目標まであと少し

タイタンの靄のかかったような空。表面に近いところに土星が見える。
メリッサは、着陸船から50メートル程離れたところを一人で歩きながら、物思いにふけっていた。
自分も含め、着陸船に乗り組んでいる3人のこれからの事がどうしても気になるが、その事はできるだけ考えないことにした。
「中継の準備ができました。船の近くに戻って」
上空1000キロメートルのところを飛行している「エンデヴァー」から連絡が入った。
メリッサは着陸船に向かって歩き出す。
「なんだか。。。」
彼女は今も準備で忙しい理沙に言った。
「悲劇のヒロインはあたしに似合わないね」
しかし、理沙はその言葉をジョークと受け取ることもなく。
「5分前です」
着陸船の近くまでやってきた彼女は、内部から何かが噴出して、パネルがめくれ上がっている船体後部を改めて眺めた。


*     *     *     *

予定した作業をすべて終えて、あとは「エンデヴァー」に帰還するだけ。
タイタン一番乗りは中国に負けたが、そんな事はどうでもいいとメリッサは思った。
土星に今いるのは2つの宇宙船と18名の人間だけ。それっぽっちの人間が争っていったい何になる。
つい先日にはお互いの健闘を讃えてエールの交換をしたばかりだった。
「出発前のチェック」
チェクリストに従い、念のために各機器のチェックを始めた。
動力系、生命維持、推進剤。「エンデヴァー」側でも復唱する。
「推進剤タンクの圧力が微妙におかしいね」
「バルブの再チェックをします」
しかし、メリッサが目視した数値に異常はない。
「モニター上の問題かも」
センサー系の一時的な不具合だろうと思ったが、再チェックのためにメリッサはいったんリセットをかけることにした。
リセットしてセンサー系が稼働状態になるまで待つ。
遠くで小さな爆発音が聞こえた。
「なんだなんだ?」
ちょうど外で荷物の積み込みをしていた2人から声がかかる。
「何か噴き出している」
メリッサには何が起きているか見当もつかなかった。外の2人に確認を求める。
話をしているうちに、操作パネル上にアラート表示が出た。
推進剤であるメタンと、酸化剤である酸素タンクの圧力が急激に低下。
各々2つあるタンクのうち1つが空になりかけている。
反射的に彼女はバルブを閉めた。配管は2重化されているので全タンクが空になる事態は避けられたが、
ようやく事がおさまってから、メリッサは一大事であることを痛感した。
パニックにならないように、操作パネルの表示を再度チェックしてからメリッサは言った。
「エンデヴァー、こちらで問題が起きたようです。これから状況の詳細を伝えます」


*     *     *     *

「エンデヴァー」ではすぐに会議が招集された。
画面の向こう側のメリッサからの状況報告が終わると、船長は、
「了解。こちらも全面的にバックアップする」
しかし、状況は絶望的なのは会議室の皆が分かっていた。
4つの推進剤/酸化剤タンクのうち2つが破損。
修理は難しく、残る1つの酸素タンクも残り少ない状態では、たとえタイタンから飛び立ったとしても、
「エンデヴァー」までの高度に到達することはできなかった。
極力荷物を投棄して、機体を軽くしてもまだまだ不十分。
帰還を延長して、その間にあらゆるプランが検討されたが、単なる時間稼ぎにしかならない。
中国側からも着陸船の提供の打診があった。
しかし、着陸船は2人乗りで非常に小さく、3人すべて救出するには時間がかかる。
「エンデヴァー」自身を低軌道まで降下させて、飛び上がった着陸船を拾い上げる方法も検討されたものの、
失敗すれば3人どころか12人全員の命が危ない。
検討案の一つとして、本来は木星の大気中でテストする予定で結局使われなかった、
原子力ラムジェット機を活用できないかと、理沙がアイディアを出してきた。
即席の改造をすれば救出に使えそうだとわかり、9人は交代で作業に取りかかった。


*     *     *     *

「こちらタイタンです」
メリッサは、船外カメラに向かって話し始めた。
「残念ながら、地球にお土産を持ち帰ることはできなくなりました」
カメラを山のように積み重なったコンテナに向ける。
カメラを手に取り、彼女は歩き始めた。
小高い丘の上に立つと眼下に広い土地を見渡すことができた。
「この景色は今日で見納めです。あす私たちは「エンデヴァー」に帰還する予定です」
そこまで言って、彼女の心の中に不安がこみあげてきたが、ひと呼吸おいて、
「よくもまぁこんな遠いところまで来たものだと思いました。
中国の乗組員も同じような気持ちかと思います。遠くに来てもなお地球のことを思うのは私たちと同じ事。
私達は宇宙で住むにはまだ早くて、心の底では故郷をなつかしく思う心が残っているのです。
とはいえ、夢物語だと思えた宇宙旅行も、月と火星には人が住み、木星と土星にもそれなりの短期間で行ける手段ができました。
あと何十年したら、この広い土地にも居住設備が建設されているかもしれません」
理沙は画面越しにじっと彼女の中継を見ていた。
声は非常に落ち着いていた。あす予定されている救出作戦の説明も完了している。
一抹の不安はまだあるが、その事を気にしているからだろうか。
「人が住み始めれば、故郷として感じる人もいるでしょう。ここで生まれる人もいるかもしれません。
正直なところ、私はまだ地球に未練があるのでそのような気持ちにはまだなれません。でも、あと少しかもしれません。
この土地に根を下ろして、しっかりと自分の足で立って」
言葉に詰まったのか、次の言葉がメリッサからなかなか出てこなかった。
理沙はインカムを通して彼女に語りかけようと、スイッチに手を伸ばそうとしたが、再びメリッサは話し始めた。
「明日、私たちは「エンデヴァー」に帰還します。仲間の元に戻ります」
中継は終わった。
理沙はスイッチに手を伸ばして、彼女に言った。
「ひやひやしたよ」
「ごめん」
さきほどまでの落ち着いた口調と違って、動揺しているのが声からもよくわかった。しかし、
「あとは任せたよ。もう何があっても気にしない」


*     *     *     *

ほんの少しではあるが、事故後の最初の対策会議の際の船長の言動に、理沙は何かを感じていた。
原子力ラムジェット機の改造が完了し、作業の段取りもできあがったところで、船長と2人だけで話をした。
「少し気になるのですが」
他のメンバーが各々の部屋に戻っていったのを見計らって、
「もしかして、疑っていたとか」
不眠不休の救出作戦準備の間も、理沙は船内の微妙な空気を感じ取っていた。
理沙は予備搭乗員から急遽正式に乗り込むことになり、
メリッサからも疑いの目で見られていたこともあったので、その事はよくわかっていた。
船長が答えるまでにかなりの時間がかかった。ようやく口を開くと、
「そうだ」
しかし、すぐに理沙の事をフォローした。
「とはいえ、私は船長だ。皆がどんな背景でこの船に乗り込もうと、同じメンバーとして平等に扱う」
理沙はその言葉に納得し、話はそれで終わった。
2人は居住区画に向かった。窓の外のタイタンを見ながら通路を進む。
「理沙」
理沙は船長の方に振り向いた。
「明日は絶対に成功させよう。根を下ろすなんて言われたからには」
「そうですね。今夜はしっかりと休みます」
明日は、今までにないほどに大変な一日になりそうだと理沙は思った。



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