ただ執念あるのみ
公園の中の周回コースを、ひたすら走り続ける。
もう何時間も走らされている。そろそろ終わりにして欲しいものだ。
コーチが自転車に乗って、数メートル後ろを同じ速度で走りながら、いろいろと指示をしてくる。
「次の1周は、あと5秒短縮してみましょう」
わかりました。
そんな事を頭の中でイメージすると、声が出た。
ほんの少し走るスピードを上げる。脚の筋肉が重たくなってきたが気力で乗り切ることにした。
ゴーグル型ディスプレイに、走る平均速度が表示されていて、先ほどよりも若干スピードが上がった事を示している。
1分あたりの心拍数、呼吸回数も徐々に上がってくる。
「オッケー、5秒短縮できたわね」
自転車に乗って並走するコーチ、しかし彼女は自転車に乗ってはいない。
「それじゃ軽く1周走ってから休憩にしましょう」
周りに見える公園の風景も、ディスプレイの中から見える範囲だけである。実体はない。
実体は、会議室ほどの広さの暗い部屋である。
そこには、ベルトコンベア式の走路の上に吊り下げ式の装置と、装置にぶら下がった腰と足だけの肉体だけがあった。
その暗い部屋の中で、腰と足だけの肉体が動き続けている。
その肉体を、隣の部屋からモニター越しに見ているのがコーチ役である。
彼女はヘッドセットを頭からはずすと、隣の部屋に入った。
吊り下げられたその肉体を彼女は眺め、その腰のあたりに軽く手を添えた。
「お疲れ様」
彼女が声をかけると、頭の上あたりから声がした。
「お疲れ様、今日は昨日よりもずっと調子がいいよ」
周回コースをひたすら走る日々は2か月ほど続いた。
まわりの映像は冬の寒々しい風景から、春の風景へと変化し、やがて初夏の風景となった。
腰と足だけの肉体にも、胸の部分が加わり、上肢と両腕も加わりしっかりとした体となった。
ただ一つ足りないのは顔と頭だけ。
短パンとランニング姿に、頭の部分だけはセンサーだらけの装置。そしていくつかの座標マーカー。
ベルトの上から降りて、体を動かし始める。
上体を大きく廻して柔軟体操、シャドーボクシング、縄跳びにその場で垂直高跳び。
隣の部屋ではモニター画面越しにコーチ役が動きをチェックする。
次の動作について細かく指示する。そして肉体は的確に反応をしていた。
1時間ほど休むことなく動き続けると、コーチは休むように指示をした。
「今日はここまでにしましょう。お疲れ様」
肉体は立ったままの姿勢で、腕をゆっくりと上げ下げして整理体操を始めた。
大きく胸を広げて息を吸いゆっくりと吐き出す。
コーチはその胸の動きと連動して、体内の酸素濃度の変化をチェックした。想定通りで問題はない。
「昨日よりも楽勝だったよ」
コーチは彼女の声の調子から訓練が順調だと知り、笑みを見せた。
モニター画面の右上に表示されている彼女のイメージ画像もまた、笑顔を見せていた。
「明日は、海沿いの風景を見たいな」
「いいよ、わかった」
コーチは、画面上の彼女を見ながら、かつての彼女の姿をふと思い出した。
着実に彼女は元の人間に戻ろうとしている。
不活性液体の中に漬けられている彼女の姿を初めて見た時、コーチは一瞬吐き気をもよおした。
嘔吐しそうになる直前で、なんとか我慢することができたが、生々しい彼女の姿は見るに耐えない。
脳と内臓だけのその塊は、まだ生きていた。
しかも、主治医からの説明ではまだ意識を持っているとの事で、薬剤で眠らされている状態だった。
以前、彼女が事故で救急病院に担ぎ込まれたときの映像を、主治医から断片的に見せられたことがあった。
蘇生処置が行われたものの、心停止し生存の見込みがないとわかると、体は処置室へと。
しかし、モニター映像でもよく見ていないとわからないほどの鮮やかさで、体は他の死体とすり替えされた。
処置室の奥には手術室があり、無駄がないてきぱきとした動作で、医師たちは体全体に冷却パッドを取り付けた。
蘇生処置を行っていた時から付き添っている医師が、腕時計の表示を気にしていた。
「あと1分」
忙しく動き回っている医師たちに聞こえるように、大声で彼は指示した。
腕の血管が切開されて、人工心肺装置のような機械に繋がれる。
液体が循環を始める。
