生活の基盤

ロサンゼルス郊外の、観光地とも言えない、南国風の街並みの市街地で理沙の生活は始まった。
安いホテルでの生活は数日限りにして、その数日間でまずは自分が生活するための場所を探した。
多少の不自由はあっても、とにかく最低限の生活ができればいいと割り切り、アパートを探したところ何軒か見つかった。
人種差別の現実を感じる事もあれば、店員がいやらしい視線を向けてくることもあった。
昼間の穏やかな風景は夜になると一変して、街のあちこちで犯罪の兆候を目にすることがあった。
理沙がこの街に来てはじめて買った物、それは護身用のコンパクトな銃と防犯用の武器だった。
ワンルームの小さなアパートを契約することができたのは、街に到着して6日目のことだった。


*     *     *     *

部屋の中にベッドとちょっとした家具を置いただけで、居場所はほとんどなかった。
とりあえずはベッドに横になり、安いホテルでの生活から解放されただけでも気分が落ち着いた。
東京に住んでいた頃、昼と夜の仕事で溜め込んだ貯金は、ライブハウスで歌っていた頃にはかなり減ってしまい、
飛行機の旅券は、できるだけ安いものを選んだものの、残りの貯金は一気に半減。
1週間のホテルでの生活、アパートの契約金、ちょっとした家具を買っただけでもう残りは少なくなっていた。
次に考えるべき事は仕事だった。
事務の仕事から、商店街の店員や、いくつか探し出して面接に行ったものの、
誰でもできるような仕事は、給料が安く、できるだけ高い仕事を探してみれば、不可解な理由でなぜか不採用。
その後の1か月間は、アルバイト的な仕事を3つほど掛け持ちして過ごすことになった。


朝から晩まで働いて、疲れ果てて帰宅して、ちょっと食事をしてあとは寝るだけ。
それでも気持ちはなぜか軽かった。朝の少々ひんやりした空気は身が引き締まり、
明るい雰囲気の街並みは、東京での密集した街並みに見慣れている理沙にとっては非常に新鮮に見えた。
ちょっとした裏通りも、常に綺麗に清掃されている。
自主的に清掃する人々は、なぜか表情は爽やか、目が合った彼らと、理沙はいつのまにか毎日挨拶を交わすようになった。
働いている店には、自分と似たような生活苦の若者や、海外からの移住者が多かったのですぐに気が合った。
中南米からやってきた理沙と年が同じ女性と、お互いにはじめての友人になった。
「あなたも仕事掛け持ちしているの?」
彼女に尋ねてみると、今働いている店以外に、もう一つ職場を掛け持ちしていた。
会話をしているうちに、彼女にはまだ1歳になったばかりの子供がいることがわかった。子供のために彼女は日々頑張っていた。
しかし、子供の父親のことについては、彼女は会話の中で一切触れようとしない。
何か理由があってここに逃げてきたのだろうか。理沙はそう思った。


*     *     *     *

シングルマザーの彼女は、週に3日ほど、地元の交通管制センターで働いていた。
夜の時間帯の方が給料はよく、仕事は完全にマニュアル化されているので、やる気があれば誰でもできる、
あなたもやってみない?と言われ、理沙は交通管制センターの面接を受けてみる事にした。
今までの面接のことが頭の中に残っていて、また何やらイヤなことを言われるのだろうかと思ったが、
オフィスでの面接は、非常に事務的で、面接のあとには簡単な適正テストが行われただけで、
理沙はあっさりと採用されることになった。
誰にでもできるのであれば、給料もそこそこのこの仕事になぜ人気がないのか、理由は働き始めた初日にわかった。
オペレーター室の雰囲気は、生気がなく、人間は機械の一部のように働くことを要求されていた。
しかし、理沙は東京の昼間の仕事での経験から、システムの操作に慣れていたので機械的な対応や、
技術的専門用語の洪水の中でも、なんとか対応することができた。
夜の時間帯にシフトで働く仲間たちとは、勤務時間内で2回だけの休憩時間に少々会話する程度。
シングルマザーの母親とは、シフトの時間の違いでセンターで会うことはほとんどなかった。
昼の仕事で会った時に、シングルマザーの母親は言った。
「わかったでしょ、あの仕事はみんながやりたがるようなものじゃない」
しかし理沙は、
「そうかしら?案外自分の性に合っているかも」


