最初で最後の

モニター越しにマリアのその表情を見ながら、マネージャーはふと思った。
予定にない、何かとんでもない事をするのではないかと。
[・・・・・自分が本当に歌いたい曲を歌います・・・・・]
同じような事を、マネージャーは以前彼女から聞いていたのを思い出した。
その時、彼女の事を傍から眺めながら、曲の作成で煮詰まっていて非常に思い悩んでいるように見えた。
「何か起こるかもしれない。注意して」
舞台下の、観客席に一番近い場所にいる保安スタッフに、マネージャーは指示をした。
「もし、ステージになだれこんで来たら、マリアの身の安全を最優先に」
最悪の事態になった場合には、演奏を強制的に中断して、ステージを閉鎖することまで考えていた。
マリアは、ステージ中央に立ったままで、まだ歌おうとしない。
観客はいつ歌うのか待っている状態だったが、徐々に彼女が歌わない事にじれったさを感じ、ざわめきも起きていた。
「早く歌うように、指示をしてくれないか」
歴史的なコンサートになる事を期待して、事務所の社長も駆けつけてきたのだが、
なかなか歌おうとしないマリアに、苛立ちが高まってきていた。
マネージャーは、あともう少し待ちましょうと社長をなだめた。
その時ちょうど、ギターソロの曲が始まった。
その曲を聴いて、マネージャーは背中に冷たいものが滴り落ちるのを感じた。


*     *     *     *

マリアが歌っている、東京ドームアリーナからほんの10キロほど離れた小さなライブハウスで、
理沙は50人ほどの観客を前にして歌っていた。
規模としてはまったく比べ物にならないほどだが、そんな事は無関係。
今日の理沙は今までになく非常にノリがよく、最高の調子だった。
自分が歌いたい曲を歌えばいいのだ。
そしてマリアと理沙は、ほぼ同時刻に同じ曲を歌っていた。
マリアのような純粋で洗練された詩と、心を揺さぶるような曲ではないが、自分らしい曲を。
一言で言えば、[キャッチーなメロディーラインで曲は最高、でも歌詞は下品で最低]といったところか。
でも、上等じゃないか。
2人だけで飲んだ時に、理沙はマリアに1枚のメモを渡した。
タイトルは、[他人の不幸は蜜の味]
歌詞の内容は、そのタイトル通りにネガティブなものだが、理沙がその歌詞を書いた意図は全く別なところにあった。
「あたしは他の人とは違うんだと。不幸な人を慰めていったい何になるのか」
汚い言葉で罵るような言い方ではあるけれども、実は心の底では相手を励ましたい。
うじうじと暗い気持ちで過ごして何になるんだ。背筋をのばしてさっさと歩くんだ。
歌詞には、理沙の本音が溢れかえっていた。
そして、まだ出来たばかりの音源を、マリアの携帯に送った。
バンドのメンバーに知られたら、無断で送ったことを咎められるかもしれない。
ほぼ同時刻に、マリアが歌っている事は知らずに、理沙は自分の本音を観客に向けた。
そして曲の最後、右腕を高く上げて観客にマイクを向けた。
他人の不幸?最高じゃないか。


その同じ時刻、マリアもまた観客に向かって声をかけ、会場はどよめいた。
今までのマリアとは違ったその姿に、マネージャーはしばらくの間放心状態でただ見つめているだけだった。