赤い血液が徐々に抜き取られてゆき、血管に繋がれている細いパイプの中身が白い液体に変化していった。
「体温降下完了」
「酸素レベル正常」
「意識は落ち着きました」
次々に体の周りを取り囲む技師たちから、状態を知らせる声があがった。
「よし、間に合った」
腕時計を見ていた医師が、想定時間内に作業を終えたことを別の部屋にいる者に電話で伝えた。
その後、脳と内臓は慎重に体から摘出されて、不活性液体の中に漬けられ、
体内温度と酸素濃度を厳重に管理する装置に繋がれ、真夜中の静かな時間帯に救急病院から出た。
事故から今までの経過について、主治医からの説明は終わった。
「では、あとはよろしくお願いします」
彼女の体を引き受ける事になったコーチは、助手と付き添いの技術者とともにコーチの居場所である研究室に入った。
不活性液体に満たされた装置を部屋の真ん中に設置し、生命維持装置やモニターに接続が終わると夕方になっていた。
隣の部屋のモニター越しに、彼女に語りかける。
反応はなかった。
しかし、グラフ表示を見る限りでは死んではいなかった。眠っている状態である。
この研究室までの、空輸も含め1万キロ以上の長旅で、かなり疲れたのだろう。
コーチが彼女の目覚めを確認するまでには、その後2日ほどの時間を要した。
外は夏になっていた。
ほんの数分立っているだけでも、汗だくになってしまうほどの屋外に対して、研究室の中は空調が効いていて寒いくらいである。
彼女の体は、部屋の真ん中のプールの中にあった。
全身が浸かるほどの、深さ2メートルほどのプールで、酸素を送り込むためのホースが上体に繋がれている。
水の抵抗と水圧を受けながら、体に負荷をかける運動をする。
時々歩き、時々泳ぎ、水中で一回転する。
そのときホースが上体から外れてしまい、溺れた状態になり、アラート音が部屋と廊下に響き渡る。
コーチと何人かの技術者が慌てて彼女のもとに駆け寄り、急いでプールから排水する。
幸いにも、彼女の体は溺れて死ぬことはなかった。
長い夏は終わり、短い秋のあとにはすぐに厳しい冬がやってきた。
研究室の中は外の季節の変化とは全く関係なく、年間通して一定の温度である。
夏の終わりの土砂降りの日に、彼女の頭が復活した。
最初は、眼球がむき出しの、生々しいグロテスクな姿であったが、やがて表情を生み出す顔面筋肉が取り付けられ、
薄くて耐久性のある皮膚が取り付けられると、かつての顔が蘇った。
とはいえ、装置の上に生首が置かれているだけの簡素なものであったが。
発声練習が始まり、最初は活舌が悪く会話するには程遠い状態だったが、数日間の訓練の後に改善が見られ、
モニター越しに会話していたコーチは、彼女と面と向かって会話する事ができるようになった。
「まだ、首から下の感覚がないのが不自然なんだけど」
不満を時々漏らしながらも、彼女の表情は非常に明るかった。
「もうすぐ不自然じゃなくなるよ。準備は進んでいるから」
そして木枯らしが吹き、夜間には氷点下10度になろうとしている日に、準備は完了した。
まだ首の後ろにセンサー用ケーブルが繋がれてはいるが、頭と胴体の結合が結合した彼女はベッドから起き上がった。
起き上がるとまずは自分の両手、両足の存在を自分の目で確認する。
コーチが正面から見守り、両脇には2人の技術者が。
「私の事が見える?」
「ええ」コーチの問いかけに、彼女は頷いた。
2人の技術者の助けを借りながら、ベッドを離れてまずは温水プールに入る。
すでに経験済みのテストだったが、ここからは彼女自身の頭で考えて四肢に指示をする事になる。
両脇にあるガイドレールにつかまりながら、水中をゆっくりと歩く。多少よろけても浮力が支えてくれる。
彼女のその姿を見ながら、もうゴールは見えたとコーチは思った。
彼女は、自分たちの期待に十分すぎるくらいに応えてくれた。
今後2ヶ月間の最終確認テストが終われば、あとは実施結果レポートを得られた大量実績データとともに提出するだけ。
彼女により得られた実績は、障害を抱え不自由な生活をしている人々に、大きな希望になるはずである。
しかし、技術開発とテストのために利用された彼女には、この先どうなるかの結論は下されていない。
その重い判断を、なぜ私がしなくてはいけないのか?
