ささやかな幸せ

「もしよければ、あたしの家に来ない?」
シングルマザーの母親からそう言われて、理沙は動揺した。「でも、狭いけどね」
「本当に?」
管制センターでの仕事を失ってからは、アルバイト程度にやっている2つの仕事ではアパートの家賃は払えない。
必死になって仕事を探したものの、管制センターのような比較的高給の仕事を見つけることはできなかった。
今までの収入を保証としてアパートに入居しているので、収入が減った以上は出てゆくしかない。
2週間以内に同じような仕事を見つけるか、または生活レベルを下げて安いアパートを探すか。
しかし、期日を目前にして、そろそろ荷物をまとめて出ていかなくてはいけないのかと理沙は諦めていた。
「何て言ったらいいのか。。。。」
次の言葉がなかなか出なかった。
「いいのよ。困っているんだったらあたしが助けてあげる」
生活が苦しいのはわかっていたが、そんな苦しさが分かっているからこその同情だろうか。
理沙は彼女の手を握りしめたが、彼女にすがる気持ちにはなれなかった。


*     *     *     *

理沙は一旦はシングルマザーの母親からの誘いを断ったが、
結局のところ仕事を期限内に見つけることができなかったので、彼女の世話になることにした。
身の回りの荷物は、まとめると荷物コンテナ2つほどだったが、部屋に持ち込むとそれだけで座る場所はほとんどなかった。
シングルマザーの母親の住んでいるアパートは、下町の、治安がいいとは思えないような場所だったが、
似たような境遇の人々が集まっている、お互いに助け合って生活している共同生活の場所のような雰囲気だった。
「あなたに迷惑かけると思うし、大変なんでしょう?」
しかし、困った時にはお互い様である。
母親からは、出かけている間のベビーシッターを頼まれた。
まだまだ小さな娘とは、母親と一緒に食事をしたときに何度か会ったが、
果たして自分に小さな子供の面倒を見る事ができるのだろうか。理沙は少々不安になった。
しかし、そんな不安はどうやら無用のようだった。
狭い部屋の中で、荷物の整理をしていると、娘がやってきたが、
人見知りをしないのか、娘は笑顔で理沙のそばまで歩いてきた。
何のためらいもなく、理沙は娘を抱きしめた。


冷蔵庫の中にある食材は自由に使っても良いと母親から言われていたが、冷蔵庫の中は寂しい状態だったので、
娘と一緒に近所の商店街に食材を買いに行き、とりあえず自分と娘のための食事を用意した。
小さな子供の食事を作るなんてのは理沙は初めての事。娘の食事の用意には苦労はしたが、
娘と2人で一緒に食べていると、そんな苦労もどこかに行ってしまった。
理沙は自分の娘と生活しているのではないかとふと錯覚した。
食事のあとに娘を寝かせると、荷物整理の続きを始めた。
夕方には荷物の整理は終わり、小さな机の上にフォトプレートを置いた。
理沙が妹の直子と一緒に並んで撮った写真である。
理沙は、つい最近にも気になって妹に連絡をとってみたものの、結局のところ返信はなかった。


*     *     *     *

2部屋とクローゼットだけのアパートを拠点に、理沙は職探しを再開した。
今までの仕事も継続しながらの職探しは大変だったが、住むところを提供してくれたシングルマザーの母親のためにも、
1日も早く職を見つけないといけない。理沙は少々焦っていた。
「そんなに無理しなくてもいいのに、体壊すよ」
選り好みをしなければ職はある。今までの仕事に加えて、オフィスの清掃の仕事も始めた。
夜の仕事なので朝早くに帰宅することになり、少しの間寝ただけで、日中は自宅で娘の面倒を見た。
「無理はしていないけど、あなたにいつまでも迷惑かけるわけにもいかないし」
「いいのよ。娘の面倒見てくれているだけで、本当に助かってる」
娘の面倒を見ながら、理沙はこの先の仕事に生かすために、資格試験をとるための勉強も始めた。
東京に住んでいる時には、昼はオフィスでの技術系の仕事をしていたので、管制センターの仕事にもそれほど違和感なく
適用することができたが、それでもまだ足りないと思っていた。
「もっと勉強して、上を目指したいと思っているんです」
母親は理沙の目をしばらくの間見つめていたが、やがて言った。
「上を目指して、何になりたいの?」


