土星の環
木星ほどではないが、やはり大気ブレーキ中の待ち時間は苦痛でしかない。
今日は理沙はブリッジで船内システム全般とパイロットの補佐を担当する当番の日だった。
狭いブリッジの中で強烈な減速Gに耐える。
目の前の展望窓からは流れる炎が見える。
「エンデヴァー」は全身を炎に包まれ、時々軋む音がするが、どうやら無事に耐えているようである。
喧騒の中で、船長とパイロットと3人で待ち続ける。
「エアロブレーキ終了」
パイロットが言い終えようとしたところで、理沙は既にシートを作業コンソールの方に向けていた。
「各機器の状態を確認」と船長。
「了解、チェックを開始します」
理沙は画面に表示されるチェックリストを機械的に読み上げる。
パイロットがそのたびに復唱する。長い、単調な作業が続く。
10分ほどかかってリストの読み上げが終わる。しかし、理沙の仕事はまだ続く。
理沙はシートベルトのロックを外して席を立った。
「リアクターのチェックに行ってきます」
ブリッジが船長とパイロットの2人だけになるのが若干気になったが、とりあえずドアに向かう。
「了解。よろしく頼みます」
船長の声を背中越しに聞きつつ理沙はブリッジを出た。
* * * *
狭いブリッジを出て、理沙は居住区画までの間の短い通路に出る。
船体が小さく揺れるのを感じる。
減速中は回転を停止している1G区画が、再び回転を始めたところだった。
通路の途中には展望窓があるのだが、減速中はシールドで保護している。
「通路のシールドを開けます」
理沙はインターコム越しに船長に言った。
「問題ない。開けてくれ」
シールドがゆっくりと開く。
徐々に開いてゆくにつれて窓の外の光景が見えてくる。
一瞬、光の筋のようなものが見えたと思ったが、それ以上の光景が外には広がっていた。
理沙の想像力を超えた、感覚だけでは受け止める事ができないほどの広大な光景がそこにはあった。
大気突入前にも、モニターの拡大映像は何度も見ていたのだが、直接に見るのとは感覚的には大違いである。
光の筋のように見えたものは、構造体のごく一部。
さらに巨大なアーチが窓の外いっぱいに広がっている。
眼下には、太陽の光をあびた白や黄色の筋状の雲海。
対して、上空高くにはいっぱいに広がる巨大な環。
同心円状の細い筋が何百、何千とあるように思える。
しかし、地球上のスケール感とは比較できない程の巨大な筋。
窓から見える、端から端までは、40万キロ近くあるはずだった。
狭い通路の中で理沙はただ一人でこの風景を眺め、
視界いっぱいに広がるこの光景をなんとか自分の感覚で受け止め、心の中にとどめておきたいと思った。
それと同時に、恐ろしく遠い世界に来てしまったものだと、背筋が寒くなるような孤独感も感じた。
宇宙船そのものが消滅して、もしこのままの状態でたった一人放置されて空間を漂っているとしたら。
真空中に放り出されて、全身360度すべて宇宙空間に漂っている自分の事を、理沙は想像した。
眼下の土星の雲海。頭上いっぱいに広がっている土星の環。
土星の引力に引かれて落下することもなく、静止した状態で一人漂う。
呼吸が苦しくなることもなく寒さも感じない。
無感覚で無音の状態。
ゆっくりと環の方に手を伸ばしてみた。
巨大な環がもしかしたら手で掴めるのではないかと錯覚する。
光の細い筋が、理沙の手のひらの中で壊れてゆく。
脆い環は小さな氷のかけらで構成されていることは知っていた。
さらに手を伸ばすと、自分の手のひらが環の向こう側に透けて見えた。
想像の世界ではどんなことでも実現可能だった。
理沙は心の中で40万キロのこの巨大な構造物を受け止めていた。
* * * *
ポケットの中から取り出した端末で、巨大なこの構造物を画像におさめた。
今日この日の思い出として。11人の他の乗組員のことも、中国との国家間の対立の事もしばしの間忘れて。
「理沙」
背後のスピーカーからパイロットの声が。
「ご鑑賞中に、すまないわね」
端末をポケットの中におさめて、浮いて乱れている髪を整える。
「そろそろ仕事に戻ってください」
「了解」
スピーカーの向こう側にいるパイロットに敬礼し、理沙は動力区画へと向かっていった。