動向調査

地球の重力圏を脱出して、木星へと一直線に向かう「エンデヴァー」。
会議室の壁のモニター画面の隅には、木星到着までの残り時間が表示されていて、
あと数日で地球を出発してからの時間と、木星までの到着時間が同じになる予定である。
航路半分のところで何かセレモニーでもしようかと、船長は時々定例会議の場で言っていたが、
乗組員皆、それほど関心がないのか、やったところで何か意味あります?といった意見もあった。
乗組員の関心は、日々伝えられる中国の政変のニュース。
人口15億人の巨大国家は、数十年前には世界経済を牽引し、世界の工場、最先端技術の展示会場とも言われていたが、
巨大な人口が今は経済の足かせとなっていた。
永続的な成長のためには、外へと勢力圏を伸ばし、成長のためのエネルギーを吸収し続けなくてはいけないのだが、
軍事力を背景とした覇権争いは、国外に敵を増やすだけで、
かつて世界の工場と呼ばれていた時期はまだなんとかなったが、
急速な高齢化社会の到来で労働力は低下、
一気に作りすぎた社会インフラもまた社会の足を引っ張る結果となり、
宇宙強国になろうという目標も、いちおうは達成したものの、巨額の投資に対する回収がまだ終わっていない。
「エンデヴァー」は彼らよりも先行して、木星、土星の開発のための足掛かりを残すことができるのか。
そんな乗組員の思いとは無関係といったように、中国からは木星探査船に関するニュースは全くなかった。


*     *     *     *

日々、軍から理沙の元に届くニュースも、全くと言っていいほど平穏なものだった。
理沙は、「エンデヴァー」の乗組員の一人として、自分に任された担当の仕事をこなし、
就寝前に上司への報告をまとめ、翌朝一番に上司からの返信に目を通す。
「エンデヴァー」の乗組員の仕事は、大きく6つに区分けされていて、各区分けを2人で担当することになっている。
理沙は動力系システムの主担当である。
核融合炉と動力変換システム、推進システムとのインターフェイス部分を担当し、
1日のうち1時間はコクピット、2時間は中央制御室で点検を行っていた。
その日も、いつものようにコクピットで画面を見ながら点検をしていると、船長がやってきた。
「ああ、ちょっとあとで時間貰えませんか?」
自分に対しては、他のメンバーに対する話し方とどうも温度差がある。
いつかは船長に言おうと理沙は思っていたが、画面から顔を上げて振り向いた。
「あと10分ほど待っていただければ。会議室でいいですか?」
「いいですよ。では」
船長は出ていった。理沙は再び作業に戻った。


「情報はまだ何も?」と、船長。
ええ。。。理沙は頷いた。
「あればいつでもお伝えします。とにかく、恐ろしいほどに静かです」
そろそろこれから寝ようとしているメリッサが、2人のすぐ脇を通り過ぎていった。
理沙は彼女と一瞬目が合ったが、お互いに声を交わすことはなかった。
船長もまた彼女の方を見たが、再び中国の動向の話に戻った。
「まぁ、彼らの事だから。いきなり大きな花火を打ち上げてくれるものだと思っている」
壁にある、航路表示のチャートを指さして、船長は
「今すぐに追いかけてきたとしても、彼らは間に合わない。あと1か月少々でこちらが先に到着するわけだし」
「でも、そんな予想を裏切るのが彼らです。今のところ静かなのは、何か理由があるのだと私は思います」
理沙は、航路表示のチャートを縮小し、太陽を中心とした太陽系全体が見渡せるようにした。
「今ここに地球、そして木星と土星の位置関係」
地球から木星へと一直線に伸びる「エンデヴァー」の航路。
その直線からほぼ90度はずれて土星がある。
「木星に1か月後に到着したとして、約半年木星での調査、そのあとに土星へと向かいます」
理沙は「エンデヴァー」の今後の予定ルートを指で示した。
腕組みをして、船長は笑みを浮かべているだけだった。
「それはわかっている。いつ何時ミッション変更の指令がくることになるかも。ただし、その時までは勝手に動けない」
そこで、と前置きして船長は、
「指令とはいえ、皆で議論することになると思っている。理沙、もしそうなった時のあなたの意見は?」
「仮定の話にはお答えできません」
かなり長い間が空いた。理沙は船長の目をしっかりと見つめていたが、やがて笑みを浮かべながら、
「おそらく、かなりタフな議論になると思っています」
2人の会話はそこまでだった。
理沙は居住区部分のシャフトを通り抜けて、動力区画へと向かった。
途中で再びメリッサとシャフトの途中ですれ違ったが、彼女におやすみなさいと声をかけただけだった。


