クラビウス基地
画面の向こう側の幹部たちを前にして、理沙は淡々と現場からの報告を伝えていった。
「2か月の遅延を、いったいどうやってリカバリーするつもりかね?」
威圧感のある、総裁からの発言に対しても、理沙は特に臆することなく、現場リーダーと会話したことを述べていった。
「今は一番難しい局面だと思っています。ですが、ここで無理をさせてもかえって逆効果です」
月のクラビウス基地では、地球から運ばれた核融合推進システムの組み立てが行われているところだったが、
システムの組み立てと調整に、予想以上に時間がかかっていた。
「確実に、そして中核部分の調整が終わったところで、テストの準備に注力します」
「では、2か月のリカバリは可能という事かね?」
何かと総裁の一言一言が鼻につく。両側に座っているリーダーやヴェラも不満を口にしたいように見えた。
官僚出身の事業団総裁は、軍所属の理沙のことを、あまり良く思っていないようである。
* * * *
「私も昔、彼にはよく虐められたよ」
上司である、軍の補給兵站中佐とは、ひと月に一度状況報告のために顔を合わせることになっている。
「直接聞いたわけではないが、若いころに軍からかなりひどい目にあった経験があるらしい」
歴史は繰り返すというものだ。若いころの経験がトラウマになって、仕返しをするということはよくある事。
「でも、特に気にしていません。現場を急がせても無理なものは無理なのです」
現場と上層部との間で、板挟みになる事はあっても、それがリーダーとしての当然の仕事と、理沙は割り切っている。
それどころか、高圧的に威圧されても、理沙はいつも以上に平常心を発揮することができた。
「それでいい。理沙、ところで月へ行く予定は決まったかな?」
「はい」
先週の総裁との会議の場が、ある意味山場であったようだが、
今週になってから事態は好転し、テストに向けてのスケジュールがかなり精緻化されたようだった。
「来週にはテストスケジュールが提示可能ということです。なので、年末に出発することになります」
テキサスではようやく夏が終わったところだった。あと3か月ほどで理沙は月に向かうことになる。
航空機並みの快適で、事前の訓練もない移動というわけにはまだいかないが、
月への移動は、帰還できるのかもわからない、命がけという昔のレベルからはかなりハードルが下がっていた。
出発3か月前から、週に一回の健康診断と、施設でのトレーニングが始まり、いよいよ月に行くのだという実感がわいてきた。
理沙の担当している核融合推進システムが山場を超えたので、今の懸念事項は原子力ラムジェット機に移りつつあった。
担当者がリーダーから時々叱責されるのを横目で見ながら、理沙は毎日月での組み立て作業の進捗を見守る。
月に向かう1か月前に、ようやく核融合推進システムは組み立てが完了した。
現地スタッフ一同が核融合推進システムの前に立った画像を見て、理沙はとりあえずホッと一息ついた。
「いろいろと大変だったと思いますが、皆さんの働きに本当に感謝しています」
現場リーダーが、数秒遅れで画面の向こうから理沙に敬礼をしてみせた。
「ようやくあなたの期待に応える事ができました」
テストに向けた段取りについて、そして見直し後のテスト項目とテストスケジュール内容について、現場リーダーからの説明があり、
会話は終わった。
「では、皆でお越しをお待ちしております」
気分が軽くなり、それでもあと1か月間気は抜けないなと思いつつ、理沙は会議室を出た。
夜もかなり遅い時間で、オフィスはすっかり静まり返っていた。廊下には誰も歩いている人はいない。
しかし、オフィス奥の会議室では、リーダーとヴェラが2人だけで会話しているようだった。
ガラス越しに見えるのは、2人の口論している様子。
雰囲気は良いとはいえなかった。しばらくの間2人が口論している様子を見る事がなかったので、落ち着いたのかと思いきや、
まだ懸念事項は払拭されていないように見えた。
* * * *
理沙が月に向かう予定が、3週間ほど遅れる事になった。
定期船とはいえ、飛行機並みの定常的なスケジュールはまだ確立されていないので、機器トラブルは想定の範囲内である。
理沙は現場リーダーに対して、機能テスト開始の指示をした。
クラビウス基地周辺の土壌から収集された、ヘリウム3と水素を使用して、まずは10パーセント出力テストを始める。
月面に対して、逆立ち状態に設置された推進システムから、初めて核融合プラズマの噴射が行われた。
「まぁ、こんなものですよ」
その日の報告会の場で、現場リーダーは嬉しそうに言った。
週末は久しぶりにゆっくりと休めそうだと、翌朝理沙はアパートでまどろんでいたところ、突然の呼び出し音に飛び起きた。
「お休みのところ、大変申し訳ありません」
音声だけにして、理沙は現場リーダーからの状況報告に耳を傾けた。
