忘れられない事

地球に帰還すると、派手なパレードはなかったが、記者会見で報道陣を前にして彼らのインタビューに答え、
ミッション期間中の数々のエピソードについて個別に記者と会話をした。
そんな事をしているうちに1か月があっという間に過ぎた。
テキサスの事業団事務所に戻ると、中佐から理沙の昇進についての話があった。
おそらく中佐からの推薦もあったのだろうと思った。
理沙は中尉から2段階昇格し少佐になった。
「そして私も大佐に昇格することになった」
「おめでとうございます」
理沙が探査ミッションで不在にしていた間の、身の回りのどうでもいいような雑談のあと、大佐は、
「これからはもいろいろと大変かと思うが、よろしく頼みます」
「わかりました」
2人は同時に席を立ち上がり、テラス席へ向かう廊下を一緒に歩いた。
「しばらくの間は内勤で退屈かもしれないが、頑張ってほしい」
「その前に、少しの間休暇を頂きたく」
理沙がそう言うと、大佐は笑った。
「では、休暇から戻った時のために、たんまりと仕事を用意しておこう」


2週間の休暇から戻り、理沙は次のタスクのためのプランニングを行った。
目先のプランとしては「エンデヴァー」の2度目の探査ミッションの為の準備。
最初のミッションで果たせなかった、木星大気のサンプル採取が大きな目玉で、
その他、推進システムについての課題解決等、今後の開発計画推進に必要な作業項目のチェックリストが作成され、
優先順位がつけられていた。
しかし、何よりもまずは予算の確保。
既に3回分の探査ミッションについては予算承認がとれているので問題はないが、
その先、4回目以降の予算については、費用分担している10か国がみな白紙状態に近かった。
「だからこそ、成果をあげなくてはいけない。しかも早急に」
事業団長官からは早速プレッシャーをかけられた。
「予算獲得が、当面の私のミッションです」
いやいや、長官は首を振ってゆっくりとイスにのけぞった。
「探査の次には、事業化のための予算獲得、そのための協力会社の技術開発の監督、調整」
理沙は、長官から次々に自身にぶつけられてくる課題を、冷静に頭の中で整理し、リスト化した。
何もかもをすべて一気にはできない。
早速、頭の中で整理した課題を、次々にリスト化して各タスクリーダーに対して説明した。
頭の中にあるリストを、順番に述べるだけでよかった。
考えていることが次々によどみなく口から出てきて、
大量の課題は、わずか1時間の打ち合わせの中で各タスクリーダーに伝える事ができた。
打ち合わせを終えると、すでに夕刻。
大佐に今日1日の状況を報告すると、ひとりでテラス席へ行った。
コーヒーをゆっくりと飲みながら、夕焼け空を見上げ、
そこでふと、自分はとんでもない世界にいるのではないかとの錯覚に襲われた。
見慣れている、既に自分の生活の一部になってしまっている世界だったが、
こんな場所に自分が存在していていいのだろうかと思えてきた。
少なくとも、20年前には自分がこんな場所にいる事は、想像すらできなかった。


*     *     *     *

「いつまでもずっと、あなたの事を見ているからね」
店を辞める日の夜、理沙は親友からの言葉を背を向けて聞きながら、かけられた言葉の裏にある非常に冷たいものを感じ、
振り返り、彼女がまだ自分のことを見ている事に、少しばかりの恐怖を感じた。
彼女に対して手を振り、前を向いて歩き始める。
その後親友と自分から連絡をとる事はなかったが、
昼は仕事に没頭し、夜はバンドメンバーとレッスンやライブハイスで歌う事で親友の事も忘れかけていた。
しかし、彼女からの連絡があったのは、執拗に追ってくる店での元客に悩んでいた時だった。
「あなたが困っているだろうと思って、始末した」
言葉が出なかった。
最後に見かけた時のように、冷たい笑みを浮かべながらこちらを見ているように思えた。
あと少しで夢に手が届くところまで来ていると思ったのに、その気持ちは一気に冷めた。
心から気持ちよく歌うことができなかった。
不慮の事故で亡くなった、伝説の歌手の姿もまた強烈に心に残っていた。
理沙は、歌うことを諦めた。