*     *     *     *

ステージから控室に戻ってきたバンドメンバー、少し遅れてマリアが控室に入ってきた。
彼女が戻ってくることを予想して、マネージャーは控室で待っていた。
「お疲れ様」
いつもと変わらない口調でマネージャーはバンドメンバー、そしてマリアに声をかけた。
マリアは、彼女と視線を合わせる事はせず、少々うつむいて、
「ごめんなさい」と小さな声で言った。
「あれはちょっと内緒で、サプライズでやってみたいと思ったから」
当初予定の楽曲にない曲を歌って、スタッフルーム内は混乱したが、観客はそんな事は知る由もない。
混乱を避けるために保安スタッフの動員まで考えたが、会場は盛り上がりその必要はないと判断した。
それどころか、何も知らない事務所の社長からマネージャーは、
[この曲、彼女が作曲したの?]
と、問いかけられたのだが、ええ、と彼女は曖昧な返事しかできなかった。
「あの曲、もしかして理沙さんの曲?」
マネージャーからの問いかけに、マリアは小さく頷いた。
それ以上、マネージャーはマリアを咎める事はせずに、次の曲も頑張ってと彼女をねぎらった。
会場からはアンコールの声が高まっていた。
次の曲が今日のコンサート最後の曲。
何を歌うのかは事前に決まっていた。今日が初披露の曲である。
シングルもまだ一般にはオンエアされていない。
スタッフ公認の、観客に対してのサプライズの曲である。
「そろそろ行こうか」
ギター担当のリーダーが立ち上がると、バンドメンバーそしてマリアが立ち上がる。
「じゃ、みんな最後の曲頑張って」
みんなでファイト、とマリアは威勢のいいおたけびをあげ、メンバーはステージに向かう。
ドアから出ていく直前、マリアはマネージャーの方に振り返り、小さく手を振った。
マネージャーも手を振った。
明日にでも、理沙という歌手にコンタクトしてみるかとマネージャーは思った。


*     *     *     *

いつも口ずさんでいたフレーズがあった。
無意識に、つい口ずさんでいたそのフレーズは、マリアは幼いころからのものだったと記憶している。
家庭環境に恵まれず、壮絶な幼少期を過ごしていたマリアにとって、当時の記憶は黒歴史のようなもので、
しかし、そんな生活の中で一点希望の光のようになっていたのは、歌う事だった。
といっても、歌詞のついた歌といったものではなく、単に意味もなく無意識に口ずさんでいたといった方が正しい。
やがて成長し思春期になり、徐々に友人関係もできたので、過酷な家庭環境からの逃避するために
友人との楽しい時間を過ごすことが多くなってきた。
その反面、幼少期の希望の光のようになっていた、歌を無意識に口ずさむということはなくなり、
渋谷スクランブルスクエアで見た、見上げる巨大スクリーン上で歌い踊る歌手の事を見てから、
マリアは再び作詞作曲活動に没頭することになった。
作りためた歌詞は、今までの過酷な家庭環境で抑圧されてきた気持ちのはけ口となり、
面白いほどに次々に歌詞を思いついては書き、書き溜めた歌詞は長いもの短いものすべて含めて膨大な量になった。
歌手発掘オーディションには、今までに作った中の一曲で臨んだのだが、
全身から溢れるような純粋さが審査員の目に留まり、メジャーデビューに向けてバックバンドもつき、
バックバンドのリーダーの力も借りて、
過去に作った膨大な歌詞に曲をつける作業が進められた。淡々と機械的に。
出来上がった曲をマリアが歌い、曲はヒットした。そして同じようなメロディーラインの曲が次々に生まれる。
殺伐として乾ききった世の中に、ちょうどうまいぐあいに当てはまりヒットしたマリアの曲だったが、
曲が売れれば売れるほど、なぜかマリアの心の中には違和感があり、次第に大きくなるばかりだった。
精神的に疲れ切った状態が続いたある日、帰宅してベッドに横になり天井を眺めていたところ、
意識もうろうとした状態で、頭の中にあのフレーズが蘇ってきた。
無意識に、自然と口ずさんでしまうあのフレーズ。
よろよろとベッドから起き上がり、窓を開けてベランダに出る。
秋の夜風が非常に気持ちがいい。
配下の夜の街を眺めながら、あのフレーズを口ずさんでいると、なぜか疲れが癒されて行くような気がした。


マリアは再びステージに立った。
会場の観客に向かって思いっきり手を振り、どよめきが徐々に静まっていくのを待った。
「今日の最後の曲になります。本邦初公開になります」
再び会場がどよめいた。
La-Li-La、力強い声でマリアはアカペラで声を上げた。
バンドメンバーは、手拍子を始めた。そして再び、La-Li-La。
マリアもまた手拍子を始めると、徐々に観客の間からも手拍子が始まった。
会場全体が手拍子でマリアの声に応える。そんな掛け合いがしばらく続き、バックバンドの演奏が始まった。
[La-Li-La、悲しい事があっても]



「サンプル版ストーリー」メニューへ