サンプル採取

木星の雲海を眼下にして、「エンデヴァー」は飛行していた。
既に原子力ラムジェット機は切り離され、さらに低い高度を飛んでいる。
まもなく最初の実証試験が行われる予定である。
しかし、理沙が今管制室で見ている映像は、1時間前の出来事である。
木星にいる12人の乗組員がじかに見ている映像は、果たして粛々と試験が行われているところなのか、
または何らかの不具合が発生して、原子力ラムジェット機からの映像が途絶えている状態なのか、それはわからない。
乗組員の一人、原子力ラムジェット機含め探査機担当者の、淡々とチェックリストを読み上げる声を、
管制室のスタッフ皆が静かに聞いていた。
「あと5分で、上層大気に到達します。機体に異常なし」


「私も見ていてひやひやしましたよ。まさかあのような用途で使われるとはね」
土星から帰還し、再び事業団の木星資源開発プロジェクトに戻ってまもない時に、
理沙は原子力ラムジェット機の基本設計と、組み立て作業時に監督を勤めた技術主任と会話する機会があった。
地上の整備格納庫に搬送され、点検が始まったばかりの原子力ラムジェット機を、2人は窓ガラス越しに眺めた。
理沙の思い付きで翼の上に取りつけたハードポイントの部品が、ちょうど取り外されようとしているところだった。
「あなたのおかげで、本当に命拾いしました。ありがとうございます」
いやいや、というように技術主任は手を振った。
「そのくらいの事態は想定しておかないと。当然のことです」
90年近く前の、アポロ13号のミッションの際にも、月着陸船は救命ボートの役割を果たして3人の乗組員の命を救ったが、
今回は原子力ラムジェット機が3人の乗組員を救う救命ボートとなった。
「どのような大気中でも、燃料を使用しないで飛行ができるから、いろいろな使い方が出来るわけですよ」
翼の上のハードポイントが取り外されるところを、2人はしばらくの間眺めていた。
ハードポイントを取りつけたことによって、翼に想定以上のストレスがかかり、
構造材が痛んでいたとの知らせが理沙のもとに届いたのは、その3日後の事である。


*     *     *     *

モニター画面中央のナビゲーション表示が、原子力ラムジェット機からの映像に切り替わった。
既に木星大気への突入が始まっていて、翼の前縁部分は炎に包まれたような状態になった。
機体全体が高温のイオン化した気体に包まれたが、
通信は「エンデヴァー」よりさらに高い軌道を飛行している灯台衛星により、途切れることなく中継が行われていた。
前回の航海の際に、慌ただしいスケジュールの中、木星周回軌道上に配置した3基の灯台衛星はしっかりと役目を果たしていた。
原子力ラムジェット機は、上層大気をかすめるように飛行して、大気のサンプルを採取して「エンデヴァー」に持ち帰る。
サンプル採取の時間は、1時間ほどの想定であるが、機体は高温にさらされ、耐熱材が持ちこたえるかどうかが心配だった。
「コンプレッサーを作動させます。1分前」
翼の前縁部分には、大気を取り入れるためのすき間があり、高速でなだれ込んできた大気を、
2台のコンプレッサーがさらに圧縮し、タンク内に蓄える仕組みになっている。
設計システムの中だけの仮想の世界、シミュレーションの結果だけをもとに機体が作り上げられ、
模擬的に地球の上層大気でテストが行われたものの、木星大気でのテストはまさにぶっつけ本番。
コンプレッサーが動作を開始し、大気取り入れ口が高温にさらされ、小さなタービンが一気に高速回転を始めた。
モニター画面中央の表示は、包まれる炎だけになっていた。
機体は高ストレス状態にあったが、しっかりと持ちこたえていた。
取り入れられた大気がしっかりとタンクに貯蔵され、予定された量の取り込みが完了すると、翼前縁のすき間は閉じられた。
ここまでは順調だった。
あとは上層大気から脱出して「エンデヴァー」に帰還するだけである。


