空港まであと少し

シャトルの準備ができたとのアナウンスがあり、理沙は地球に帰還する作業員4人といっしょにシャトルに乗りこんだ。
室内は、客席が8つしかなく、2人のパイロットの間を隔てる壁もない。
月へと向かう時に乗った、100人近い人を乗せて飛ぶシャトルと比べるとその差は歴然。
しかし、1つの狭い室内で、パイロットが操縦する姿を間近に見られるのは非常に新鮮な気分だった。
理沙は、4人の作業員のすぐ後ろに座った。
10分ほど経ってパイロットが乗りこんできた。
2人のパイロットは客席の5人に挨拶をすると、コクピットに座り慌ただしく出発準備を始めた。
「機器のチェック開始」
副操縦士がチェックリストを読み上げ、機長が確認する。
2人のそのやりとりは5分ほど続いたが、大型機であればシステムに全て確認させるのだが、
ここでは人間味溢れるそのやり取りを、理沙は楽しみながら聞くことができた。
「まもなく出発します」
機長の声が、マイク越しに室内に響き渡る。狭い室内なので肉声でも十分なのではと思った。
「着陸予定の、ダラス空港の天候はただいまのところ雨です」
目の前にあるディスプレイで、世界各地の天気を確認する。
低軌道ステーションの現在の位置から、ダラス空港は見えない。地球のちょうど反対側で今は昼間である。
「ハリケーンはダラス空港からはるか南を通り過ぎる予報です。直撃は回避されました」
昨日の天気予報を見ていた時には、もしかしたらダラス空港のあたりを直撃などという予報もされていたが、
高気圧の勢力が予想以上に強かったので、メキシコ湾のあたりをうろついてフロリダへ向かう予想に変わり、
シャトル出発に向けての準備が始まった。
「ダラス空港までは3時間ほどのフライトになります。ただいま管制室から出発許可を待っています」
彼の声に混じって、スピーカーから管制室からの声が筒抜けで聞こえていた。
「ただいま、出発の許可が出ましたので出発します」
ハッチの閉鎖、与圧確認のチェックに引き続き、機長からのドッキング装置ロック解除の合図。
シャトルは低軌道ステーションを離れて、ゆらゆらと漂いながら機体後部を進行方向へと向けた。
「逆噴射」
機長のその合図でスラスターの噴射が始まり、シャトルは低軌道ステーションからあっという間に離れていった。
理沙はシートに深く座り、ゆっくりと深呼吸をした。
さて、これから家に帰るぞ。


*     *     *     *

大気圏突入までには少々時間があり、理沙はイヤホンで音楽を聴きながら気分を落ち着かせることにした。
数ヶ月間を月で過ごし、クラビウス基地はインフラ設備が整備されていて、
衣食住非常に居心地の良い場所ではあるけれども、やはり自宅ベランダのデッキチェアには敵わない。
とりあえずリーダーの許可を得て、帰還後は10日間ほど休暇を頂こうかと理沙は思った。
そのあとでリーダーとの関係修復のことを考えよう、ヴェラの真意を確かめる必要ももちろんだが、
リーダーとヴェラとの間で何があったのかは、会ってみればわかるだろうと思った。
しょせん、男と女が2人だけになった時にやることなんて決まっている。
曲が、[Vanishing]に変わった。
自分にとっては非常に馴染みのある、懐かしい曲である。
昔、店で良く歌っていた曲だったなぁと理沙は昔の事を思い出した。
その頃からたった10年しか経っていないのである。
曲がまだ途中というところで、機長からのアナウンスが聞こえてきた。
「まもなく、ダラス空港に向けての大気突入段階に入ります」
機体がゆっくりと上向き加減の姿勢になった。
大気突入が始まるイコール、地球重力の世界に戻るという事である。
クラビウス基地は、居心地の良い場所ではあったけれども、6分の1重力に体が慣れてしまったので、
大気突入時の最大3Gの減速、そして地上に戻った際の1Gの世界にすぐに適応できるのだろうかとふと思った。
クラビウス基地滞在中は、毎日1時間のフットネス施設でのトレーニングを欠かさず行っていたし、
血液検査で、カルシウムやミネラル分、ビタミン類の異常はないと言われていたので、
地上に降り立った際には、少々立ちくらみがする程度の心配しかなかった。
それよりも、オフィスに戻ってからのリアルな人間関係の修復の方を気にしていた。
そんな事をあれこれ考えている間に、大気突入が始まっていた。
窓から外を眺めると、小さなデルタ翼が大気突入時に発生するプラズマに包まれてぼんやり紫色に染まっていた。
全身が、減速Gに包み込まれていゆく。
理沙は抵抗することなく、減速Gを受け入れ、体はシートに深く沈み込んでいった。