「プラズマ安定化システムに不具合が発生しました。乱れたプラズマでノズル内壁が損傷しました」
「直せそう?」
理沙は状況を聞きながら、オフィスに出勤しているリーダーにも参画してもらい早速対策会議を行った。
「部品のスペアは用意していますので、交換すればなんとかなりますが、真の原因の追及をしないと先には進めません」
休みにするつもりだったその日は、アパートの部屋から出ることなく会議や現場との調整で終わってしまった。
「私が行ってどうなるという事はないと思いますが」
理沙が月へ向かう2日前、中核メンバーのうちテキサスにいる者だけで、小さな壮行会パーティーが行われた。
「ようやく、本格的に事が動き出したと思っています。まだまだ山場は続きますが、気を抜かずに頑張りましょう」
酒場に集まった6人、リモート空画面越しのメンバー皆で乾杯をした。
「理沙も気をつけて。現地からの連絡を楽しみにしているよ」とリーダー。
リーダーとヴェラは並んで座っている。非常に近い距離で座っている事に、理沙は違和感を感じていた。
「羨ましいなぁ、月では体重が軽くなって、太ったことも気にならないのかしら」
こらこら、とリーダーはヴェラの事をたしなめていた。
時々目配せをして、2人は何かを考えているように見えた。
先日会議室で見かけた、2人が口論している状態の時と比べて、その親密とも思える様子に、理沙の頭の中のスイッチが
入るのがわかった。きっと、何かある。
「3か月後が楽しみね。理沙、気をつけて行ってきてね」
* * * *
生活に最低限必要なものだけトランクに入れて、理沙はアパートを出た。
同じ棟の管理人に、3か月ほど家を開ける事を事前に伝えてあるが、挨拶がてら管理人のところに立ち寄った。
その後、近所に住むリーダーの家にも立ち寄らず、オフィスにも立ち寄らずに真っすぐに空港に向かった。
ダラス空港のシャトル発着場に着くと、30人ほどの乗客と一緒に乗り込む。
以前、修士号訓練の最終段階で乗ったシャトルとは違い、大きさも形も普通の旅客機とそれほど相違はなく、
客席も非常に快適に座れるようになっていた。
ボックス席のようなシートに深く座ると、いつの間にか機体が動き出して滑走路に向かっていた。
飛び立ったあとは、以前に乗ったシャトルとそれほど変わりはない。加速が途絶えることなく続き、最大2Gの加速を終えた後で
無重力状態になった。シートベルトが身体をしっかりと押さえつけ、薬の効果で平衡感覚が極端におかしくなることもない。
やがて大きく羽を広げた鳥のような姿の、低軌道ステーションが見えてきた。
二度の工事も終わり、すっかり完成しているようにも見えるが、トラス構造にはまだむき出しのところがあり、
将来の拡張に備えているとの説明アナウンスがあった。
低軌道ステーションのホテルでの1泊ののち、理沙は月へ向かうシャトルに乗り込む。
つい最近理沙が管制室で見守った、重量物運搬用のカーゴモジュールとは違い、旅客用のシャトルはこじんまりとして小さい。
プラズマ推進システムの加速は、地球から出発するときの加速と比べると非常に緩やかなものだった。
しかし、継続時間が長いので、結果としては燃焼型の推進システムより早く、30時間ほどで月の周回軌道に到達できる。
無重力状態に慣れてきて、宇宙酔いにも悩まされることなく、理沙はソファーベッドのような座席で
3回の食事を楽しみ、日頃の疲れが溜まっているのかほとんどの時間を寝て過ごした。
目が覚めた時には、地球よりも月の方が大きく見えていて、遠いところに来てしまった事を実感した。
窓から青い地球を見ながら、テキサスはどのあたりだろうかと確認し、なぜかそこで先日のリーダーとヴェラの事が再び気になった。
あの2人だけの、親密に見えるような雰囲気はいったい何があったのか。
そして、ヴェラは理沙が月へ行くことを非常に楽しみにしているようにも見えた。
月の周回軌道に到着し、推進システム部分が切り離され、月に向かって降下する間も、理沙はシートに深く座りながら、
意味深なヴェラの行動について思いを巡らせていた。
[まもなくクラビウス基地。降下中は席を離れない事]
船外モニターには、クラビウス・クレーターが画面いっぱいに広がっている。
そのクレーターの影の部分に、光る点がいくつか見えていた。そのうち1つは一定の間隔で点滅を繰り返している。
[あと3000メートル、降下続行]
理沙の心の中で、ああ、これはヴェラにしてやられたと思った。
3か月後に自分が地球に戻った時には、既にリーダーの心はすっかり骨抜きにされているのかもしれない。
目を閉じて、これから先、どうやって彼女に対抗したらいいのかと考えた。
[あと10秒・・・5秒・・・着陸。クラビウス基地に到着しました]
理沙は再び目を開けた。クラビウス基地の建物が見えた。そして敷地のはずれに核融合推進システムのテスト施設が。