木星上層大気からサンプルを採取し、上層大気をスキップして距離をかせぐとともに、
原子力ラムジェットを最大推力にして「エンデヴァー」に帰還するテストも、特に問題なく行われ、
あとは「エンデヴァー」で採取した大気の分析を待つだけとなった。
前回の航海の際にも実施された、レーザーによる木星大気の分析、投下式の探査機による大気の分析で、
大気組成についておおよその調査が済んでいるが、サンプルを採取してみないとわからないこともある。
特に、ヘリウム3と水素の組成分析結果は、木星の資源開発が本当に採算に見合うものなのかの重要な判断材料であり、
木星資源開発プロジェクト、事業団スタッフ、そして一部の国会議員までも皆が注目していた。
今日この日がやってくるまで約15年。
管制室で大気の分析結果を待っている間、理沙はさかのぼること15年前の、
試験官を前にして自分の考えを述べた日のことを思い出していた。
よくもまぁあのような無茶な事を自分の考えのように述べたものだ。
[木星を、太陽系のハブ空港のような、物流拠点にできないかと考えました]
そのためには木星の資源開発が必要である。
核融合推進の宇宙船が、木星を中心に太陽系の各惑星をつなぐ未来。
面接の際に、試験官からは一蹴されたものの、今の上司である大佐の目に留まり、
今日まで理沙を後押ししてくれることになった。
そんな物思いにふけっていた時に、ちょうど大佐が理沙の隣の席に座った。
「まだ、かかりそうかな?」
理沙は頷き、現時点での進捗を大佐に説明した。
「ここまで15年かかった事を考えれば、あと1日2日なんて大したことない」
大佐もまた、理沙が今ちょうど考えていたことを口にした。
「今回の結果次第では」
理沙はモニター画面の方を見たままで、呟いた。
「私の責任が問われる事って、ありますか?」
大佐が小さく笑う声が聞こえた。
「それは、まずないと思う」
2人はしばらくの間、分析作業を見守る、船長と作業者との会話に聞き入っていた。
「誰かしらが責任はとらなくてはいけないと思うが、何もあなたが全責任を負う事にはならない。そもそも」
大佐はしばらく間をもってから、
「あなただけが考えたアイディアというわけではないから安心しなさい。
誰もが考えたであろうアイディアを、たまたた実現可能な時期に、あなたがプロジェクトに加わって、
そして今日がやってきた。それだけだよ」


*     *     *     *

サンプルの分析が完了した。
採取した気体は、水素とヘリウムが主成分で、微量ではあるがヘリウム3の存在が確認された。
管制室では、歓声をあげる者、ほっとして胸をなでおろした者が半々。
理沙は、さっそく目の前に座っているミッション責任者と握手し、オフィスに戻っている大佐に早速連絡した。
「首がつながったようだね」
冗談はやめてください、と言いたい気持ちになったが、理沙は大佐に感謝の言葉を述べた。
「エンデヴァー」からは、大気サンプルの分析結果のほかに、原子力ラムジェット機の機体の状態についての報告も入った。
機体の損傷状況は、2度目のテストを今回実施するかの判断の他に、実際に上層大気からヘリウム3を回収する、
量産型プロトタイプの原子力ラムジェット機の、要求仕様作成にあたっての重要な情報となる。
1度目のテストは、予定通りに完了したものの、翼前縁の複合材の損傷は想定以上で、
2度目のテストのためには、翼前縁の部品を、持参した予備部品に交換する必要があり、
管制室の指示を受けながら、作業をする事になり、2週間ほどの時間が必要と見積もられた。
原子力ラムジェット機の損傷の状況は、早速設計担当の技術主任にも伝えられた。
「まぁ、それも想定内ですよ」
前回会った時と同様、理沙からの連絡に対し、彼は淡々とした口調で今後の対応について述べた。
「そもそも、初めてのことをやるのでかなりの余裕を持たせていましたが、やはり自然は甘くない」
翌日に彼は管制室に現れ、ミッション責任者の隣に座り、「エンデヴァー」船長に作業の指示を行った。


*     *     *     *

今まで机上の世界だけで議論されていたものが、具体的に形となりはじめ、
今回のテストでは木星の過酷な状況がわかったものの、スタッフ一丸となって対応し、動き始めていた。
大佐が言っていた通り、自分はたまたま実現可能な時期にプロジェクトに加わり、皆と一緒に生の光景を見ているだけ。
とはいえ、まんざらでもないなと理沙は思った。
しかし理沙は、自身がかかわったもう一つのプロジェクトのために、命の危険にさらされ、責任を追及されることになるのだが、
それはまだまだ先の話である。



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