焦る気持ち

月の表面近いところに浮いている地球を眺めながら、理沙は今日の出来事を振り返ると同時に、
地球にいる同じグループの皆の事を想った。忙しさは寂しい気持ちを感じさせない一番の方法である。
とはいえ、個室で一人になると、邪念のようなものがもやもやと心の中を支配する。
「リーダー、本日の進捗です」
定時刻の会議の場では、画面越しにリーダーの姿。そしてその隣に座るヴェラの姿が。
「なんとか山場は超えました。来週には24時間連続稼働のテストを実施しますが、今までの課題はクリアになっています」
理沙からの一方的な説明に対して、リーダーは形式的とも思えるような反応をするだけ。
「あまり調子がよくないのよ、リーダーは。ここのところ徹夜に近い状態が続いていて」
なぜかヴェラが、リーダーを弁護するような発言をしている。
原子力ラムジェット機の制作、部分テストが難航している事、そのためのフォローでリーダーの労力が食われている事も
理沙はよく知っていた。しかし、理解はしていても心の奥にあるもやもやは晴れない。
「では、21時の報告を終わります。また明日」
画面から2人の姿は消え、理沙は作業端末を閉じるとすぐにベッドに横になった。


*     *     *     *

翌週、核融合推進システムの24時間稼働テストが行われた。
テスト当日は、1日に数回、コントロール室に行って作業状況を眺め、スタッフと会話して、
それ以外の時間はコントロール室に一番近い会議室で、作業端末からテストの状況を確認していた。
会議室の中で時々眠り、定時刻のチェックポイント会議でリーダーと会話した。
「性能は十分クリアしています。障害も全くありません。そこでリーダー、ご相談が」
「何か?」
「このあとは実用を考慮した4クラスターでのテストがありますが、私の立ち合いはもう不要かと」
「理沙が、大丈夫と判断した?」
画面の向こう側のリーダーは、少々神妙な様子だった。
理沙はきっぱりと言った。「はい、もう大きな問題は起きないと思います」
リーダーはイスに座り直し、理沙の事をしっかりと正面から見つめた。
「そうだな、3か月の滞在予定を2回も延長してもらって、休みも満足に取れていない。本当に申し訳ないと思っている」
申し訳ない、その言葉に理沙は非常な重みを感じるとともに、ほっとした。
「引継ぎは十分に行って、万が一でも対応できるようにしておいて欲しい。さっそく帰還手続きを始めてください」
帰還手続きという言葉をリーダーから直接聞いて、肩の荷が降りたような気分になった。
翌週には4クラスターでのテストのための、段取りの打ち合わせが始まった。
地球からの資材輸送は既に完了していて、24時間稼働テストを行った推進システムのすぐ脇で、組み立てが始まっていた。
木星・土星探査用の宇宙船の詳細デザインは、まだ確定していないところがあった。推進システムのデザインもその一つ。
単体の推進システムを4基搭載するのか、今回新たにテストする4クラスターの推進システムを1基搭載するのか。
「ディスカバリー」での悲劇もあり、できるだけ堅実で、実用性を考慮することを目指してデザインが始まったのが、
あれこれ新機能を取り込んでみたり、野心的な案が再びもちあがってきたりと、開発局内部で意見が別れていた。
その喧騒にリーダーが巻き込まれていることも、理沙は良く知っている。
そんな事を考えると、今すぐにでも帰還して、リーダーのすぐそばにいたいという気持ちはさらに強くなった。


*     *     *     *

地球への帰還の日程が決まり、やがて帰還前日になると、理沙はコンテナに荷物をまとめ、
協力会社のスタッフ達への引継ぎを行った。
「これで月からの最後の報告になります。引継ぎが完了し、あすの11時の便で月から出発します」
「本当に長い事ご苦労様。理沙のリーダーシップで問題が一気に片付いた。ありがとう」
リーダーからの一言一言に、非常な重みを感じてしまう。
「それと、別途連絡があると思うが、今までの時間外の分は全額認められた。今月の給与はびっくりする金額かと」
さらには、今まで休めなかった分の長期休暇も認められた。
認められた分全てを使って休むつもりはないが、理沙の頭の中は既に休暇の事でいっぱいになった。
「リーダー、今週はお休みは?」
ヴェラが会議室にはいないことを確認すると、「戻ったら、ちょっとお話したいことが」
数秒の沈黙ののち、リーダーは小さく頷いた。
会話を終えると理沙は、作業端末を閉じてコンテナの中に入れた。


