たかが訓練されど訓練
教官は言った。
「今ここにいるのは、60人」
講堂に集まった全員が、直立不動で教官からの話を聞く。
「あと1か月もすると、20人いなくなる。2か月すると半分まで減る」
理沙は事前に面接の場で、訓練の厳しさについて聞いていたので、それほど驚くこともなかったが、
静かに淡々と語る教官の一言一言に、
徐々に緊張感、そして恐怖心にも似たものがこみあげてきた。
「しかし、それが現実だ。現場はもっと厳しい状況だということを認識して欲しい」
その後、これからの生活についていくつかの注意事項の説明があり、
60人の訓練生は寮へと向かった。
* * * *
訓練は翌日からと聞いており、明日の準備をしてあとはしっかりと寝るだけだと思っていた。
しかし、寮の部屋に着いてみると、20人ほど収容する大部屋に、ベッドが人数分あるだけ。
個室でもあるのだろうかと想像していたのが、少々の荷物を置くことができるクローゼットは別な部屋あり、
この大部屋では男女関係なく寝るということを知って、理沙は今までの高揚した気持ちが絶望に急変した。
それでも、自分にあてがわれたロッカーの場所を確認し、
バッグと私物をその中に入れると、訓練生の作業着に着替えた。
周りの男女の訓練生の目が気になるが、急いで着替えを行い、
ちょうどそこで昼食の時刻になったので食堂に向かう。
食事をしている間は、周りの訓練生の目も気にせずに黙々と食事をする。
ふと目を上げると、門のところで再会した、試験会場で出会った女性が見えた。
少しだけ心が落ち着いた。
その後はそのまま講堂に向かい、学長からの訓示を聞いた。
教官と比べると、こちらは技術畑の出身なのか、淡々と技術的な話が続いた。
その後、訓練生は再び寮に戻ったが、そこで理沙は目の前の光景に呆然とした。
ベットのまわりに散乱している私物を拾い上げ、
床にぐちゃぐちゃになって放置されているシーツを取り上げた時に、
そのシーツに手をかけてきた女性の方を見た。
「あら」
試験会場で会った女性だった。
「なんか、嵐に遭ったと思えばいいんじゃないの」
「それじゃ、あなたも?」
彼女は頷いた。理沙は少々気持ちが軽くなるのを感じた。
そんな2人を、周りの訓練生は冷ややかな目で見ている。
小さな声で何かをささやいているようにも見える。
「あたしたちって、歓迎されていないみたいね」
とはいえ、こんな状況に理沙は慣れていた。
夜の街で仕事をしていた時にはこんな事は日常茶飯事だった。
* * * *
まだ夏が終わって秋になり始めた頃だが、士官学校のある内陸部は朝晩は冬のように冷え込むことがある。
起床ラッパが鳴ってすぐに飛び起きると、1分かからずに着替えてグラウンドに出る。
すぐに整列して直立不動になり、教官の言葉を待つ。
「いいだろう」
その後、教官からの短いコメントがあり、そのコメントが終わる頃にちょうど朝日が昇り始めた。
朝食前のウォーミングアップとして、まずはグラウンドを30周ほど走る。
初日なので隊列の先頭に先輩がついて走り、
士官学校独自のフレーズの訓練歌を走りながら歌った。
体を鍛えるために、一人で黙々と走っている時と比べると、
訓練歌を歌いながら走るのは、独特なフレーズのせいなのか、非常に気持ちが良かった。
30周の走り込みは、事前のトレーニングのおかげでそれほど苦ではなかった。
朝食後は少しの休憩時間があっただけで、そのまま午前中の授業のために教室に向かう。
教室に向かう前に、ベッドをしっかりと整理整頓することを忘れなかった。
ベッドがきちんと整理整頓していなかったことが、昨日の嵐の原因だからである。
昼食をはさんで午後も講義。
午後の3時頃には講義が終わるが、その後は再び夕食前の訓練である。
体を酷使した器械体操は、事前にトレーニングをしているとはいえ、きつかった。
夕食後は各個人の自由時間があるものの、まだ生活に慣れないのか、疲れ切っていた。
大部屋での生活2日目。昨夜は緊張感で寝付くまでに少々時間がかかったが、その日はすぐに深い眠りに入った。
翌日も起床ラッパとともに飛び起きる。
全身筋肉痛で腕が上がらなくなるのではないかと思えたが、激痛になんとか耐えながらグラウンドにたどり着いた。
グラウンド30周を、なんとか自分の体を励ましながらこなす。
朝食後の午前中の授業で、さっそく技術的な講義が始まる。
腕の激痛、そして昨日は感じなかった強烈な眠気。
意識が時々遠のくのを感じた。
技術的な講義の内容は昨日と異なりいきなり本論に入って難易度が一気に上がる。
午後も同様だった。そして講義後の夕方の訓練。
訓練中はようやく後を追いかけているといった状態で、昨日とは違い体が思うように動かない。
それでも夕食後には、あすの講義の予習をしておかなくてはいけない。
難しい用語ばかりの講義資料。物理学の授業のような数式ばかりの技術副読本。
なんとかついていきたいという気持ちだけで、気がつけば同じページばかり何度も見ている。
そして、睡魔と戦うのも限界だと思い、諦めて眠りにつく。
* * * *
どんなに眠くても、翌日には起床ラッパとともに目覚めて起き上がった。
条件反射的反応である。
1週間もすると筋肉痛にも慣れて、痛みから解放されつつあった。
それでも、毎日の訓練にはようやく追いかけているといった感がある。
60人の訓練生は、2つのグループに別れているという事に、理沙は徐々に気づいてきた。
理沙のことを見て、ひそひそと話をしているグループ。
体が屈強そうな彼らは、兵隊としての訓練経験のある初等兵。
対して、理沙や面接会場で会った女性のような一般枠と呼ばれるグループ。
軍隊経験のない者たちは、訓練経験のある初等兵と比べると体力的には劣る。
「軍隊経験ある人たちと比べると、不利だよね」
夕食後の休憩時間に、面性会場で親しくなった女性と廊下の突き当りで立ち話をした。
「そりゃそうだけど、でも、そのための訓練だと思えばね」
その後30分ほどお互いに愚痴ばかり言っていたが、また明日会うことを約束してベッドに戻った。
眠りについてしばらくしてから、何物かが毛布をよけるのを感じた。
反射的に毛布を引き寄せたが、次の瞬間に体を押さえつけられて、何度か殴打された。
時間にしてほんの10秒ほど。
あたりはしんと静まりかえっているが、痛みに耐えながら体を動かすと、
暗闇の中に何物かが蠢いているのがなんとなく見えた。
しかし、真相を確かめたいという気持ちよりも、眠気の方が強く、再び寝てしまった。
朝起きてベッドのまわりを見ると、乱れた毛布。
腕まくりしてみると、殴打されたと思われる部分があざになっている。
まわりの皆を見てみると、なぜか理沙と目を合わせようとしない。
不信感が募るが、前日と同じように朝食前の訓練を行い、午前と午後の講義、そして夕食前の訓練。
再び夜になった。
また昨日と同じように寝ている間に殴打されるのではないかと思ったりもしたが、
ふと、理沙は生死の淵にあったときのことを思い出した。
親友との偶然の再会のきっかけとなった、路地裏に追い込まれた時の恐ろしい記憶。
「別に死ぬわけじゃないんだし」
その日も理沙は、面接会場で親しくなった女性と30分ほどお互いに愚痴を言って、
翌日の予習をすると眠りについた。