優先順位

「エンデヴァー」が2度目の航海から帰還し、木星への3度目の調査航海に向けた準備が始まった頃、
理沙は木星の本格的な資源開発に向けた、詳細なプラン作成に追われる日々が続いていた。
ヴェラは半年前に事業団を去り、時々は理沙と連絡を取り合うことはあったが、
夫との家庭生活の中で、徐々に仕事の事も忘れ、単調な日々を過ごしていた。
でも、まんざらでもないな。
ヴェラは、今までの忙殺されていた生活の方が異常で、今の生活こそが人間らしい、有意義な生活なのではないかと思い始めていた。
夫はSTU配下の関連会社で働いている技術者ではあるが、
月曜から木曜の週4日工場で働き、金曜日には地元の学校で工学の授業をアルバイトで担当し、
土日はヴェラと一緒に終日過ごす。
自宅の小さな庭にちょっとした家庭菜園を作ったので、野菜やハーブ類はほぼ自給することができる。
ヴェラは今まで一人で生活していて、料理はあまり関心はなかったのだが、
結婚を機に気分転換もかねて料理をやってみようと思い立ち、まじめにやってみると料理が面白くなってしまい、
腕はさらに上達した。
夫から美味しいと褒められると、さらにやる気が出て、そんな正のスパイラル状態が続く。


いよいよ本丸に乗り込むのだと思うと、理沙は身が引き締まる思いがした。
巨大な核融合燃料精製プラント、3つの作業プラットフォームの詳細設計がまとまり、関連会社との事前調整も始まり、
あとは予算がついてくれれば一気に建造を始めることができるまでに、事は進んでいた。
これからは、エネルギー省を筆頭に、タフな交渉が始まる。
有力議員に対する裏でのロビー活動は既に始まっていた。
理沙は大佐と連携して有力議員と会議を重ね、
木星の資源開発において、米国がリーダーシップをとることの必然性について説いた。
「とはいえ」
議員のひとりひとりと会うたびに、2人は同じような事を質問された。
「いったい、どれだけの予算が必要になるのか、この見積もりの範囲内で収まるものなのかね?」
技術論だけでは片付かないことだった。
数字しか見ない役人に対しては、技術論も、国防論も全く通用しない。
「あくまでも現時点での見積もりです。今後精緻化が必要となりますが。。。。」
理沙がそう言いかけたところで、議員からは言葉を遮られた。
「話にならん」
もっとやるべきことが山ほどある。
国が直面している早急な問題について、理沙はその後議員から長々と説明を聞かされることになる。
「国民は、20年後のエネルギー問題よりも、あすの生活の安定、飯の食いぶちの事しか頭にない」
中国の政変については、ようやく収束の気配は見えてきたものの、全世界が大きな痛手を被った。
理沙が仕事に追われているこの間にも、全世界で数万人が戦乱や餓死で亡くなり、
ヴェラが自宅で新しい料理メニューに取り組んでいる間にも、都市では路頭に迷っている失業者が溢れかえっていた。


*     *     *     *

ワシントンで議員と会議している間にも、STUで働いている[ミスター核融合]から理沙のもとにいくつものメールが入っていた。
「すみません、会議が長引いてしまいました」
画面の向こう側から、[ミスター核融合]は次々に現場で発生している課題事項について理沙に判断を求めてきた。
現場では、世間の喧騒とは全く関係なく、核融合燃料精製プラントの詳細設計が粛々と進んでおり、
10年以上前には単なる絵に描いた餅であったものが、ゴーサインが出ればいつでも組み立てが始められる状態にまで事は進んでいた。
理沙は答えられる範囲で即座に彼からの問いに答え、ひととおりの会話が終わると、
「まだ1年も経たないのに、ここまで組み上げてくれて本当に助かります」
3年はかかるだろうと思っていた詳細設計が、1年少々で完了しようとしているのは、
[ミスター核融合]含め、中国から流出した優秀な技術者たちの助けあってのこと。
アポロ計画が10年経たずに目的を達成できた裏に、優秀なドイツの技術者の存在があったように、
今回の木星開発事業のスピードアップの裏には、優秀な中国の技術者の存在があった。
「いやいや、あなたが望む通りのことをしただけです」
政変にて崩壊した国を去り、国外に連れ出せなかった親族の身の安全を心配しながらも、
彼らは寝る間も惜しんで毎日働いていた。
STUの役員や、事業団の職員からは仕事のペースの速さについての苦言も、理沙の耳には届いていたが、
理沙は事業団の長官から呼び出された際に反論した。
「彼らは国を失って、今は、命がけで働いているんです」
理沙もまた、彼らと同じように崩壊した国を見捨てて、米国で生きてゆく道を選んだ。
何としてでも予算を通さなくては。


*     *     *     *

自宅でいつものように過ごしていたヴェラのもとに、突然のメールが届いた。
差出人の名前にまったく心当たりはなかったが、
STUの関係者だということで、最初は夫の仕事と何か関連するところだろうと思った。
まずは会って話をしたいという先方からの申し出に対して、彼女は夫と相談すると言って会話を終わらせた。
あまりに唐突な事だったので、夫にも早速そのことを伝えると、
実在する部署であり、担当者の名前を出したときに即座に分かってくれたので、翌日に夫と同席で会うことを約束した。
「仕事の話だったら、あまり気が進まないんだけどね」
待ち合わせ場所の、近所のレストランに向かう車の中で、ヴェラは夫に言った。
「無理だったら、断ってもいいんだよ」
先方は1人だった。
STUの社員証を確認し、疑うところが全くないのを確認すると、すぐに相手は本題に入った。
「事業団在籍時にあなたが関わっていた仕事に、興味があります」
長々とした前置きはなく、自分たちが考えているプランと、その目的のために必要な技術エリアについて彼は完結に説明をした。
「自動化システムについては、予算と優先順位の関係で打ち切りになったようですが、必要性は今でも変わりません」
大々的に進められている、木星含めた深宇宙開発と比べて、自動化システムについてはSTU内で細々と研究が進められており、
次世代システムは名前を変えて改良が続けられていた。
10数年前のエリシウムの悲劇はまだ風化してはいない。
「太陽系の大規模開発は、自動化システムの手も借りないと進められません」
「必要性についてはわかりました」
ヴェラはひととおり彼の説明を聞き終えると、小さく頷いた。
「では、私に何を?」
彼は再び淡々と話を始めた。まるでその答えを待っていたかのように。
「生体とシステムを疎結合する実験に関わっておられたようで」
夫はヴェラの方を向いた。
しかし、ヴェラは慌てる事もなく、ええ、と頷く。
「すみません、ちょっと調べさせてもらいました」
と、少々怪訝そうな表情の夫に対し、彼は小さく頭を下げた。
「もしかしたらあなたの研究成果が、問題解決の糸口になりそうな気がしたので」


家路に向かう途中の車の中、2人はしばらく黙ったまま。
幹線道路から自宅のある住宅地手前の信号で止まったところで、夫は口を開いた。
「そういう事だったんだ」
運転する夫のことを横目で見ながら、ヴェラは、
「別に隠すつもりはなかったんだけど、もう終わった事だし」
「いや」
家に到着しても、2人は車から降りることはなかった。
「怒ってる?」
夫は首を振った。
2人は車を降りて家に入った。
ヴェラは夕食の支度を始め、30分ほどで食事の用意ができた。
食事を始めてすぐに、夫は言った。
「ヴェラがやりたいようにすればいいよ。別に止めないし、考えは尊重する」



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