翌日の便で月を出発した。
上昇する連絡船の窓から、今まで約半年間見慣れた、クラビウス基地と核融合推進システムのテスト施設を眺める。
基地の姿が徐々に小さくなり、クレーターの淵に近いところに見えている地球は、徐々に高度を上げていった。
元来た道のりを戻るだけの旅。約2日間の地球への旅の間は、往路と同様にほぼ寝て過ごす。
往路との違いは、帰還する作業員がかなり乗船していたので、座席はほぼ満席に近く、
皆静かに座っているとはいえ、人が多いというだけの圧迫感があった。
往路同様に何事もなく地球低軌道ステーションに到着。
地球へ帰還するためのシャトルを待つ間、ホテルで一泊し、ラウンジから眼下の地球を眺めながら食事をする。
いよいよ明日は地球へと戻るのだと思うと、気分が高揚してくる。
バッグの中から作業端末を取り出し、リーダーの状況を確認したが、会議中のステータスだったので再び端末を閉じた。
2人だけで会って、何を話そうかと考えていたが、思いつくことは一つだけ。
地球を眺めながら、どんな休暇を過ごそうかとぼんやり考えていたところ、ラウンジでそのまま寝てしまった。


*     *     *     *

旅客ロビーで地球へ向かうシャトルを待つ。
ついさきほどの情報では、テキサスの辺りはハリケーンの進路上にあり、空港も便数を減らして運行している状況。
事によっては空港が閉鎖になる恐れもあった。
ヴェラからはそのことを心配する連絡があった。私用ラインのメッセージで、理沙は彼女とハリケーンの状況や、
身の回りの事、そしてリーダーへの不満とそのことが原因の口論のことが話題になった。
「帰ってきたら、一緒に食べに行こうよ」
「いいわね」
ヴェラの疲れている表情には、何かあるのだろうと思った。
以前に時々見かけた、リーダーと口論している姿には、なんらかの確執があるのだろうと推測はしていたが、
彼女と2人だけで食事した時にも、いざ核心の部分になると本音は出てこなかった。
理沙もまた、本音を言ってしまってはいけないと思い、ぐっと思いとどまった。
明日になれば、その事についても決着がつくのだろうか。


ヨーロッパ方面にということであれば、シャトルが着陸できるということで、シャトルは定時刻に出発した。
テキサス方面へ向かう予定だったシャトルがヨーロッパに向かったので、低軌道ステーションには待機する便がなくなった。
月から一緒に帰還中の、核融合推進システムの技術スタッフ5名、彼らも休暇を前にして同じように足止めを食らっていた。
「明日まで予定が立たないみたいね。今夜もホテルで泊まりかしら」
発着ロビーで彼ら5人と雑談しながら、理沙は半ば諦めていた。
1時間後、ハリケーンがテキサス直撃コースから外れるという情報が入り、多少の希望は生まれてきたが、
帰還可能なシャトルは1機もなく、明日まで待たされることはほぼ確実と思われた。
開発局の業務管理から連絡があったのは、諦めかけていたちょうどその時だった。
旅客ターミナルのスタッフが、理沙と技術スタッフ5人のところにやってきた。
「テキサスの天候は好転してきました。シャトルの出発は明日になりそうですが、いますぐ出発可能な機体はあります」
いったいどういう事かと不思議に思ったが、スタッフは発着ポートの使用状況をモニター上で示した。
「NASAの作業員用のシャトルがあります。月への作業員輸送用に先月に到着したものですが、8人乗りです」
窓から外を見ると、ドッキングポートに係留されているシャトルが見えた。
月から到着した時から、既にその場所にあるのは理沙は知っていたが、非常時の脱出用と思い込んでいた。
「もし、お急ぎであれば、準備いたしますが」
理沙と作業員5人皆は、すぐに了解した。



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