山に登る

「とにかく、無理はしないでください」
主治医の言葉が、頭の中で反響して、理沙はよく聞き取れなかった。
理沙からの問いかけに対し、主治医は理沙の頭の脇に取りつけたセンサーパッドを少しだけ動かして、再び話し始めた。
「先ほどよりも、少し良く聞こえるようになりました」
主治医は小さく頷き、そのあと理沙はベッドの上に横たわり、手足にいくつかのセンサーパッドが取りつけられて、
体をあちこちの方向に向けるようにとの主治医の指示に、手足を動かした。
「反応があまり良くありませんね。もう一度やってみましょう」


右腕の動きが、先週あたりからぎこちなくなってきた。
キーボードを操作することが徐々に困難になり、仕事にも支障が出るようになったが、
なんとかなるだろうと理沙は思い、研究所への出勤を止める事はしなかった。
「腕の動きが、なんだか変」
会議中、理沙は会話に夢中で気がついていなかったのだが、隣に座っていたヴェラが気づいて理沙の右腕を制止した。
周りの皆が分かるほどの腕の震え。
しかし、理沙だけが気づいていない。
その日は早退して、研究所近くの自宅までゆっくりと歩く。
しかし、右足になぜか力が入らないくなりよろけてしまう。
距離にして1キロもない研究所から自宅までの距離を、その日は1時間以上もかかって帰宅することになった。
帰宅してしばらくソファに横になり、日暮れの風景をただぼんやりと眺めるしかなく、
時刻が夕方の6時になろうというところで心配したヴェラがやってきた。
彼女は夕食の用意をすると、食事をソファのところまで運んできて、理沙が食事をするのを手伝った。


主治医の勧めに従い、診察の翌日は自宅で仕事をすることにした。
研究施設を使用した作業日以外であれば、別にオフィスに行かなくても仕事は可能である。
しかし、自宅で仕事をしていても徐々に右腕の感覚が麻痺したような状態になり、
自分の意志の通りに右腕が動かなくなってきた。
「生体と、機械部分を結ぶ、インターフェイス装置の受容能力が、まだ精度が低い状態のようです」
先日の診察の際の、主治医の言葉が理沙の心に深く刺さっていた。
「一番恐れているのは、生体が機械部分に拒否反応を示しているかもしれない、ということです」
スキャナーで撮影した、腕部分の神経組織と、機械部分を繋ぐインターフェイスの拡大図を主治医と眺めながら、
彼はところどころ、気になる部分を指さした。
「生体移植でも、拒否反応が一番恐ろしいことです。機械の場合は生体以上に異質なものですから、拒否反応が無い方がおかしいです。
薬で今はなんとかその拒否反応を抑えながら、様子見しているところですが、それと」
じっと理沙を見つめ、神妙な表情で主治医は言った。
「まだ20年そこそこの技術です。しかも全身の半分以上をサイボーグ化した事例となるとまだ少ない。常にリスクを感じながら、
いつ何があってもいいように心の準備だけはしてください。もちろん、私たちは万全の体制であなたを支えます」
生きているだけでもまだマシだと言いたいのか。


*     *     *     *

全身が炎に包まれて、抜け出したいのだが身動きが取れない。
体の前後をシートに挟まれて脱出できない。
窓の外では救助隊が消火活動をしているのだが、その効果はまったくなく、熱いものが両手、両足に迫ってくる。
もうだめだと理沙は思った。そして天井が崩れて降りかかってくると思えたその瞬間、はっとなって目が覚める。
まだ夜明け前、初夏で若干蒸し暑く、ベッドの上でのたうちまわっていたようだった。
右腕の感覚が弱く、動きもよくない。
重い右腕を左腕でなんとかかばいながら、体のそばまで引き寄せた。
もし同じように左腕も動きが悪くなったら、もうこれでおしまいだと理沙は思ったが、
優しく左腕で右腕を撫でながら、横たわり夜が明けるのを待った。
翌週にも主治医のところに通い、今日までの状況を伝えた。
センサーパッドを耳の後ろに貼り付けて、イスに座った状態での両腕の上げ下ろし動作、そしてベッドに横たわり体を動かす。
センサーパッドを通じて、機械の部分が蓄積した膨大な記録データが、主治医の操作のもとに小さな端末に吸い上げられて、
記録データは画像として可視化されると同時に、1つ1つの記録データの詳細は、医療技術センターの分析システムにも渡され、
理沙も含めて世界に数十万もの患者データとして蓄積され続けていた。
自宅にいるときでも、仕事をしている間でも、理沙の機械の体の記録情報は24時間常に監視されている。
プライバシーが無いに等しい生活ではあるが、生き続けることの代償とするならば仕方ない事なのか。
しかし、体の不具合ひとつひとつの記録は、無駄にはなっていなかった。
「どうですか、最近の体の調子は?」
その日も、主治医はいつものように理沙に体調について尋ね、腕の上げ下ろしの確認と、ベッドの上での体の動作確認。
理沙の表情はいつになく非常に明るかった。
「ここ最近は、右腕の不具合もありません。寝起きが非常に気持ちがいいです」
理沙の体は、自身が意識しないところで徐々にアップデートされていた。