*     *     *     *

やがて強烈な減速Gは終わり、地球重力の力が全身を包み込んでいった。
ようやく地球に戻ってきたのだという実感が湧いたのと同時に、少々頭の中から血が引いてきて意識が飛びそうになった。
今まで月の低重力に体が慣れてしまった副作用である。
しかし、月で毎日欠かさなかった筋力トレーニングと、月から出発する際に飲んだ薬のおかげで、
地球重力に体がすぐに適応してゆき、意識は徐々に元に戻ってきた。
窓から外を見ると、ぶ厚い雲が下に見えた。
前方には巨大な積乱雲も見えている。低軌道ステーション出発時には天気図上に表示がなかった雲である。
ほんの2時間程度で、ダラス空港近辺は北からの寒気、ハリケーンにより南から流れ込んでくる湿った暖気により、
大気の状態が非常に不安定になっていた。
ダラス空港管制塔との交信で、他の近辺の空港へのコース変更も検討された。
「現在のダラス空港の天候は雨、着陸の可否も含め検討中です」
ビジネスジェット機程度の大きさのこのシャトルには、長距離を飛行できるほどの推進剤は搭載されておらず、
そのため、着陸先空港を選択するための時間稼ぎなどというものは通常はありえない。
理沙がそんな事を考えていたところで、機長からの再びのアナウンス。
「空港への積乱雲の接近が止まり、雲の切れ目も見え始めたとのことです。滑走路の状態の確認が取れるまでの間、
いったん上昇し上空で待機することにします」
スラスターの噴射が始まり、雲海のさらに上に向かって上昇した。
この行為により、上空での待機時間の余裕が生まれたのと、今回の噴射により機体重量がさらに軽くなった事、
自己燃焼型の推進剤を消費したことで、残存燃料を大量に抱えて着陸するリスクが回避された。
スラスターの噴射が止まり、室内は再び静かになった。
空港上空を大きく旋回しながら、グライダーのように滑空し徐々に降下を続ける。
窓から差し込んでくる太陽の光が眩しい。
やがて雲海の中に突入し、雲の中の乱気流に小さな機体が翻弄される。
「空港からの連絡では、晴れ間が見え始めたということです」
そこで機体が大きくガタンと揺れる。
燃料が減った機体は、もう自分の力で風に向かってゆく力はない。
グライダーのように滑空して、風に翻弄されながら飛ぶしかない。
それでも、空港管制塔からの上空の詳細な気流情報に助けられながら、シャトルは確実に空港に向かっていた。
「まもなく雲が切れるはずです。空港は雨が止み旅客機の離着陸が再開されています」
機長のアナウンスが終わらないうちに、機体は雲海を抜け視界が一気に開けた。


*     *     *     *

シャトル用滑走路の準備が完了したとの管制塔からの声が、スピーカーから聞こえてきた。
理沙はいよいよ着陸するぞと、シートに再び深く座り、窓の外を見た。
天気が再び急激に変化しているようで、進行方向右側には再び積乱雲が発達していた。
前方には晴れ間が見えているのだが、右側にはどす黒い雨雲。
気流も安定していないようである。横風が少々心配になった。
「視界中央に滑走路、コースそのままで着陸態勢に」
管制塔からの指示に、機長は了解と答える。
機体が再び大きく揺れた。滑走路上では横風が断続的に吹いているようである。
「風が不安定のため、上昇して再アプローチを」
滑走路上の風向、風速データが場所によりばらつきがあるので、再上昇しアプローチするようにとの管制塔からの指示である。
数秒間の間があり、機長は答えた。
「天候悪化の危険性もあり、着陸を試みます」
どす黒い雨雲がスピードをあげて空港に迫っていた。時間があまりないと判断したのだろう。
管制塔から了解の返答があった。
機体が再び揺れる。難しい着陸になりそうだと理沙は思った。
動力がないにも等しいシャトルなので、あとはパイロットの腕次第である。
着陸脚の展開、固定、との機長の指示。着陸脚の展開により、横風からの影響がさらに大きくなった。
あと少し。
空港敷地内に入った。滑走路まで残り数秒といったところ。
しかしその数秒が理沙には非常に長く感じられた。
その数秒の間に、慌ただしく様々な事が起きた。
普段は聞いたことのないアラート音が鳴り、地上接近のアナウンス。
機体が大きく揺れて、天地が逆転したような感覚。
前方のシートのヘッドレストに理沙は頭を強打し、意識が遠のいた。



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