結論を下すまでの数カ月間を、コーチはまるで罪人にでもなったような気分で過ごすことになった。
再び目覚める彼女。
温かみのある、落ち着いたオレンジ色の壁の個室には、窓から朝日が差し込んでいた。
「目が醒めたのね」
少し離れた場所に立っていた女性医師が、ベッドのそばまで歩いてきた。
ゆっくりと部屋の中を見渡し、女性医師の方を見た。
「何があったの?」
「自動車事故に遭って、この病院に救急搬送されてきました。手術は無事に終わりました」
パジャマの袖をまくり両腕を確認する。毛布を剥がして両足を確認する。目立った怪我はない。
「母は、どこに?」
女性医師は何も言わずに首を振った。
彼女の表情が曇り、やがて嘔吐しそうになるのを見て、女性医師は慌てて彼女のことを抱きしめた。
ナースコールで呼ばれた看護師3人が、ベッドの上で暴れている彼女のことを制止し、鎮静装置で彼女を眠らせた。
彼女の気持ちが落ち着くまでに2日ほどかかったが、女性医師はその間ほぼつきっきりで彼女の面倒をみた。
3日目の朝がやってきた。
日の出とともに目覚めると、昨夜と同様に横になっている彼女の所に行く。
彼女は目を開けて天井を眺めていた。
「やっと目が醒めたのね」
そして、おそるおそる慎重に、女性医師は彼女に尋ねる。
「私が誰なのか、わかる?」
すると彼女は小さく首を振った。
女性医師は表情を変えなかったが、心の中では深く安堵していた。
翌週からは一般病棟の個室に移されて、一日に2時間のリハビリが始まった。
心理カウンセラーが親族のように彼女の生活を24時間サポートし、最初のうちは無表情だった彼女にも笑顔が戻ってきた。
まだ自分の力だけで自由に歩き回ることはできないが、個室に移された翌日から自力で食事をすることができるようになった。
2週間後には、カウンセラーの付き添いで病院の敷地内を歩くことも可能になった。
「これから話すことは」
前置きをしてしばらく間を置いてから、カウンセラーは話し始めた。
「あなたにとって非常に辛い話になるけど、もうそろそろ知っておいたほうがいいと思って」
また目の前で嘔吐しないだろうかと少々警戒しながらも、カウンセラーは彼女が遭遇した事故の日からの事を説明した。
母親が亡くなったことについても単刀直入に言った。彼女は今回は嘔吐することはなかった。
「あなたも、戸籍上は死んだことになっています。あなたはもうこの世の中には存在しない人間です」
無言の時間が数分間続き、再び口を開いたのは彼女の方だった。
「私は、これからどうしたら?」
しっかりと彼女の目を見つめて、カウンセラーは言った。
「私たちがあなたのことを衣食住の面倒すべて責任をもってサポートします。仕事を見つけて自立できるまでは」
それが私たちからの精一杯の感謝の気持ちです。。。。と喉元まできていたその言葉を、カウンセラーは言わずにぐっとこらえた。
女性医師から彼女に伝えて欲しいと頼まれた一言だったが、言わない方がいいとその場でとっさに判断した。
自分が背負う事になる現実を、正面から見つめながら生き続けるのか、
それとも諦めてここで終わりにしてしまうのか。
毎日同じ時刻に起きて、朝食後はリハビリを1時間ほど行い。
その後はゆっくりと病院の庭を歩きながら、時々深く呼吸する。
12時になると食堂に入り、少し離れたところに座っている他の患者達の雑談をBGMのように聞きながら、食事をする。
毎週水曜日は、午後に主治医と経過観察もかねて雑談し、夕方には心理カウンセラーと雑談する。
体調は特に悪いところはなく、手足の動きも初めて起きた朝よりもはるかになめらかである。
心の中だけが常にどんよりと曇り空のようで、さっぱりしない。
壁面ディスプレイに映し出されているニュース映像も、ただのぼんやりとしたイメージとしてしか目に入ってこない。
聞きなれた、あの名前と声を聞くまでは。
彼女は食事をする手を止めて、ニュース映像に目を向けた。
[探査船「エンデヴァー」の乗組員の交代を発表します]
会見の席で、事業団長官が説明するその脇に、その女性は座っていた。
交代の経緯についての説明が終わると、その女性は抱負を述べた。
[自分に与えられた使命を全うし、常に最善を尽くしたいと思っています]
カメラが彼女に接近し、顔がさらにアップになった。
一瞬、画面の向こう側の女性の目が、彼女の視線と合う。
その日の夕方、心理カウンセラーに会うと、彼女はさっそく言った。
「この先どうなるかわかりませんが、自分で生計をたてて、自分でやりたいように生きていきたいです」
今までの名前を捨てて、新しく与えられた名前で生きていくことも、彼女は受け入れた。