*     *     *     *

翌朝の、上司の中佐からの返信には、[重要/機密]のフラグが立っていた。
最高倍率の中国の作業プラットフォームの映像が含まれていた。
探査船の船体あちこちに取りつけられているセンサー類含め、かなりの詳細まで確認することができる。
準備は万端のようである。
また、小型のシャトルが今日になって横づけされていた。
「出発は近いと思う。早ければ今週中。しかしながら、出発予定に関するニュースはまだない。目的地も不明だ。
動向については引き続き随時伝えるが、緊急の指令になるかもしれないので、そのつもりで常時待機していて欲しい。
「エンデヴァー」が先に木星に到着するのはほぼ間違いないとしても、前回の「ディスカバリー」計画のこともあり、
事業団も軍も最高警戒レベルで対応している。とにかく、事故やミスがないように心してほしい。
昨日、外交筋の情報だが、もしかすると「エンデヴァー」に先を越されるのは重々承知で、別なことを考えているのではないか。
世界から注目される事を常に考えている彼らの事だ。そして、万が一の時には」
理沙は次の一文に自分の気持ちが引き締まるのを感じた。想定の範囲内ではあるが。
「あなたの判断に任せるが、手を下してもらっても構わない」


*     *     *     *

中国の動向とともに、理沙が常に気にすべきことはもう一つ、メリッサの動向についてだった。
彼女の事業団の中での職務経歴については全く問題はない。
しかし、彼女を要注意人物としてマークすべきというのが、中佐からの要請だった。
船内でも彼女は、職務に忠実な、明るく振舞っている気さくな人だった。
もちろん、乗組員は皆、彼女が火星のエリシウム基地での悲劇的な事故の犠牲者であることを知っている。
その事について触れる事は、タブーであることを皆承知していた。
今はその事に触れるべきではなく、仕事に集中しよう。
出発までの間、乗組員12人は世間から隠された状態だったので、世間から追い回されるストレスもない。
あとは木星と土星に向かい、ミッションを粛々とこなすだけだ。
理沙が到着したことが、そんなストレスのない彼らの生活に変化をもたらした。
居住区画内の、人工重力区画の中を、自由時間にランニングをしている間も、理沙はメリッサのことを気にしていた。
人の心の中は誰も読み取ることはできない。
しかし、心の奥底に秘めていることは、ある日突然に表面化する。
ランニングを終えて、シャフトの所まで上がり通路途中の観測窓のところまで歩いたところで、コクピットからメリッサが出てきた。
「もう寝るの?」
メリッサが声をかけたきた。
理沙は観測窓の窓枠に腰かけた。「ええ」
理沙が軍人であり、元々の要員の一人と出発の直前に交代になったことに、彼女は非常な違和感を抱いていた。
さらには、出発直後の会議の場での理沙からの、国の威信がすべてに優先するという発言に、彼女は強く反応した。
[では、私たちの気持ちはどうでもいいというの?]
「順調?」
理沙の問いかけに、彼女は笑顔で、
「ええ、順調。それよりも理沙は?」
会議の場での発言から、1か月ほど経つが、はっきりと意見を述べたことが果たして良かったのか。
「いろいろとあるわね。でも、今のところは平穏」
そうだよね、メリッサはそう言うと、居住区画を抜けて作業モジュールの方に向かっていった。


*     *     *     *

ちょうど同じ頃、地球/月L2の中国の作業プラットフォームから、探査船が出発した。
その知らせは30分後には理沙のもとに届き、理沙は船長と当直の6人の乗組員を急遽集めて状況を説明した。
「想定はしてはいましたが、さきほど出発しました」



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