暗い部屋の中で、目の前にあるモニター画面を見ながらシステムの状況確認をするのが主な仕事だが、
特に問題が無ければ、一日中なにもせずに終わることもある。
システムは完全に自動化されており、時々発生する事故に対しても、システムは警察やレスキューの手配を行い、
交通整理まで行うことが可能だった。
オペレーターの手が必要なのは、システム自体のトラブル時だった。どんなに精巧なシステムでも不具合が発生した時は、
補修のために誰かが動かなくてはいけない。
[ノード4041に障害発生]
モニター画面にシステム障害表示が現れた。
システムの部分的な障害に対しては、別なノードが作業を引継ぎ、故障ノードの修理に作業員が向かう。
「ノード4041、確認。4039に切り替わりを確認」
理沙はマニュアルに従い、故障の状況を目視で確認する。
目の前のモニター表示から、作業員の状況を目で追った。
「ノード4041の対応をお願いします」
なかなかステータスが対応中に変化しないので、理沙は作業員へ直接コールをかけた。
「ノード4041の対応状況お願いします」
「こちら西04ステーション、これから向かいます」
呼吸が少々荒いように思えた。画面で表情が見えないのでわからないが、サボっていたのか。
「よろしくお願いします」
それ以上のことは推測せずに、機械的な口調で理沙は対応する。
ステータスがようやく対応中に変化したのは、その10分後だった。
その間にまた同じようなトラブルが発生したら、いったいどうなっていたのだろう。


*     *     *     *

やがて理沙の生活は、昼と夜が逆転する生活に変化していた。
夜の仕事をしていた時には、昼夜逆転は当たりだったのでそれほどの違和感はなかった。
しかし、センターから出て、朝の風景を見ながら、自分とは反対に颯爽と職場に向かう会社員を見ているうちに、
理沙の気持ちの中には違和感が生じてきた。
颯爽と歩いている自分が、今では目の前を颯爽と歩いていた。
ほんの2駅ほどだが、乗り込んだ地下鉄の中で、目の前に立っている女性のことを理沙は眺めていた。
サングラスをかけた、ワンピース姿の女性。
脇には少々大きめのバッグ。空中の一点を見つめていて微動だにしない。
理沙はTシャツとジーンズの普段着。
たぶん彼女は郊外の高級住宅地で、優雅な生活をしているのだろう。朝は普通に起床して、朝食をのんびり食べて、
定時から定時までの仕事をして、夜は優雅に夕食を食べて眠りにつくのだろうか。


*     *     *     *

東京にはなかった、解放感のようなものがこの地にはあった。
理沙はまだまだ生活の基盤もなく、いつ職を失うかもわからない、路頭に迷う危険もあったが、
どんよりとした、東京の救いようのない閉塞感よりはまだよかった。
マリアと2人だけで飲んだ時に彼女から聞いた、救いようのないどんよりとした空気のことを、理沙は改めて思い出した。
どんよりとした閉塞感の中、皆が苦しんでいるときに、泥沼の中の1輪の蓮の花のようにマリアは突然に世の中に登場した。
彼女の歌う曲には、このロサンゼルスの空のような清涼感があった。


夜は乾燥した空気に爽やかさを感じることもあるが、今夜は少々湿気が多く寝苦しくなりそうだった。
窓を開けると、空調の室外機からの温風がさらに部屋の中を熱くした。
外を眺めると、すぐそばには空調の室外機。
さらにその遥か先を眺めると、高級住宅地の灯りが見えた。
朝に出会った会社員はあの辺りに住んでいるのか。優雅な彼女の生活を想像し、自分自身を重ねてみたりした。
この1か月間は生活の基盤を作るだけでせいいっぱいだったが、今の理沙には明日以降のことを考える心の余裕が生まれていた。



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