将来への足場作り

毎朝のルーチーンである自分の体のチェックを終えると、理沙は個室を出た。
他の乗組員と比べて、余分な2つ分のコンテナの中には、サイボーグの体の状態をチェックし、
不具合箇所があれば地上の医療スタッフと自動的に連絡を行い、必要な治療を行う事が可能な機器が搭載されている。
「エンデヴァー」が地球を出発して3か月少々になるが、今のところ理沙の体に問題は発生していない。
部屋を出て、1G区画から中央シャフトに入り、船体後部へと向かう。
「おはよう、理沙」
メリッサがちょうど目の前の作業区画のドアから出てきた。
「探査機の準備は、終わった?」
理沙が尋ねると、彼女は親指を立てて笑みを浮かべている。
「了解」
理沙が作業区画へ入ると、機器類の取りつけが完了した探査機が待っていた。
その周囲をゆっくりと回って各機器の状態を理沙はチェックした。特に問題はなかった。
自分の仕事を始めようと再び中央シャフトに戻り、船体後部へ向かう。
その時ちょうど船内アナウンスがあった。メリッサの声である。
「探査機の準備が完了しました。エウロパ着陸のための準備を始めてください」
作業を終えた彼女は、このあとは食事をしてプライベートの時間のはずである。
船内では、淡々と仕事が進んでいた。いちおう表向きは。


*     *     *     *

木星調査タスクの進捗状況をチェックしつつも、船長は中国の探査船の動向も気にしていた。
「エンデヴァー」では、3日前にエウロパへ向けて探査機を送り出し、エウロパ周回軌道への投入が完了した。
着陸地点の選定後、探査機は表面に着陸する予定である。
理沙が担当する、木星の大気組成分析のためのマルチスキャンも明日から開始する事になっていた。
大気の組成を精密に分析することは、近い将来に始められることになっている、
木星大気からのヘリウム3採取事業に向けた、必須の調査項目である。
「これが、事業化が成功するかどうかの要になりますから」
船長は、機器の準備をしている理沙を眺めながら、純粋な気持ちで淡々と作業に取り組んでいる姿に心をうたれていた。
事業団上層部からは、土星行きへの決定はまだかといまだに催促のメールが届いている。
もしろん、中国の動向は気になるのだが、純粋な科学的調査をおそろかにすることができるだろうか?
毎日、淡々と仕事をこなす乗組員に対して、船長は自分が防波堤になろうと心に決めていた。
とはいえ、軍人の立場でもある理沙はいったいこれからどうしようと考えているのか。
「ちょっと、時間あるかな?」
船長は、17時の進捗会議が終わったところで理沙の事を呼び止めた。


会議室に残った2人は、しばらくの間雑談をした。
船長は、士官学校時代の同じグループの訓練生のこと、そして理沙の一発逆転の伝説的な出来事について語った。
またその話ですかと、理沙は少々恥ずかしがりながらも船長の話題についていった。
しかし、それは単なる前振りであることはわかっている。
さてそこで、と船長はようやく話を本題へと切り替えた。
「私がいまだに決めない事で、困っているんじゃないかと」
「何の事でしょう?」
しかし、言葉を返した理沙の表情は明るかった。
「ええ、船長が何を仰りたいのかわかっています」
理沙は、軍側でも中国の動向に常に目を光らせていて、一番乗り阻止を今でも画策していることを話した。
「でも、今回のミッションは純粋な科学的調査です。一度は私から先走ったことを口にしてしまいましたが、もうやめました」
目の前にあるタスクに注力し、しっかりとした成果を残して、土星行きはそれからでもいい。
理沙は、さきほどの進捗会議の際のマルチスキャン作業の件に再び触れた。
エウロパへの探査機投入や、原子力ラムジェット機での大気サンプル採取と比較して、
非常に地味で目立たないように見える作業ではあるが、理沙にとっては重要なミッションだった。
「かなりいいデータが取れています。ヘリウム3の分布が詳細に判明すれば、事業化開始の判断にもなります」
生き生きと自分の仕事の状況について説明する理沙。
その後は、来週から開始される灯台衛星の設置についても触れた。
灯台衛星は、木星を周回する軌道上に配置される、位置情報提供用の衛星である。
この衛星の助けにより、宇宙船は木星周回軌道上のどこであっても、メートル単位の精度で自身の位置を知る事が可能となる。
灯台衛星もまた、今後の木星の開発に必要不可欠なインフラ設備である。
まずは5年以内に、6つの異なる軌道に合計24基の衛星を配備する計画であるが、
今回、「エンデヴァー」に課せられているのは、4基の衛星の軌道投入である。
「私も来週には手が空きますので、そちらを手伝うことにします」
「ありがとう、助かります」
船長のねぎらいの言葉に、理沙は爽やかな笑顔で応える。
彼女は席を立ち、動力システムの日時点検のために船体後部へと向かっていった。