母親の問いかけに、理沙は漠然とした答えしかできなかった。
父親との口論ののちに家を飛び出して、途方に暮れていたときに親友と出会い、
親友の過酷ではあるが生き生きとした夜の世界の生き方に共感し、2年ほど働き、
素直な心で歌っている一人の歌手に触発されて、本格的に歌手になろうと思い立ったものの、
「今よりも給料のいい仕事?」
理沙は頷いた。
「まぁ、それもあるけど」
歌手になりたいという目標も、歌手の突然の死をきっかけにして、自分の心の中の違和感から、あっさりと方向転換した。
「いいなぁ、理沙はいろいろと悩みがあって」
「悩むことって、いいことなの?」
母親は、ちょうどそのとき手を伸ばしてきた娘の手を取り、抱き寄せた。
「あたしには、悩む暇もないから」
生活のために、3つもの仕事を掛け持ちして、家で娘の世話をするだけで、自分の自由時間もないのでは、
悩む暇もないのはまさにその通りだろう。
しかし、彼女は、
「でも、この娘がいるから幸せ」
そのことは、娘と2人だけで過ごしている時間に、理沙もなんとなく感じていた。
自分の娘でなくても、親子のように暖かな時間を過ごすのは、理沙にとっては心が安らぐひとときだった。
あたしにはそんな時はなかったな。。。。理沙はふと今までの自分を振り返った。


*     *     *     *

まだ理沙が小さかった頃、両親が再婚したときのことはおぼろげながらもまだ覚えていた。
夢の中にも出てくることがあった。
新しい母親に対しては、あまりいい印象はなく、父親が家にいる時と不在の時では、理沙に対する態度は全く異なっていた。
やがて妹の直子が産まれると、実の娘である直子と前妻の娘の理沙に対しての態度の差は、さらに差別的なものとなった。
母親から冷たくあしらわれていた理沙は、徐々に母親に対して自分の心を閉ざすようになってきた。
しかし、なぜか妹である直子は、理沙の事を実の姉のように慕っていた。
「ねぇ、直子ちゃん」
理沙もまた、妹というよりは親友のように直子に対して接していた。
「あたし、大きくなったら、自分一人でも食べていける仕事するんだ」
「お姉ちゃん、どんな仕事するの?」
妹からのその問いかけが、理沙が世の中に足を踏み出すきっかけとなった。


*     *     *     *

やがて理沙は、繁華街の中にあるショットバーの仕事をすることになった。
週に2日だけだが、バーテンダーとしてカウンター席で客の相手をすることになった。
以前の夜の仕事をすることには違和感があったものの、
ちょうどその頃、シングルマザーの母親は過労のせいか、体調を崩してしまった事もあり、
彼女の恩に報いるつもりで、少しでも給料のいい仕事をと考えての事だった。
ベッドの中でなかなか動くことができない、泥のように眠っている彼女を見ながら、
「お母さん、すぐに元気になるよ」
心配している娘を抱きしめて、夜の繁華街に向かっていった。
仕事帰りの会社員たちや、血の気の多い若者たちで溢れているショットバーは、今まで自分に馴染みのある世界だと思っていたのが、
今では非常に異質な世界のように思えた。
煙草の煙と、酒の匂いで充満した薄暗いホールで、理沙は目の前の男女の相手をしていた。
男の方は仕事の自慢話ばかり。女の方は酔いが回っているのか男の方によろけて、理沙に対しては敵意むき出しの視線を向けている。
やっぱり、単なる思い付きで行動するのではなく、今でも東京にとどまっていた方が良かっただろうか。
ぼんやりと考え事をしていると、客から呼ばれて文句を言われる。
ふと店の中央のステージを見れば、アルバイトの歌手が歌っている。
理沙は彼女に、かつての自分自身を重ねながら眺めていた。



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