埃にまみれながら、地を這い、塀を登り、体力の限界まで走った。
夜はくたくたになってベッドに横になるが、どこからともなくやってくる敵からの襲来に備えなくてはならない。
ほんの数秒の間ではあるが、暗闇の中で殴打され、気がついた時には敵はどこかに消えてしまっている。
死の危険はないものの、敵の予測不可能な襲来に備えるのは、精神衛生上よろしくない。
そして理沙は、おそらく敵の本丸と思われる存在と対峙することになった。
訓練兵の中でも格段の体力の女性兵。
身長、体格においても、明らかに理沙の方が不利だった。
しかし、理沙は彼女の事を挑発し、真正面から立ち向かうことにした。
訓練とはいえ、間違えれば命を失う危険性もある。
がっつりと組んで、体力で対抗しようとしたが、全くもって歯が立たない。
さっそく理沙は彼女に締め付けられてしまった。
もうこれでおしまいだ、しかし、弱いところを見せてあともう少しでひねり潰されそうになるところまで耐え、待った。
じっと耐えながら冷静にあたりを見渡す。
スキを探すためだった。
そして発見したわずかなスキを狙って、理沙はある一点に全てを集中した。
不意を突かれ、強烈な痛みに女性兵は体のバランスを崩す。
理沙はそのチャンスを生かして体勢を立て直し、一気に押し倒した。そして喉元にナイフを突き立てる。
極限の状態でも、勝てる見込みがあれば体格の差は大したことではない。
理沙の頭の中で、何かが閃いていた。


地上がスローモーション撮影の映画のように迫っていた。
着陸まであと数秒というところで、シャトルは気流の乱れによって体勢を崩した。
ほんの一瞬のことなのに、機体が一回転し、リフティングボディ先端の垂直尾翼がもぎ取れ、
次に翼がもぎ取れるのを、理沙は冷めた目で見ていた。
だからといってどうにもならない。
必死に座席にしがみつき、何度も機体が横転し、どうにか芝生の上で停止したものの、
残存燃料が燃えだした時には、もう助からないと思った。
消防車やレスキュー隊の車両がすぐにやってきたが、座席に挟まれて身動きが取れない。
意識が徐々におぼろげな状態になり、全身に強烈な熱さが襲い、気絶した。
それからどれだけの長い時間が経ったのか、時間の感覚のないところでかなりの時間を過ごしていたようで、
ゆっくりと目を開けると、白い天井の部屋、静かな部屋でベッドの上に寝かされていた。
ああ、もう起きなくては。
センサーパッドのついた数本のケーブルを剥ぎ取り、ゆっくりと起き上がる。あたりの風景がぼんやりしている。
一度目を閉じて、再び開けようとする。
一瞬、瞼を開けたのに何も見えなかったので恐ろしくなったが、すぐに見えるようになった。
ベッドの上に座り、すぐ手元にあるスイッチを操作すると、カーテンが開いた。早朝の陽射しが部屋に差し込んでくる。
背後でドアの開く音がして、ゆっくりと振り向いた。
慌てた様子の医師と、看護師が立ってこちらを見ている。
再び先ほどのように、突然に視界が消える事がないだろうかと思い、ふと恐ろしくなった。


「エンデヴァー」の探査ミッションから帰還して3か月後、理沙は、軍から新しい宿舎を提供されることになり、
手続きと鍵の受け取りに軍の指令所に出頭した。
新しい宿舎に向かおうとしたところ、廊下で女性士官とすれ違った。
彼女は理沙に気がついて声をかけてきた。
見かけたような女性だなと思ったが、ID表示を見て単なる人違いだと分かった。
士官学校の時に正面きって戦った女性兵になんとなく似たような雰囲気だったが、口調は穏やかだった。
「少佐に昇格されたようですね。おめでとうございます」
理沙は軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
話はそこまでで終わりだろうと思ったのだが、彼女はまだ話しかけてきた。
「あなた、実戦のご経験は?」
穏やかな話し方だったが、理沙は穏やかならぬものを感じた。
「いいえ」
そうですか、彼女はそう言うと頭を下げて静かに去っていった。
実戦の経験の有無がなにか気にかかるのか。軍人として実戦の経験が昇進を左右するのか。
静かなオフィスで、リモート操作でアンドロイド兵士を指揮し、ディスプレイ上で戦況に一喜一憂するのが偉い事なのか。
リーダーたちを前にして、次のプランのために共に頭で汗をかく今の仕事も、まんざらではないと理沙は思った。


*     *     *     *

外はすっかり暗くなり、一日の仕事を終えて理沙は帰宅することにした。
新しい宿舎は、今まで住んでいた場所からは少々遠いが、部屋は今までの倍の広さがあり快適だった。
事務所のロビーで、理沙を呼び止める声がして、振り向くとヴェラが立っていた。
「エンデヴァー」乗船中も何度も連絡はとっていたが、生で会うのは2年ぶりだった。
2人はしっかりと抱き合った。
「おお、心の友よ」と、ヴェラ。
理沙は、高ぶる気持ちを無理やり抑えて、
「あら、そうだったかしら?」
そしてお互いに大声で笑った。



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