアは、昔を振り返りながら言った。
「あたしは、その頃路頭に迷っていた」
生きてきた世界が全く異なる2人が、ある日オーディション会場で会った。
その後、2人の歩んだ道のりは、お互いに比較にならないほどの明暗の差となった。
「やっと落ち着いて話せるよ。理沙とはいつか面と向かって話がしたかった」
「あたしと?」
呼び出されたのはつい3時間ほど前。
ちょっと時間があるのでゆっくりと話がしたいとのマリアからの電話。
いつもはメッセージのみでの会話で、多忙な時間の合間にちょっと断片的に話す程度だった。
「理沙の事が羨ましい」
突然の彼女の一言に、理沙は拍子抜けした。
なんと返答したらいいかわからない。「あたしの事が?」
マリアは小さく頷いた。
「あたしと違って、自由な気持ちで歌っている」
オーディション会場で他のメンバーを圧倒し、歌うマリアの姿に理沙は全くレベルが違うと思った。
事務所の力も手伝って、その後はじわじわと人気を伸ばして、
たったの1年で誰も手の届かない高いところに立っていた。
「冗談でしょ、マリアらしくないよ。そんな事言うなんてどうかしてる」


*     *     *     *

控室でうつむいているマリア。開始時間が迫っているが、スタッフが何度呼んでも反応しなかった。
彼女は目を閉じて、待った。
いつもであれば気持ちが徐々に高まってきて、迷うことなくすらすらと言葉が出てきて、
曲を作ったり、収録スタジオで歌ったり、ステージで歌ったりできるのだが、
今日に限ってなぜか気持ちの高揚感がない。
自信がこれほどまでないという事態は、初めてだった。
いつものように歌えばいいんだよ。そんな言葉を自分にかけても、かえって気持ちが委縮してしまう。
[あたしは、誰かに歌わされているような気がするの]
つい先日、理沙と2人だけでバーで飲んだ時、マリアは初めて弱音を吐いた。
[渋谷で初めて歌手が歌う映像を見て、その歌手があたしに乗り移ったのかも]
今までは、自分の気持ちのままに歌うだけで、事は済んでいた。
自分は何でもできる。言葉がすらすらと口から出てきて、頭の中に浮かんだイメージ通りに体を動かせばいい。
しかし、それは彼女の錯覚だった。
[理沙はいいよね。自分の意志で思ったように動けるから]
今までに感じたことがないような脱力感。
もうだめだと思った。今まで1年間使っていた魔法が使い物にならなくなり、
1年前の自分に戻ってしまったのか。
目の前からはっきりと声が聞こえた。
「ねぇ、どうかしたの?」


マリアがふと目を上げると、ステージ衣装を着たマリアが座っていた。
「いつものあなたらしくないね」
鏡の向こう側のマリアが、自分に語りかけてきた。
ステージ上でいつも見ている、トーク番組で楽しく会話している、そのマリアが自分のことを見つめている。
「この大事な日に、自信がないとはね」
でも、できない。
語りかけられてさらに気持ちが委縮してしまった。
ようやく聞こえるような声で、マリアは、
「今日はその気になれないの」
そうなんだ。。。と、鏡の向こう側のマリアは、ちょっと困ったような表情になった。
「まぁ、今までが慌ただしかったから、ちょっと息抜きしたい気持ちも、わかる」
腕組みして、困っているようにちょっと首をかしげていたが、
それでも鏡の向こうのマリアは、この場をどうにかしなければと一生懸命に考えているように見えた。
「でも、今日だけ。お願いだからちょっとだけ頑張ってみよう」
「無理」
そしてマリアは再びうつむいた。自然と涙が流れ止める事が出来ない。
「わかった」
鏡の向こう側のマリアが、ゆっくりと説得するような調子で語りかけてきた。
「今日は、あたしが歌う」
えっ。。。?
マリアは再び鏡を見つめた。
腕を組んで、いつものように自信に溢れたマリアがそこにいた。
「とりあえず、なにも考えずにステージに立って」
そして鏡の向こうのマリアは立ち上がった。
「さぁ、行きましょう」
鏡の向こう側のマリアが、控室のドアを開けた。
あわててマリアは追いかける。
突然に控室のドアが開き、待ちくたびれたスタッフは慌ててマリアの後を追いかけた。


*     *     *     *

その日も理沙はステージに立っていた。
収納人数が50人ほどのライブ会場だが、今日は満員だった。
「あたしには歌いたかった曲があります」
静まり返った場内に、バラード調の曲が流れ始めた。
マリアの才能を思い、自分には絶対に無理だろうと思い悩んだある日、
ふと思い浮かんだ言葉を、理沙はメモに書き留めた。
素直な気持ちで書いたその詩は、非常にシンプルで心にすんなりと浸み込むような言葉だった。
マリアと2人だけで飲んだ日、理沙はそのメモをマリアにも渡していた。


マリアがステージに登場すると。4万人の観衆からどよめきが起きた。
5分程度の開始遅れで済んでよかった、とマネージャーは思った。
曲が始まり、その後はいつも通り流れるようにマリアは歌った。
いったいあの時間に何があったのかとマネージャーは不思議に思った。
ステージ最高潮のところで、プロジェクター投影が始まると、観衆皆が上空を見上げる。
歓声というかどよめきというか、見たことがないものを初めて見て、どう反応したらよいか皆迷っているようにも見える。
ステージ上、上空のマリアはライブ最高潮のところで一区切りつけると、観客に語りかけた。
「1年前に、渋谷の街で空を見上げた時のことは、今でも覚えています」
当時、空から見下ろしていた歌手が、今のマリアの姿に重なっていた。
「あの時の夢が、今日実現しました。でも、」
そこでマリアは、バックバンドのメンバーを振り返り、リーダーに目で合図をした。
「あたしは今日、自分が本当に歌いたい曲を歌います」



「サンプル版ストーリー」メニューへ