*     *     *     *

木星のマルチスキャン調査が粛々と進み、
翌週から理沙は、灯台衛星の準備作業のためにメリッサを手伝うことになった。
灯台衛星の準備は予定より1日前倒しで完了し、最初の1基が軌道に送り出されるのを理沙はメリッサと一緒に見守った。
「ありがとう、理沙」
理沙は彼女の方に振り向いた。そして無意識的にそっとメリッサの方に手を差し出す。
差し出された理沙の手に、メリッサはなぜか少し身を引いてしまう。
「ああ、ごめんなさい。つい癖が」
理沙は手を差し出すのをやめた。
理沙の表情の変化が気になったのか、メリッサは理沙の顔色を覗き込みながら、言った。
「あなたって、本当に何でもするのね」
「当然のことよ」
理沙は工具の入ったアタッシュケースを拾い上げて、脇に抱えた。
「それがあたしの仕事だから」
連結セクションで2人は分かれ、理沙は手すりを伝わりながら1G区画へと降りていった。
メリッサは船長のいるコクピットへと向かおうとした。
しかし、通路の途中で立ち止まり、手すりに捕まりながら窓の外を眺めていた。
先ほどの理沙の表情が再び気になった。
同僚として、彼女は非常に魅力的な人物である。
赴任すると最初の日から、船の動力システムをしっかりと管理し、船全体のシステムにも積極的にかかわり、
知識の吸収スピードと柔軟な考え方に、メリッサは非常に心を打たれた。
何よりも、軍人であるゆえミッション完遂について強い思いがある。
それと比較して、自分はしっかりと彼女の思いに応えているのだろうか。
頭では理解していても、心の奥底にあるトラウマが未だに邪魔をしている。
差し出された彼女の手を、どうして素直に受け止めることができないのか。
メリッサは、じっと自分の手を見つめた。
うっすらとではあるが、手のひらが汗で濡れていた。


*     *     *     *

なんとなく、煮え切らないような気分。
その事を意識しているのはメリッサだけではなかった。
仕事は粛々と進んでいる。何事もトラブルなく進んでいるのは非常に良い事ではあるが、
いまひとつ気持ちの盛り上がりに欠けるのはなぜだろうか。
そんな気分でいる乗組員のことを横目で見ながら、理沙は自分に課せられている仕事を粛々とこなす。
朝目が醒めると、毎日のルーチーンである機器を使用した自分の体のチェックを行う。
地球を出発してから4か月以上になるのだが、内臓の機能については申し分ない状態である。
脳と神経系をつなぐ、生体インターフェイスについても、神経系伝達においてのエラー情報の増加は見られず、
すこぶる調子がいいという状態だった。
自分と同様のサイボーグが、これから宇宙で活躍していくにあたって、理沙の体から得られる生の情報は非常に貴重である。
機械のセンサーパッドを腕から取り外し、理沙は自分の部屋を出る。
シャフトの連結部分で、理沙はちょうど船長とはち合わせになった。
そのまますれ違って動力区画に向かっても良かったのだが、理沙が船長のことを呼び止めようとすると、
船長もまた理沙を呼び止めようと手を挙げていた。
「あとで会議室に集まれるかな?」
何かあったんですかと理沙は船長に尋ねた。
「いろいろな動きがあってね、この船内で」
もったいぶったような、その意味深な言葉に理沙はすぐに反応した。
「いよいよですか」
船長は小さく頷き、コクピットの方へと向かっていった。


*     *     *     *

「そもそも、この船は」
メリッサがいつもとは違う、険しい口調で話し始めた。
「純粋な科学調査のためのものです。国家間の競争のためのものではありません」
会議の場は、中国の探査船が土星に向かうのを、ただ指をくわえて見ているだけなのかという意見から始まった。
特に強い意見を持っていたのが、通信システムの担当者だった。
細かい内容にまで触れる事はなかったが、彼は合衆国政府から事業団に対して圧力がかかっている事、
そして事業団から船長に対して、木星での調査打ち切りと、土星へ最速で向かう事について指示が届いているという事を知っていた。
「エンデヴァーには最速で土星に向かえるだけの能力がある。その能力を遊ばせておくのはもったいない」
「それは理由にならないわね」メリッサはすぐに通信システム担当者の意見に割り込んだ。
「そして、追及したい事はもうひとつ。軍も同じようなことを考えているんじゃないかと」
メリッサの意見の矛先が理沙に向けられた。
「仕事に集中しているように見えて、実は裏ではこの船のことを操ろうとしている」
「そんな事はないよ、メリッサ」
しかし、既に会議室の雰囲気は、木星での調査続行と、調査を打ち切り早急に土星に向かうという意見で対立していた。
2つのグループに別れて、お互いに意見を言う状況がしばらくの間続いたが、
「わかった、お互いに意見を言い合うだけでは先に進まない」
船長からの意見で、木星での調査続行か、それとも打ち切りするかの投票が行われることになった。



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