*     *     *     *

少しづつではあるが、軽くジョギング程度に走ることができるようになり、
まずは1キロ程度の距離から、その後は3キロ程度の距離を、20分ほどかけて走ることにした。
徐々に暑くなり、体温調節が心配なので十分注意してくださいとの主治医からのアドバイスのもと、
5分走っては水を飲み、体温の上昇には気を配った。
1年前のはじめてのリハビリ期間中は、空調の効いている医療センターでの生活だったので特に心配することもなかったが、
屋外で誰の助けも借りずに走るのは、大きな挑戦だった。
2週間ほどすると、走る間の体温上昇にも慣れてきた。
機械の体になってはじめて人間の体の体温調整機能に理沙は感心した。
どこか離れたところで理沙を見守っている、医療センターのスタッフたち、
さらには機械の体の部品を作り上げた技術者達に、改めて理沙は感謝の気持ちを抱いた。
7月になると陽射しはさらに強くなったので、早朝のまだ涼しい時刻に走ることにした。
早朝の街は非常に静かで、静かな街をさっそうと走るのが心地よいと思ったある日、
小さな交差点で、目の前に突然飛び出してきた自転車に接触し、理沙は道路上によろけて倒れてしまった。
右腕を強くぶつけてしまったので、また動かなくなることはないだろうか、非常に心配になったが、
右腕は全く問題なく、その日は大事をとって主治医もとを尋ねたが、擦れた人工皮膚を手当てした以外、処置はなかった。
「辛い時期をなんとか乗り越えましたね。これから先はもう心配はないと思います」
主治医のその言葉は、背後にいる多数の医療スタッフ、技術者たちからのお墨付きのように思え、非常に心強かった。


*     *     *     *

「私も一緒に行きたいな、と思って」
理沙が言い出すと、一同皆さきほどまでの明るい調子での会話が一旦途切れた。
「大丈夫なんですか?」
まるで腫れ物にでも触るようなその言い方に、理沙は一言。
「私が大丈夫と言っているんだから、大丈夫よ」
皆が心配しているのは非常によくわかる。
仕事に復帰してからの半年間、体調不良で自宅勤務が長い間続き、
ようやくオフィスに顔を出したと思ったら、突然、理沙が一緒に山登りをしたいと言い出した。
ヴェラだけが常日頃から理沙の体の事を良く知っていた。
だからだろうか、彼女は理沙を援護した。
「いつまでも、病人のような扱いはされたくないよね」
研究所から比較的近い距離にある、アパラチア山脈での1泊の山歩き。
さすがに装備を揃えての本格的な登山は難しいが、ちょっと山道を歩くくらいであれば問題はない。
そんな主治医からのアドバイスも理沙の背中を押したが、どこまでが今の時点の限界なのか知りたい。
そんな好奇心の方が今の理沙の気持ちを動かしていた。


山道を歩き、斜面を両手、両足を動かしながら一歩一歩登る。
トレーニングジムでボルダリングに挑戦した成果もあり、体は自分の思うように動いてくれた。
暑くなってくると、岩の上に腰かけて少しだけ水を飲む。そして再び登り始める。
仲間が手を差し伸べてきた。理沙は腕を伸ばし手を取った。
ぐい、と体が引き上げられる。
「とうとう、ここまで来たね」
岩の上に上がり、周りの風景を見渡した。
山の頂きはまだまだ上の方にあったが、視界が開けて眼下の森林を見渡すことができた。
以前にも似たような心境になった事があった。
清々しい、達成感にあふれたこの気持ち。
屈辱的な立場で、周りが皆敵のように思えた、士官学校での訓練期間。
もう同じような思いはしたくないと当時は思ったものの、
その困難な時を乗り越えたからこそ、今の自分があると思えば、懐かしくも思える。
試験の結果が発表された時、理沙は同僚2人と抱き合い、互いの健闘を讃え合った。
眼下の風景を眺めながら、理沙は当時のことを感慨深く思い出した。


山中腹の広場にテントを設置して、その日は同僚4人と一緒にキャンプをした。
火を囲んでバーベキューをして、夜は酒を少しだけ飲みながら、とりとめもない話をした。
ふと空を見上げると、満点の星空と、三日月。
自分の体の調子のことで日々一喜一憂し、仕事のことばかり考えていたので静かに空を眺めるのは久しぶりだった。
一時は死の淵をさまよい、機械の体を得て仕事に復帰できるまでに回復したものの、実はその先が大変だった。
生体が機械の体になじまない事による体の不調、そして気持ちの浮き沈み。
これから先、どれだけの間この新しい体の助けで生き続けることができるかはわからないが、
やれるところまではやってみようと、理沙は改めて思った。


*     *     *     *

その三日月の方向、地球と月の間のL1にある、作業プラットフォームでは
木星/土星探査のための新型宇宙船の建造が、着々と進められていた。
地球で作成された各部品が、スケジュールに従ってヘビーリフターにより輸送されて、続々とL1作業プラットフォームに向かっていた。
核融合ユニットの組み立てがちょうど始まり、宇宙船全体の完成は1年後の予定である。



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